青山圭秀エッセイ バックナンバー 第71号 – 第80号
最新号へ第71号(2013年10月23日配信)
エッセイ掲載はありません。第72号(2013年11月8日配信)
【クットララムの思い出】かつて、今から20年近くも前、
予言の指示により、クットララムの滝に48日間滞在したことがある。
クットララムの滝といっても、それはいくつかの滝の総称だ。
クットララム中心部に位置し、もっとも水量の多い「Main Fall」、
それよりも奥地に位置し、5つに分かれる水が美しい景観を創り出す「Five Falls」、
太古の人びとの水浴場だったと思われる「Old Fall」、
そして、私自身も行ったことのない神秘の滝「Fruit Garden Falls」だ。
48日間、私は毎日滝の水を浴びることが求められたが、
通常は午前と午後、Main FallとFive Fallsにそれぞれ一度ずつ、
自転車で出かけるようにしていた。そしてその都度、
まさに心身が共に洗われたような気持ちになって帰ってきたのだった。
ある日、ケララ州からシャシクマールがこの地を訪れ、
車でこれらの滝を巡ろうという話になった。
そこでこの日は、午前中一カ所で沐浴をしておき、
午後、シャシクマールと一緒にクットララムの滝巡りをした。
彼は車を降り、涼しげにこれらの滝を眺めるだけだったが、
しかし私はといえば、大喜びでこれら3カ所で水を浴びた。
そして夕方、シャシクマールと別れを惜しんだ私は、
掘っ建て小屋の一隅で横になると、一人苦しみ始めたのである。
肝臓のあたりに、奥深い痛みがある。
まるで胆汁が絞り出されているかのように思えるほど、
何かが肝臓で起きている。
それはまるで、これまでの人生でたまった毒素のすべてを、
一時に排泄しようとしているかのようだった。
健康によいとされる温泉も、3時間、4時間とは入り続けないように、
強い解毒作用のあるクットララムの滝は、
一度に3カ所も4カ所もで浴びるものではないようだ。
祈りを捧げ、感謝して、一日に一カ所か二カ所で水浴びをさせていただく。
そのような者に神々は、適切な排毒をさせ、
肉体的にも精神的にも十分な恩寵をお与えになるらしいことを、
身をもって学んだ一日であった。
第73号(2013年12月6日配信)
【人生の取り違え】草戸大橋は、福山市を縦断する芦田川にかかっていて、
近隣では縄文の遺跡・草度千軒が発掘され、考古学の研究対象にもなっている。
この橋からは県道が延び、わが家はその県道沿いにあったので、
草戸大橋やその周辺の土手では友達とよく遊んだ。
そして子供の頃、顔かたちといい、性格といい、関心のありかといい、才能といい、
ことごとく私とは正反対のようだった兄は、好んで言った。
「おまえは、実は何を隠そう、草戸大橋のたもとでワシが拾うてきたんよ」
もちろん、それは冗談だろうと今も思っている。
ただ、Aさんの場合はそうではなかった。
「長男はお父さん似で、次男は私似、でもあんたは一体、誰に似たのか……」
母親は、そう言っていぶかったという。
そのとおり、Aさんは“父親”にも“母親”にも、
そして二人の兄にもまったく似ていなかった。
それもそのはずで、
60年前、同じ病院で13分違いで生まれてきた別の男性・Bさんと、
取り違えられていたのだった。
それが発覚したのは、やはりBさんのほうの弟3人が、
おかしいと思ったのが原因らしい。
一人だけ、一向に親の介護に関心を示さない長兄に対し、
遺伝的な違いを感じたというのであるから、
もともと相当な違和感があったに違いない。
60年前のことを調べるのは困難を極めただろうが、
幸いにして病院に記録が残っており、
また、Aさんの居所も探偵が調べたという。
『王子と乞食』の童話ではないが、
取り違えられたがためにAさんは貧しい家庭に育ち、
生活保護を受け、中卒で町工場に就職、その後、トラック運転手となった。
もともとの家庭では、4人の兄弟全員が私立高校を出て、大学に進んでいる。
