『五輪 9』―4連覇―

日本の男子体操がオリンピックで5連覇を果たした最後の年、
モントリオール・オリンピックのとき、私は高校3年だった。
忘れもしない7月下旬、女子体操の規定演技を何気なく見ていると、
一人の少女がテレビに映し出された。
当時無名であったこの少女は、まるで当然のように完璧な演技を行ない、
それに対してオリンピック体操史上初の10点満点が与えられた。
ナディア・コマネチが世界にデビューした瞬間だった。

彼女は、まさに天才だった。
が、4年後のモスクワ・オリンピックでは、少女から大人びた女性の体型となり、
個人総合で銀メダルに終わっている。
このとき、コマネチが平均台でぐらつくのを初めて見た世界は、
女性らしいふくよかさと現代体操競技における高得点とは、
両立しないということをはっきり見せつけられたのであった。

天才コマネチにも成し得なかったオリンピック2連覇なのに、
それが3連覇となればとてつもなく難しいし、まして4連覇ともなれば、
今大会前まで、個人種目でなし遂げたアスリートは二人しかいなかった。
1956-1968年のアル・オーター(アメリカ、男子円盤投げ)と、
1984-1996年のカール・ルイス(アメリカ、男子走幅跳)である。
あのカール・ルイスも、100mでは2連覇、200mでは1回しか勝っておらず、
4年に一度しかないオリンピックを連覇することがいかに難しいかがよく分る。

今回のオリンピックでは、怪物マイケル・フェルプスが4連覇をなし遂げたが、
次の候補は、女子レスリングの吉田沙保里と伊調馨の二人だ。
……と、数日前、私はこのブログの下書きに書いた。
以下は長いが、そのときの原稿をそのま引用する。

(引用始まり)--------------------------------
ところが日々、バタバタとしている間に伊調馨のほうは4連覇をなし遂げてしまった。
ちなみにレスリングでは、かつて“霊長類最強”と謳われたロシアのアレクサンドル・カレリンが3連覇をなし遂げた後、4回目のオリンピックとなるシドニー大会決勝でまさかの敗退を喫して銀メダルに終わっていることを見ても、個人4連覇がいかに困難であるかがよく分る。
これを乗り越えた伊調馨の才能と精神力には脱帽する他ないが、
ちなみに彼女は、北京オリンピックが終わった後、一度引退を表明している。
そこからカムバックして、ロンドン、リオと勝ったわけだが、
では、もう一人の吉田沙保里のほうはどうか……。

彼女は今回のオリンピックで日本代表チームの主将を引き受けているが、過去、
96年アトランタ五輪の谷口浩美は、男子マラソンで19位、
2000年シドニーの杉浦正則は野球で4位、
04年アテネの井上康生は、柔道男子100キロ級で準々決勝敗退、
08年北京の鈴木桂治は、男子100キロ級で初戦敗退、
12年ロンドンの村上幸史は、陸上・やり投げで予選敗退している。
主将にはどうしても精神的重圧がのしかかるからではないかともいわれているが、
こうしたいわゆる“ジンクス”は、
彼女の精神力をもってすれば何とでもなると私は思う。

すでに書いたように、彼女が現地入りしたのはあまりにも遅く、
しかも時差調整なしの日本からだったので、おそらく体はまだ本当には適応していない。
そのあたりは、一旦アメリカ入りして調整していた伊調馨と対象的だ。
今回のオリンピックも、時差調整をしっかり行なった選手とそうでない選手とでは、
やはり明暗が分かれた。しかしそれも、
「霊長類最強女子」といわれる彼女にしてみれば、杞憂に過ぎないかもしれない。
だが、最後の側面については、私はどうしても一抹の不安を拭うことができないでいる。
それは、なんと言ってよいのか、いわゆる“カルマ”の側面ともいえるだろうか。

話はオリンピックから離れるが、一世代前、ボクシング界で世界最強だったのは、
マイク・タイソンである。
当時、世界中の格闘家で、タイソンに勝てる者は一人もいなかっただろう。
ところが、契約問題でもめ、名コーチであったケビン・ルーニーを一方的に解雇してから、
彼はまるで別人のように弱くなった。そうしてついに、
ふたたびかつての強さを取り戻す日は来なかった。
ケンカと非行、犯罪に明け暮れた少年時代から、一転、
世界王者に輝いたタイソンのファンであった私は、その後、
成功を納めた人がかつて世話になった、
自分を引き上げてくれた人と離れた後どうなっていくかに関心をもつようになった。