また、Aさんは実の両親に会うこともできなかった。
そんなこんなに対する損害賠償の請求額は2億5000万円、
認められたのは、3800万円であった。
いろいろな価値観があるだろうが、
一生を取り違えられたことを考えれば、
この額が果たして妥当なのかどうなのか……。
このようなことが明るみに出ると、誰が考えても分かるのは、実は世の中には、
こうした新生児の取り違えはもっとたくさんあったに違いないであろうことだ。
明らかに、こうして発覚するのは、氷山の一角にすぎない。
しかし、さらに冷静になってみれば、もっと広い意味での“運命の取り違え”は、
実は私たちの人生のなかでより頻繁に起きている。
自分の人生を振り返ってみても、よい悪いは別として、
たとえば私は父の一言で、行くべき中学・高校を“取り違え”た。
そうして進んだ中学・高校の教師の影響で、
その後の宗教観や人生観が大きく変わりもした。
それぞれの人の人生に、あの同級生がいなければ大学には進んでいなかった、
母親のあの一言で、あの人と結婚できなかった……等々の歴史が埋ずもれている。
そのようなことが無数にあって、そのときどきで運命は大きく舵をきり、
まったく違った人生が展開する。
その違いはお金になど換算できないが、強いて換算すれば、それぞれが、
3800万円よりは2億5000万円に近いかもしれない。
そう考えてみると、日々の生活のなかで、
100円とか200円を節約しようとしてさまざま努力している自分は一体何なのか……。
そんなことを想ってはまた、せわしない日常に戻る、年の瀬である。
第74号(2014年1月1日配信)
『ダルマについて』生まれて初めて本を書いたとき、これをある賞に推薦したいという作家の方が現れた。
そんなことは想像もしていなかったので、ただ驚いていると、
出版社の社長が言われた。
「今は何もしなくていいけど、この方になにかあるようだったら、
今度は青山さんのほうで何かして差し上げることを考えるんですよ」
ことの善し悪しは別として、世間を知らない30代の若輩者に、
大人のつきあいとはそうしたものだと教え諭すような、社長の言葉だった。
二冊目の本が出たときには、さらに興味深いことがあった。
当時読売新聞の書評委員であられた、作家の宮本美智子さんがお手紙をくださり、
読売の書評に取り上げたいと書かれていた。ほどなくして、
「私はいまだ、これほど感動した本に出会ったことがない」という文言が、
読売新聞の書評欄に載ったが、しかしそれは異例のことだった。
いわゆる精神世界を扱っていたからではない。
ちょうどその頃、宮本さんの『世にも美しいダイエット』がベストセラーになっていて、
『アガスティアの葉』とは週替わりでベストテン上位を争っていたからだ。
“敵に塩を送る”かのような宮本さんのご好意に私は驚き、
それは後に個人的な交友関係に発展したのであったが、
後になって彼女がそっと教えてくれたことがある。
『アガスティアの葉』を取り上げるにあたっては、書評委員会で議論になった。
実は、ひどく反対した委員が一人だけおられたというのである。
『アガスティアの葉』の内容は、理解できない方には決して理解できないであろうから、
私はこれを聞き流していたが、その方はその後、政府の行革断行評議会委員を皮切りに、
道路関係四公団民営化推進委員会や地方分権改革推進委員会の委員に次々就任、
東京都副知事になって、あれよあれよという間に知事になられた。
そうして、東京オリンピック招致の際には、
大きな身振り手振りでこれに尽力された姿は記憶に新しい。
人生の、まさに絶頂期を迎えようとしておられたかに見えた。
が、その様子をみたとき、私は直感したのであった。
(この方は、政治家に向かない……)
そして、ついでにこう思った。
(この知事のもとで東京オリンピックを迎えることにはならないだろう……)
今日までの、そして今日の日本を見回してみても、その仕事には向かないでしょう、