長野オリンピック・スピードスケート男子500メートルで感動の金メダルをもたらしてくれた清水宏保は、それまで苦楽をともにしてきた三協精機を退社し、
フリーとして次のオリンピックに万全の準備をしたかに見えた。
しかし結果は、二位に終わった。
トップとの差は、0・03秒だった。
アテネ、北京の男子平泳ぎで2個ずつ金メダルをとった北島康介は、
平井伯昌コーチのもとを去ったロンドン・オリンピックでは、
個人で一個のメダルもとることができなかった。
シドニーで日本女子陸上界初の金メダルをもたらした高橋尚子は、
小出義雄監督のもとを離れた後は、オリンピックに出ることすらなかった。

今回、吉田沙保里は長年世話になったALSOKを離れ、フリーとなっている。
こうしたことは、当事者にしか分からないそれぞれの事情があるだろうし、
本人にとってみればそれなりに合理的な理由があってのことに違いない。
吉田がALSOKでやらされているCMは酷すぎるという言い分ももっともだ。
しかしそれにしても、同じALSOKを離れるにしても、
せめてこの五輪後にすることはできなかったのだろうかと、私は思う。
もしこうしたことのすべてが杞憂であったということであれば、
私のなかで、それは新たな吉田沙保里の伝説となるかもしれない。
(引用終わり)--------------------------------

今回のオリンピックでの銀メダルが決まった後……
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『五輪 8』―連覇―

日々、新たなヒーローとヒロインが誕生し、ドラマが繰り広げられるオリンピックだが、
体操・個人総合では内村航平が2連覇を果たした。

4種目を終わった時点で、一位ウクライナのオレグ・ベルニャエフとの差は0.401。
ちょっとした演技の綾で、まだ逆転が可能な位置だった。
だが、5種目目の平行棒でベルニャエフが会心の演技をし、
なんと16点台を叩き出した。
内村の演技も決して悪いものではなかったが、差は0.901に広がり、
残り1種目での逆転は絶望的な状況となっていた。
最終種目は鉄棒。予選で内村がよもやの落下を演じた記憶がよみがえる。
今回は逆に、一位の選手が落下でもしないかぎり、逆転は難しい。
自国の選手をひいきするあまり、
(失敗して……)と内心で願う態度はスポーツファンとして浅ましいし、
さりとてオリンピック・世界選手権合わせて7連覇の内村が負ける姿も観たくない。
これを生で見ていなくてよかったと、後で思ったものだが、
しかしその後の内村の圧巻の鉄棒や、逆転優勝が決まったシーンなど、
生で見ていられたらどんなによかったかとも思う。

オリンピックの個人総合連覇は、歴史上、内村を入れて4人しかいない。
うち、二人は日本人だ。
もう一人は加藤沢男で、体操ファンなら誰でも知っている。
1968年のメキシコオリンピックで個人総合のトップを走っていたのは、
当時日本と体操界の勢力を二分していたソ連のボロニン選手だった。
逆転はほとんど不可能な点差であったが、最終種目、ボロニンは鞍馬で落下。
それに対し、加藤沢男は床で9・90を叩き出したのだった。
まさに、奇跡の逆転優勝。
ちなみに、このときの加藤沢男の床運動の最終技は、後方伸身宙返り一回ひねり。
今なら、中学生、いや小学生が行なう技である。

続くミュンヘンでも加藤沢男が個人総合を制したが、
このときは監物永三が銀メダル、中山彰規が銅メダルで、
団体金に続き個人総合でも日本人選手が金銀銅を独占するという無敵ぶりだった。
また、種目鉄棒では、塚原光男がいわゆる「月面宙返り」を発表し、
9・90を出している。
「後方1回宙返り1/2ひねり+前方1回宙返り1/2ひねり」という技であるが、
初めてこれを見たとき……
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『五輪 7』―怪物―

イアン・ソープのような超人はもう当分現れないだろうと思っていたら、
彗星のように登場して、あっという間にその記録を塗り替えてしまった男が出た。

ちょうどソープと入れ代わるように登場した2004年アテネ・オリンピックで、
6つの金メダルと2つの銅メダルを獲得したのがマイケル・フェルプス、
後に「水の怪物」と呼ばれるようになる。 
2008年北京ではついに、出場した8種目すべてで金メダル。
うち、7つが世界新記録。一つがオリンピック新記録であった。
2012年ロンドンでもなお、4つの金メダルと2つの銀メダルを得、
その輝かしいスイマーとしての経歴を閉じた。
獲得した22個のオリンピック・メダルのうち、金メダルが18個なのだから、
「水泳において、やるべきことは全てやった」と語ったのも無理はない。
「これまで、競泳であちこちの町を訪れたが、実際に町を観光したことはない。
 ホテルとプール以外のものも見てみたい」
そう言って引退したはずのフェルプスであったが、
しかしその彼が、なんと今回のオリンピックにいたのである。
解説者や役員としてではなく、選手としてだ。

200メートル個人メドレー。日本期待の萩野公介は第6コース。
ところが、第5コースにはかつてのこの種目の世界記録保持者ロクテ、
第3コースには地元ブラジルの英雄ペレイラ、
そして中央、第4コースにフェルプスがいた。
競泳界にカムバックしていたのだ。知らないのは私だけだったのか……。
4大会連続でオリンピックに出場しただけでも脅威的なのにレースの結果は……
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『五輪 6』―超人―

2001年9月11日、一人の青年が最上階からの眺望を楽しもうと、
ニューヨークは世界貿易センタービルに向かっていた。
が、彼は途中でカメラを忘れたことに気づき、引き返す。
ふたたび、貿易センタービルに向かおうとしたとき、彼は、
そのビルが炎と煙に包まれていることを知り、愕然とした。
その前年のシドニー・オリンピックで、彼は3つの金メダルと2つの銀メダル、
3年後のアテネでも、2つの金メダルと、銀、銅のメダルを得ている。
数々の世界記録を樹立したイアン・ソープ―水の超人―である。

2004年、アテネオリンピックの代表選考会で、
ソープは男子400mのスタートでフライングし、失格となった。
「騒音に反応してしまった」として救済措置を求めたが認められず、
ソープのオリンピック連覇の夢はついえた……かに見えた。
しかし1ヵ月後、選考会2位であった同僚のクレイグ・スティーブンスが400mを辞退し、
ソープは特例でオリンピック出場権を得ることとなる。
期待に応え、アテネでは自由形200mと400mの金メダルと100mの銅メダルを獲得。
水泳の100mと400mでは、陸上の短距離と長距離ほど違うといわれるが、
オリンピックで100-200-400mの組合せでメダルを獲得したのは、
これまでソープただ一人である。

そのような超人ソープ(Thorpe)の泳ぎを、人はThorpedo(ソーピード)と呼んだ。
Torpedo(魚雷)からの造語である。
結局、彼はオリンピックで5つの金メダル、3つの銀メダル、1つの銅メダルを獲得、
世界選手権においても何大会かにわたり11個の金メダルを得た。
アスリートとして輝かしい業績を打ち立てた水の超人。しかし彼は……
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『五輪 5』―苦行―

1984年、ロサンゼルス・オリンピック。
日本中が注目していたのは、瀬古利彦の“金メダル”だった。
無理もない。それまで9回マラソンを走って6勝。
過去5回の国際大会すべてで優勝していた。
当時名伯楽といわれた中村清監督は、瀬古を自宅横に住まわせ、
日々の練習以外にも、食事等生活のすべてを管理。
トイレを突然開けてその状態まで問うたというほどの徹底ぶりであった。
雨の日も風の日も、暑くても寒くても、淡々と神宮外苑を走り続ける瀬古は、
いつしか「走る修行僧」と呼ばれるようになっていた。

オリンピックイヤーがやってきて、瀬古の体調ははかばかしくなかった。
不断の倦怠感に悩まされながら、しかしこれまで以上にハードな練習を継続。
前年12月の福岡国際で優勝してからそのまま息抜くことなく、
オリンピック本番の8月まで猛練習を続けようとしたというのだから、
今日の常識から考えれば常軌を逸している。
ついにレース2週間前には血尿を見るまでに至ったが、
それでも瀬古は、レースの4日前まで神宮外苑のコースを走り続けた。
時差に体を慣らす時間をまったく持たなかった理由を聞かれ、
中村監督が答えるのを聞いた私は、当時ひっくり返るほど驚いたのを覚えている。
「ロサンゼルスに行ってしまっては、十分な練習ができない」―