ダルマが違うでしょう、と思ってしまう方はさまざまにいる。
そういう方が権力の座にでも就けば、どんなに人間としてはいい人のようでも、
社会や、国家に多大な損失を及ぼして退任するようになるのである。
このほど知事を退任されたI氏についていえば、この方はよいこともたくさんされ、
それほど大きな害悪を及ぼすことなく退任されたので、まだよかったといわざるを得ない。
今後は作家として、ふたたび活躍されることを祈るばかりだ。
人は、自分のダルマをさまざまに思い描く。
聖者ヴィヴェーカーナンダは、子供の頃、貞淑な妻を得て幸せな家庭を築くことが、
自分のダルマであると考えたという。
だが、それは違っていた。後に聖者となる人ですら、そういうものなのだ。
いつも書いているように、人は、そのときどきの自分の意識レベルに応じてしか、
自らのダルマを認識できない。
そして、自分のことは分かりにくいものなのだ。人のことはよく分かっても。
わが国では、『一年の計は元旦にあり』というが、
あえて言う。『一年の計は、元旦の意識状態にあり』
なので私は、大晦日の晩に願う。
新しい年もこつこつ仕事をし、瞑想を重ねて、
皆さんとご一緒に意識の進化を進めていきたい。
第75号(2014年1月27日配信)
それは、通常では起こり得ないことだった。以前にも<プレマ通信>70号(2013年8月26日)に書いた楽天の田中将大投手はその後も勝ち続け、
とうとう24勝無敗のままレギュラーシーズンを終えたのである。
それは「奇跡」ではない。が、少なくとも「奇跡的」であったのは確かだ。
その田中投手は、このほど新しいポスティング制度により、大リーグに移籍する。
ニューヨーク・ヤンキース。年棒は、7年で161億円となる。
思えば、高校3年の春の選抜大会、田中の母校は北海道代表に選ばれながら、
野球部員の不祥事で出場を辞退することとなった。
高校最後の夏の大会、田中は甲子園決勝まで駒を進める。
が、そこに立ちはだかったのが、あの「ハンカチ王子」だった。
15回を投げ合って決着がつかず、翌日の再試合では一点差で敗れた。
続いて、秋の国体も斎藤と投げ合い、ふたたび一点差で敗れる。
ヒーローとなり、国民のアイドルとなったのは、勝敗も、見た目も斎藤だった。
が、ここで運命の女神は、まるで心変わりしたかのように両者を乗り換える。
その後の田中のプロでの活躍に対し、斎藤の凋落ぶりは見る影もない。
その昔、知人の経済評論家と食事をしていたとき、テレビからニュースが流れてきた。
松坂大輔が高卒新人としては史上初、3年連続で最多勝をあげ、
この年はとうとう沢村賞を受賞したというニュースだった。
甲子園の決勝でノーヒット・ノーランを達成したこの怪物は、
まさに日の出の勢い、止まるところを知らなかった。
「こういう人がいるものなんですね……」
私が思わずつぶやくと、評論家先生は「いや〜〜」と言いながら、
次のように答えたのだった。
「こういうのは、そういつまでも続くものじゃないですよ」
松坂の場合は、かなり長い間、それが続いたと言ってよい。
しかし、鳴り物入りで大リーグに移籍した後は、
二年目に18勝を挙げたものの、その後は鳴かず飛ばずとなり、現在に至っている。
私は、もし田中が今年も日本でプレーした場合、
昨年のように連勝に次ぐ連勝というわけにはいかなかっただろうと思う。
こういうものは、どこかでプツンと途切れ、そうして後はそれほど続かないものだ。
仮に今年も上々の成績を残せたとしても、3年は続かなかっただろう。
今回の田中の契約は、投手としては歴代5番目の大型契約であり、
大リーグにおいても異例にして破格であるという。
考えてみたらよい。年間安打数の大リーグ記録を塗り替え、
すでに首位打者を二回、MVPや新人王にも輝いたイチローですら、
更改した契約は5年で90億円だった。
それを考えれば、すでに肩を相当程度消耗しているかもしれない、
昨年の活躍はある程度偶然であったかもしれない、