今回のオリンピックも、よきにつけ悪しきにつけ驚くことが続出しているが、
私が最も驚いたニュースを昨日聞いた。
「女子レスリングの吉田沙保里選手が、今日、リオに発っていった」―
オリンピック3連覇、世界選手権10連覇、“霊長類最強”といわれる方だ。
われわれの想像を絶する気力と体力をお持ちなのだろうが、
しかし、それにしても……。

話を元に戻すと、生涯で15戦マラソンを走り、10勝した瀬古利彦を、
世界歴代最高、またはアベベ・ビキラに次ぐ二番目のランナーと評する人もいる。
しかし、瀬古がオリンピックで勝つことはついになかった。
ロサンゼルスは結局14位。
4年後のソウルオリンピックでは度重なる足の痛みに悩まされ、9位。
今日でいうところの、疲労骨折のようなものだった。無理もない。
しかし、瀬古にとって最大の不運は……
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『五輪 4』―香―

リオデジャネイロ・オリンピック デイリーハイライトという番組をNHKがやっていたので観てみたところ、山口香さんが出ていた。
この方の名前を知っている人は、一般にはそう多くないのかもしれない。
女子柔道の草分け的存在である彼女が柔道を始めた頃、
柔道をする女子はほとんどおらず、訪ねていった道場では入門を断られたという。
しかし嘆願を重ね、「男子と同じ練習ができるなら」という条件で入門したのが、
小学校一年のとき。
どうしても柔道をやりたいという気持ちがいったいどこから湧いてきたのか、
当時本人にも十分には分からなかったという。
ただ、強くなっていく過程で、体力や技術よりも、
人間として成長していく様が他のスポーツとは違うように、彼女は感じた。
周りに女子はいないので、当然、練習相手は全員男子。
周囲の男子を次々打ち負かしていったので、
彼女に負けて柔道をやめる者が続出した。

今では驚くべきことであるが、
実は当時、日本国内では女子柔道の試合は行なわれていなかった。
講道館の創始者・嘉納治五郎は、早い時期から女子にも柔道の道を開いたが、
おそらくは人格の陶冶に主眼を置いたのであろう、
試合というものをさせなかったのである。
女子柔道においては、挨拶は「ご機嫌よろしゅうございます」、
足を蹴れば「お痛かった?」などといっていた時代が長く続いた。
そんななかでも山口は日々欠かさず練習を続け、日本で女子柔道の試合が始まるや即、
全日本体重別選手権を制したが、そのとき弱冠13歳。中学二年のときである。
その後10連覇したわけであるから、およそ女子のなかに敵はいなかった。
ついた異名が『女・姿三四郎』。
漫画『YAWARA』のモデルは、谷亮子ではなく山口香である。

日本においてすら試合のなかった女子柔道なので、
世界選手権や、ましてオリンピック種目になどなろうはずもなかった。
初めて女子柔道がオリンピックに登場してきたのは、1988年のソウル大会である。
それも正式種目ではなく、公開競技であった。
山口香は日本選手権10連覇をなし遂げた後であり、
すでに選手としての全盛期を過ぎていた。

さて、NHKの番組のなかで、ゲスト席の真ん中に座っていたのが岩崎恭子だった。
バルセロナ・オリンピック、史上最年少の14歳で金メダルを得、
『今まで生きてきたなかで、いちばんしあわせでした』と言った、あの子である。
そのとなりの山口香は、「ソウルオリンピック銅メダリスト」として紹介された。
日本の柔道家たちが、まるでメダルとは思っていないかのような銅メダル。
もし、その全盛の時代にオリンピックがあれば……
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『五輪 3』―野獣― 

柔道に打ち込む一人の少女がいた。
真面目で寡黙。勝っても歓びをあまり表情に出さない。
抜群の才能をもってはいたが、淡々と柔道を続けていたことろ、
大学2年のある日、学内の道場で、麦茶の入ったクーラーボックスから、
体長10cmほどの妖精が顔を出しているのに気がついた。
全身が緑色。妖精は、辺りを見渡しながら何処かへ飛んでいった。
(あの子が見守ってくれている……)
そう感じた少女は、そこからさらに精進を重ね、急速に力をつけた。
世界選手権を二度制し、ロンドン・オリンピックでも金メダルを獲得する。
そのとき、世界中に映し出された試合前の形相があまりにすさまじかったので、
彼女は全国的に「野獣」と呼ばれるようになった。

野獣・松本薫は、意識的に「野獣」に変貌していくのだという。
試合1ヶ月前になると、女性らしい服装、女性用品の着用をやめて“女を捨てる”。
努めて男らしく振舞い、
試合1週間前には山や空、風などのエネルギーを体に取り込み自然と一体化する。
ひたすら本能に従い、勝つことだけに没頭する。
こうしてロンドンで勝ち、昨年の世界選手権でも勝ち、臨んだ今回のオリンピック。
準決勝で、惜しくも世界ランキング一位のモンゴルの選手に敗れたが、
3位決定戦で勝ち、二大会連続のメダルを手にした。

ただ、松本のこの時点まで、日本柔道のすべてが銅メダル。
柔道界にあって、それは許されないことであるらしく、選手たちは一様に、
「負けました」「支えていただいたのに申し訳ありませんでした」などと口にした。
「金メダルを獲りたかった。悔しいです」と言って泣いた中村美里選手や、
絞り出すようにして「私の弱さです」と言った海老沼匡選手などの様子は、
見る者の涙さえ誘う。
野獣・松本薫も、「何もなしでは日本には帰れないと思った」と言っている。

「立派な成績。胸を張って帰ってきて!」などと、われわれはある種気楽に言う。
『人事を尽くして天命を待つ』と口にする。
しかし彼らも皆……
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『五輪 2』―宿命のライバル―

表題のこの言葉を、私は子供の頃から聞いていた。
われわれの時代の「宿命のライバル」は、
もちろん、劇画『巨人の星』に登場する星飛雄馬と花形満の関係をいう。
劇画のなかで、星飛雄馬は貧しい家に生まれ、父親はその名のとおり頑固一徹。
激しい体罰など日常茶飯事だ。
一方で花形満は財閥に生まれ、少年時代から好き放題の生き方をしてきた。
が、そのあまりに恵まれた野球の才能はおそらく星飛雄馬を上回る。
そんな二人が、少年時代に巡り合い、中学・高校を経、プロに入ってからも、
ライバルとしてしのぎを削るのが劇画『巨人の星』の縦糸を織りなす。

萩野公介と瀬戸大也は、さしずめ現代の「宿命のライバル」といえるだろう。
生まれついての天才スイマーであった萩野に、
いつも追いつき、追い抜こうとして努力を重ねてきた瀬戸。
しかしこの現代版「宿命のライバル」は、かつてのそれとはいささか赴きが異なり、
どこまでも爽やかだ。
長きにわたって戦ってきた二人は、アスリートであれば
自分が一番高い表彰台に立てばそれでいいと感じてもおかしくないのだが、
「オリンピックの舞台でワン・ツー・フィニッシュしたい」と普通に語る。
それが、いかにも自然体なのだ。
かつてのような、スポーツにおける根性主義や、
人を蹴落としてでもという“執念”の感覚は、あくまで希薄である。

国全体が食うや食わずだった時代から激しい高度経済成長期を経て物質的に豊かになり、
精神的な余裕も生まれれば、こうしてスポーツのライバル関係も変わってくるのか。
世界のトップに立つような人びとにとっての日々の練習は、
昔も今も変わらぬ厳しさであるに違いないが、
それでもあくまで合理的・科学的な練習を繰り返し、
競技と人間関係を分けて考えることができる、
息抜きにポケモンGOを楽しむようないわば「ゆとり世代」の子供たちの時代には、
かつての『巨人の星』のような物語はもうあまり流行らないのかもしれない。

このような二人がこれからも友情を深め続けて……
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『五輪 1』

4年に一度のスポーツの祭典・オリンピック。
開会式のダイジェストをチラと観てみたが、やはりオリンピックはいいと感じてしまう。
汚職による大統領の職務停止や経済の停滞、工事の遅延、犯罪の横行……。
今回ほど多難な船出はないともいわれたリオ・デ・ジャネイロ・オリンピック。
選手村に入ってみると、早速トイレが逆流した、といった話が普通にある。
そんなことで選手は全力を出せるのかと思ってしまうが、
今回、日本選手にとっては不利な条件がある。
日本とリオとは、時差が12時間、つまり昼夜がちょうど逆転する。
そのため、たとえばサッカーの予選は日本時間で午前1時から、
柔道の決勝は午前3時半から、
体操の団体・個人決勝は、午前4時からだという。