いまだ大リーグで一球も投げていない若者に161億円を払うのは、やはり破格である。
あらたな制度の改変に伴い、入札自体が20億円で抑えられたこと、
昨年低迷したヤンキースが、今年はどうしても大型補強に賭けざるを得なかったこと、
A.ロッドが薬物疑惑で一年間出場できず、その年俸26億円が浮いたこと……等々、
さまざまな偶然が重なり合って、今回のような結果が生まれた。
しかしそれにしても思うに、
人が活躍したり、お金持ちになったりすることは、どうしてこんなに愉快なのだろうか。
田中とその妻が、純朴で、無邪気に見えるからか。
東北の被災地をしばしば訪れたという田中が、このお金を、古巣楽天への寄付以外にも、
きっとよいことにたくさん使ってくれそうな気がするからか。
いろいろ考えはしたものの、結局私は、次のような結論に達した。
すなわち、こうした“幸運”が、私たちが一人残らず内側にもっている“価値”、
無尽蔵ともいえる“財産”を、心のどこかで連想させるからではないか。
それは実は、「7年で161億円」などより霊妙なものであることはもちろん、
それよりはるかに巨大なものでもある。
田中は、そのうちのほんのごく一部を、今回お金に替えたにすぎない。
それが単なる空想ではなく、現実のリアルなものであることが感じられ、連想されるから、
こうした話が楽しいのかと、私は勝手に想像するのである。
第76号(2014年2月14日配信)
『巡礼の路』かつて『大いなる生命と心のたび』で行ったサンティアゴ・デ・コンポステーラは、
キリスト教世界三大聖地の一つといわれるだけあって、
ヨーロッパ中のキリスト教徒の巡礼の的であり続けた。
その道のりは遠く、はるかで、
人びとは数カ月をかけ、徒歩でこれをたどる。
その道中には、巡礼の旅人を無料で泊めてくる教会や、敬虔な信徒の家がある一方で、
追剥や強盗、山賊も容赦なく出没し、
多くの人は身ぐるみをはがれ、または命を落としもしてきた。
そんなとき、正義の聖者ヤコブが現れて旅人を助けるかといえば、
そんなサイババの奇跡のようなことが起きようはずもなく、
あえなく旅人たちは行方不明となった。
その実、彼らは殺され、路の脇に捨てられたのだった。
それでも、過去1000年以上にわたり、
年間数百万という敬虔な老若男女がこの地を目指すのは、
いうまでもなく、それだけの力が聖地にも、聖者にもあるからである。
サンティアゴ・デ・コンポステーラがキリスト教世界の代表的な巡礼地なら、
聖サバリ山はヒンドゥ教世界のそれに当たる。
人びとが何カ月もかけて徒歩でこの地を目指すことも、
追剥や山賊が出没することも同じであるが、
こちらはそれにさらに輪をかけて過酷な旅となる。
人は、神々への贈り物を頭上に乗せ、裸足で聖地に向かう。
その途中、柔らかい布団やマットレスに眠ることは許されず、
朝夕には水で沐浴をし、肉食をせず、髭を剃らない。
荒々しい言葉づかいをすることは許されず、頭上の荷はずしりと重く、
それでもただひたすら、聖地を目指すのである。
そこにある神像がどんなに壮麗・巨大なものであるかを想像すると、
われわれは間違うことになる。
聖サバリ山にましますアイヤッパ神の神像はごく小さく、
それどころか、これを目にすることは普通はできない。
あれほど長期間にわたり、苦しみを経て到達しても、
多くの巡礼者は神像をチラリと見ることすらできないほど、
現地は人びとでごった返しているのである。
それでも一度、その神像の前に十数秒(くらいであろう)止まることのできた私は、
周囲の人びとのなりふり構わぬ祈りの激しさに圧倒された。
それは彼らの信仰の心、というよりも、
神々との間に交わされる“念”なのであった。
さて、1月12日のプージャの際に捧げたギーは、ココナッツの中に入り、
その後、われわれが選んだ一人の敬虔なインド人の頭上に乗って聖サバリ山に登った。
そうしてついに、そのギーをアイヤッパ神像におかけするということに成功し、
なんとその実物が日本に戻って来たのである。
最近お読みした、ある敬虔な方の予言のなかには早速、
このギーを使ってインドの甘みを作り、
アイヤッパ神の儀式に捧げるようにという指示があった。
敬虔なインド人なら涙を流していただくようなギーをふんだんに使い、
会場でその甘み(ポンガル)を作る。
そうしてアイヤッパ神に捧げた後、これをわれわれはいただくこととなる。
前回、ギー・ココナッツを作ったプージャに参列された方も、できなかった方も、
今回のプージャに参加し、それぞれの願いを捧げていただきたい。
いまのところ、十分と思われる数の食事をご用意しているが、
万が一、足りなくなるといけないので、
参加される皆さんは是非、事前に予約をしておいていただきたい。
ひと月前、皆さんとご一緒に祈りのなかで捧げたギーが、巨大にして神聖な力を得、
われわれを助けるためにこうして戻ってきてくれたことに感謝したい。
われわれは日本にいながらにして、仕事も生活も続けながら、
聖サバリ山巡礼をしたに近いものを得ることができるのである。
また、このような祈りと供儀を共有できる多くの皆さんとのご縁には、
さらに大きな感謝の気持ちを抑えることが、
私にはできない。
第77号(2014年3月28日配信)
今の住居に越してきて9年、その間、幾度となくケーブルテレビの宣伝・チラシを受け取ったが、
ほとんど考慮したことはなかった。
地上波だけでも、いい番組は十分にあるし、
テレビなんていうものはタダで観るものという概念も染みついていたからかもしれない。
しかし、最近、理由あってケーブルテレビを契約してしまった。
月々3〜4000円をテレビに使うというのには相応の勇気もいり、抵抗感もあったが、
しかし契約してみると、意外な発見をときどきする。
当初私は、レギュラーに観るのはDiscovery Channelだけだと思っていた。
実際、同チャンネルには、特に科学関係の、秀逸な番組がときどきある。
ところが、科学関係以外にも、面白い番組があることに最近気づいた。
その一つは、Bear Grillsの『サバイバル・ゲーム』だ。
元イギリスの海兵隊員だったベア・グリルズが世界中のさまざまに困難な地域に降り立ち、
技術と体力、そして何より精神力を駆使してサバイバル生活を送る。
この番組を初めて観たとき、次のようなシーンに遭遇した。
人里を求めて、ベアはアフリカのサバンナをひたすら進む。
ふと見れば、前方にシマウマの死骸が転がっている。
ハイエナやハゲタカが腹一杯食べた後の残骸だ。
すると彼はナイフを取り出し、この死骸から器用に肉を切り取るや、
勢いよく食べ始めたのであった。
そのうちに、ナイフで切り取ることすらしないで直接シマウマに噛み付き、
ライオンさながら首を左右にねじって肉を噛み切る。
その間、私はただ唖然として、観ている他なかった。
だが、そんなのは序の口だった。
砂漠ではサソリをつかまえ、毒の部分を切り落としてこれを口に入れ、
湿地帯では、ヘビやカエルを生け捕り、これまた生で食べ、血をすする。
寒冷地では、凍った動物の死骸を見つけ、素早く火をおこしてバーベキューにし、
森林地帯では巧みにワナを作ってウサギを生け捕り、丸焼きにして食べるのだ。
おそらくこのエッセイの読者の皆さんは全員、
そのようなシーンは、想像するのも厭だと思われるだろう。
私も、こうまでして人は生きるものなのか、生きなければならないのかとも思う。
だが、人は本当に飢えれば、どんなことをするか分からないものだ。
アンデスに不時着した飛行機の乗客は、死んでいった者の肉を食べて生きながらえ、
小舟で遭難した4人のクルーは、一人をくじ引きで選び、彼を殺して食べた。
そのようにして生還した彼らの、力の源泉となったのは何なのか。
それはやはり、「生きたい」という、人間の根源的な欲求だ。
しかしなぜ、われわれはそんなにも生きたいのか。
生きていれば、いいことがありそうだからか?