大学の体育の授業で、
通常、時差は慣れるのに一週間ほどかかるということを聞いた。
たしかに、時差が8時間ほどあるヨーロッパに巡礼旅行に行ったとき、
旅の後半にきてやっと慣れたような感じになってくる。
一週間後、おおむね適応したと思ったら、そのころには帰国することになるので、
帰ってから、ふたたび時差の調整をすることとなる。

ところが問題は、そんな一般の生活における時差ではない。
オリンピックにおいては、生理状態と心理状態の限界が試される。
体力と、微妙な感覚の究極を競う。
そのために、一週間程度の時差調整でよいかといえば、
私は、それでは無理だと思う。
昼夜が完全に逆転するのであれば、少なくとも2週間、
できれば生命としての一周期、すなわち一カ月は調整すべきだ。
その意味で、時差のないアメリカなどで長期間高地キャンプを張ったような選手たちは
きわめて有利、体操や射撃、卓球などのような微妙な感覚が問題となる競技で
直前にリオ入りした選手たちにはかなり不利になるのではないかと思う。

というわけで、叱られるかもしれないが……
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「9つの惑星の神々」

11月、急遽インドに行くことになった。
長い間の懸案であった大きなホーマを捧げ、
インドに慈善や儀式を依頼された皆さんのそれが
どんなふうに進行しているかをみるためでもあったが、
占星学的な星の配列や、
関係する人たちの心模様まで関係してくるスケジュールの調整には直前までかかり、
“突然に”行くことになったのである。
1年以上にもわたり、さんざんスケジュールを検討してきた末であったが、
折しも南インドは40年ぶりの集中豪雨。
ということは、事実上、観測史上最大の豪雨で、
滞在中、われわれはしばしば行く手を阻まれることとなった。   
今年の8月、日本では稀にみる長雨が続き、われわれを驚かせたばかりであったが、
インドの雨はまた、それはそれで迫力のあるものだった。

ところが、雨はなんと、われわれが帰った後が本番だった。
空港は冠水で閉鎖され、分かっているだけで数百人の死者も出た。
11月中に来日すると言っていた友人は、
チェンナイでの慈善活動にすっかり従事してしまい、一昨日、やっと来日した。
その費用が足りなくなったという知らせがきたので急遽送ったが、
ところがそれに続けて、世界情勢のために私が行ないなさいという慈善や儀式の勧めが、
ふたたび予言のなかに出てきたのだった。
自分の予言を探そうとしていない私には、いかにも唐突に見えた。
が、節目節目に出てくるそれは、私の人生だけでなく、
世界や、日本の情勢がよくないことと深く関係するらしい。

今回できてきたなかで勧められている最初のプージャは、
地上を支配する「9つの惑星の神々」に捧げるよう書かれている。
思えばもともと、20日の<プレマ・セミナー><瞑想くらぶ>後は、
12年に一度の南インドの大祭・マハーマハムに参加し、
「9つの惑星の神々」の寺院すべてを巡る来年3月のツアーを記念して、
「9つの惑星の神々」に捧げるプージャを予定していたのだった。
したがって、20日のプージャは予定どおり行ない、そのなかで私は、
「9つの惑星の神々」と、インドでの慈善・儀式のためのプージャを捧げることとなる。

今年最後のプージャがこうした目的のものとなり、また、
ちょうどこの時期、12年に一度の大祭に皆さんとご一緒に参列する機会を得たこと、
生きているカルパスワミ神のダルシャンに与り、また、
さまざまなな慈善や儀式を捧げるようになったこと等は、
決して偶然とは思えない。
われわれは天界や地上で、いったいどんなことが起き、
または行なわれているのかについて知るすべもないが、
ある種の技術により、それをコントロールする、または調和することは可能である。
それはあたかも、原理の詳細は知らなくとも、
キーボードを適切に操作すればパソコンを活用できることと似ている。

実は現在お教えしている<Art5>のなかでは、
そのような技術が毎回登場してくるので……
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カテゴリー: ヴェーダ, 大いなる生命とこころの旅, 瞑想 | コメントする