だが生きていれば、同じか、それ以上の確率で、悪いこともある。
ならば、なぜ?
答えは、一つしかない。
肉体をもって生きることで、速やかな進化が得られるからだ。
生きていれば、いいこともあるだろうし、悪いこともあるだろうが、
必ず、常に、われわれは進化する。
それが、肉体をもたないときには得られない、何ものにも代えがたい機会だからこそ、
われわれには「生きたい」という本能が備わっている。
生きるためには、他の生命を食べ、犠牲にせざるを得ないが、
それでも生きたいとわれわれは願うのである。
今年もあっという間に桜の季節が来て、年度が変わる。
この分ではすぐに桜も散り、夏が来て終わり、
冬が来て今年も終わるであろうことに、一抹の警戒感を抱かざるを得ない。
時は、十分に活かされているか?
自然界の犠牲のもとに生かしていただいている自らの生を、
より進化させ、それを他の生命のために還元しているか?
春に向かう自然の生命力を観るにつけ、そのようなことを自分に問いかけている。
第78号(2014年4月28日配信)
『日本の、中央の位置にある由緒ある寺3カ所に行き、……』突然にこのような文言が予言のなかに登場してきたのは、今年2月のことだった。
“日本の中央”といえば、皆さんはどのあたりを思い浮かべられるだろうか。
私は咄嗟に、京都や奈良のことかと思い、予言の読み手にそう言った。
ところが彼は、納得したような顔をしなかった。
予言の文言には、それぞれ独特の“香り”のようなものがあるらしく、
ときどき出てくる『キョウトに行きなさい』といった記述とは、
この文は雰囲気が違うというのである。
私は、日本の全体が載っている地図を出してきて、物差しを当ててみた。
「日本列島は、龍の落し子のような形をして、北東から南西に伸びている」とは、
小学校のときに習った言葉だ。
その北東の端といえば……、北方領土である。
不幸にして終戦時、わが国が無条件降伏をした後でソビエトが侵攻し、
不法に居すわってしまった地だ。
では、南西の端は?
実にそれは、九州から種子島、屋久島、大島、徳之島、沖縄を経て、
遠く宮古島、石垣島、西表島、与那国島までが日本であり、
驚いたことに、そこはもう台湾に隣接している。
択捉島の北端から、与那国島の西端までを一直線に結び、
その中間の地点をとるとどこになるか……。なんと、
山陰地方……すなわち、出雲がそこにあるのである。
ちなみに、仮に北方領土を日本ではないと考えて、
北海道・知床岬の東端から与那国島の西端を結ぶと、その中心地点は、
これも意外なことに、私が生まれ育った地のあたりとなる。
では、どちらにするのか。
日本人ならば、北方領土は日本の一部と考えるのが普通であり、私自身もそう思っている。
聖者は、私がそう思っていることを当然ご存じだろう。
「ついに、出雲大社がでた……」
そう言うと、予言の読み手も納得したような表情をした。
近いところでは浅草や鎌倉、
やや遠くでは、京都や奈良、伊勢や四国に行きなさいという指示は、
予言のなかにしばしば出てくる。
しかし、伊勢神宮と並んで、日本の国作りの元となったはずの出雲大社は、
なぜ出てこないのか……。
何人かの方にはそう指摘されていたし、私も長い間、そう思っていた。
しかしとうとう、こうした微妙な表現で、出雲大社に行くことが示唆された。
そうしていたところ、3月には、今度は『イズモ』という固有名詞が、
他の二人の方の予言に登場してくることとなった。
伊勢神宮には、すでに十数回は“通った”。
出雲大社が今まで出てこなかったのは、単に遠いからなのだろうか。
いや、遠いという意味では、インドでクットララムの滝の水を汲んできなさいとか、
フランス・パリにあるヒンドゥ寺院に行きなさいとか、
ハワイに行きなさいといった指示はあったのだ。
あるいは、わが国の歴史や神話のなかで、
伊勢と出雲の間にあった微妙な関係が、このような差異を生んだのか……。
とすると、それはすなわち、神々の間の出来事に関係してくるわけであるが、
その本当の意味は、われわれには知る由もない。
『瞑想の師とイズモに行きなさい』と書かれていた人はまことに忙しく、
平日の空いているようなときを選ぶことができなかった。
そこで明日、私は出雲に飛ぶ。
奇しくもこの日は『昭和の日』であり、日本の建国とも、戦後の再出発とも関係が深い。
ちなみに、3・11の津波で亡くなった高橋夫妻の忘れ形見である和芳ちゃんが、
この地で祖父母に育てられている。
当時、小学2年生だった彼女は、この4月には5年生に進級した。
出雲を参拝した後、彼女に会えるということが、今は何より楽しみでならない。
第79号(2014年5月21日配信)
エッセイ掲載はありません。第80号(2014年8月22日配信)
『私の広島』世の中には、小学校やまたは中学・高校時代、学生時代が楽しかったと言う人が、
わずかながらもいるものだ。
または、自分は師に恵まれたと言うことのできる人もまた、幸いだ。
以前にブログに書いたことがあるが、
私が小学校に入ったとき、一年生も、二年生の担任も、それぞれにいい人だった。
ところが、三年生にあがって、あれ……と思った。
この人は、子供が泣くほど宿題を出したのである。
いまだかつて仕事が速かった試しのない私も、
この先生の宿題の量には圧倒され、呻吟した思い出がいまだにある。
そしてまた、彼女はヒステリー持ちでもあったので、ときに教室は修羅場と化した。
この先生からは早く離れたいと子供心に思っていると、
有り難いことにそのとおりになって、四年生の担任は男性教諭だった。
……が、この方はアル中であった。
しばしば二日酔いで現れ、教室内でタバコを吸った。
朝から気持ち悪そうにしながらタバコをふかしているのであるから、
仰ることにも一貫性はないし、教育にかける情熱も見られなかった。
この人はもう無理……とわれわれのおそらく全員が思っていたころ、
先生は、酔っぱらって国道を歩いていて、ダンプカーに跳ねられ亡くなった。
私の小学校は、基本的に担任が二年毎に代わるはずなのに、
こうして一年から五年まで、毎年担任が代わっていった。
そして最後に、まさに真打ちともいえる人物が登場する。
特定の政治信条の持ち主であったこの女性教諭から、
私たちはしこたま、偏向教育を受けることとなったのである。
人と人が助け合い、共生しなさいというのであるから、
その意味では共産主義の考え方自体は悪くない。
しかし結局、それが人を幸せにするものではないことを、
この年代で私たちは骨の髄から学ぶこととなる。
ちょうど、戦争に行って苦しんだ人が、戦争だけはしてはいけないと思うように、
原発事故で苦しんだ人が、原発だけはだめだと思うように、
たとえ、それを信奉する人たちがいい人たちだったとしても、
人生は理屈ではないのである。
このような四年間を経て、どうしても新天地を求めざるを得なかった私は、
駆り立てられるようにして広島に出、中学・高校時代を過ごすこととなる。
そこで最初のヨーガの先生や倉光先生、大木神父と出会うことになるのであるから、
人生、何が幸いするか分からない。
今回、その広島に集中豪雨があり、多くの方が苦しまれている。
昔から知っている地名がニュースに出て、聞き慣れた訛りが聞こえる度、
懐かしさと同時に、事故の痛ましさが胸に迫る。
こうした災害が起こる度、
われわれの自然界に対する接し方が間違っていたのではないかと思えるのであるが、
さりとて、自然を開発・利用しないで生きていくこともできない。
広島でわれわれが学んだ校舎も、寮も、山を削って建てられたものだった。
今住んでいるマンションも、自然のままの住まいであるかといえば、そうではない。
それらをどのように折り合いをつけて生きていくのか……。
結局のところ、自然の法則は、従えばわれわれを幸せにし、
反すればそのことをまた教えてくれる。
そのようにして日々起きてくる現象のなかから、
何があっても、どこにいても、淡々と学び続けることが、
肉体をもつわれわれの進化の道筋なのだろうと、あらためて思うのである。
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