青山圭秀エッセイ バックナンバー 第141号 – 第150号
最新号へ第141号(2020年12月11日配信)
エッセイの掲載はありません。第142号(2021年2月15日配信)
『バラジ神』お金と愛情……。
それは、世の人が望む、ほとんどすべてとも言ってよい。
この両方をお一人の神様が司るというのだから、彼には強大な権限が与えられているし、
そのことを知った人びとは自然、この神を敬い、礼拝するだろう。
こうして、ティルパティのバラジ神は、
インドで一番、世界でもヴァチカンに次いで二番目に多くの寄進を集める、
格式高い寺院となった。
バラジ神は、ヴィシュヌ神の別名であるが、
同じヴィシュヌ神の化身であるサイババが、あるときバラジ神の姿をとり、
ティルパティにお現れになったことがある。
その際、寺院の僧侶に対し、自分にかけられた装飾の金銀宝石が重すぎるので、
これを軽くするようにと言われた。
この奇跡に驚いたティルパティの僧侶たちは、その後毎年一度、
こぞってプッタパルティのサイババの許を訪れるようになった。
http://www.art-sci.jp/essay/archives/1029
ところで先日、ある方に電話でこの奇跡の話をしていたとき、突然、バサリと音がした。
見れば、バラジ神像に掛けられた真珠のネックレスが落ちている。
それは、通常の真珠ではなく、小さな玉をクラスターのようにして多数編んだもので、
ネックレスのなかではひときわ重いものだった。
インドはヴェロールに近い地で、バラジ神の寺院建設を始めて5年になる。
現地の人びとの献身的な努力により、素晴らしい寺院ができて、是非、
私の生徒さんを迎えて落慶式典(クンバ・アビシェーカム)を催したいと言ってこられている。
このようなとき、敬虔な彼らがどんなに私たちに感謝、歓待してくれるか、
行ったことのある方でないと想像できないだろう。
なので皆さんをそれにお連れしたいのはやまやまだったが、
昨年初からのコロナ禍により、延期に延期を重ねてきた。
今般も、3月に来てもらえないかという打診を受けたがやはりかなわず、
占星学的に適切な日程で、3月3日(水)、クンバ・アビシェーカムが挙行されることとなった。
皆さんのためには、今回の儀式で名前(と星宿)を読み上げ、
ときを経て渡印できたとき、あらためて儀式を執り行うこととなった。
今回の儀式の際に吟唱していただく名前をどうするかここしばらく考えてきたが、
折りしも『あるヨギの自叙伝』のほうは次回、
科学と宗教、そして魔法に関するヨガナンダの言説が説かれる。
科学と宗教、お金と愛情、いずれも相対界において対極を成すものであり、
魔法はバラジ神が駆使し、奇跡をもたらされるものだ。
なので、この日の解説を聴いていただいた皆さんのなかで希望される方、
同神を敬愛される方のお名前(と星宿)を、
当日、僧侶らに吟唱していただくことにしたい。
第143号(2021年3月18日配信)
『出雲』皆さんの予言をお読みしていると、
浅草や鎌倉に行って神々を礼拝し、瞑想するようにという指示がしばしば出てくるが、
ときにはイセジングウやキョウト、シコクに行くようにという指示もある。
伊勢神宮はそのまま書かれていることが多いが、
京都の場合は『仏像が千体もあるお寺(三十三間堂)』とか、
四国は『敬虔な人びとが多くの寺を巡礼する島』といった記述の場合がある。
しかし長い間、出雲大社に行くようにという指示は皆無であった。
『おまえの国の中心にある、由緒正しい寺院』という表現が最初に出たとき、
それがどこのことを指しているのか分からなかった。
日本地図を広げ、普通に最東北端と思われる知床岬と、
最西南端と思われる与那国島に定規を当て、その中間をとると、
意外にもそこは出雲と、私の故郷・福山の中間の辺である。
このあたりでもっとも由緒正しい寺院といえば、やはり出雲大社であろう。
ちょうど十年前の3月11日、わが国を未曾有の大地震が襲い、
瞑想をお教えした生徒さんのご夫妻が亡くなられ、
お子さんのうちの一人だけが遺された。
そのお子さんがどうしておられるのかをたどって、
最初に、京都のご親戚にたどり着いたが、
この方も情況はよく分からないので、分かったら逆に教えてほしいと言われる。
仙台方面の生徒さんにあたってみると、
亡くなられた方のことをあまり詮索しないほうがよいのではないかというご意見もあり、
しかし諦めきれずに探していると、ご主人の弟さんという方にたどり着いた。
ところが、無理もないことであるが、この方は心に大きな痛手を負っておられ、
お話をすることができなかった。
なんとかしてさらにその叔父に当たる方をつきとめ、お話をうかがったところ、
震災からひと月経って、亡くなった下のお子さんの遺体が見つかり、
葬儀はこれからということだった。
現地に着いたとき、ご遺体はまだ、体育館に並べられた柩のなかだった。
東京から持参した花では飽き足らず、現地の花屋から可能なかぎりの花を買い求め、
柩を飾らせていただいた。
生き残ったお嬢さんは、すでに松江の祖父母のところに引き取られたという。
『出雲大社に行くように』という指示が出るようになったのは、その後のことだ。
祖父母様に初めてお目にかかったとき、心底ほっとしたのを覚えている。
古き良き日本人の美徳を絵に描いたような方たちだった。
当時、小学生だった和芳ちゃんは慎ましく、多くを語る子ではなかった。しかし
その後、毎年のように出雲巡礼が指示される度、ご迷惑を顧みずお邪魔していると、
徐々に心を開いてくれるようになり、今では行くと大喜びしてくれる。
これから高校三年生で、先日お電話したときも、
将来は看護師さんか保健師さんになりたいと語ってくれた。
あのとき、生徒さんのなかで、
一人遺された和芳ちゃんを自分が引き取りたいと申し出てくれた方が複数おられた。
また、被災され、家と家族四人を流された方は、
地元の消防団の復興・復旧作業に加わっておられたのだが、
見舞金をお渡ししたいと何度ご連絡しても、ついに受け取られなかった。
「もっと困っておられる方に回してください」と言われるのである。
先日、新たに建立された寺院が落慶式を迎えたが、
あの寺院に鎮座されたペルマール・バラジ神は、
こうした皆さんの魂をずっと見守ってくださると私は信じている。
そして大変僣越ながら、拝み倒してでもそうしていただくつもりだと、
密かに心に誓っている。
第144号(2021年4月21日配信)
エッセイの掲載はありません。第145号(2021年5月1日配信)
『生命』今から十年前の3月11日、わが国では未曾有の大災害があり、
多くの方が亡くなった。
同時に誘発された津波により、
福島の原子力発電所は全電源を喪失、
さまざまな計器類が機能しなかった建屋は水素爆発を起こし、
多くの人びとが故郷を追われた。
十年を経た今もまだ、
故郷に戻れない人たちがたくさんおられる。
ちょうど時を同じくしたかのように、
サティア・サイババの肉体も傷んでいた。
2011年4月23日(土)、逝去の前日、
私はサイババが亡くなることを知った。
直前に読んだ聖者カードゥヴェリの予言のなかにも、
サイババの魂がすでに世界中を巡って多くの人に祝福を与えていること、
すぐにも肉体の衣を脱ぐことが記されていた。
『(そのような未来がわたしには見えるが)
それでも、シヴァ神の御心はわたしの理解を超えており……』
予言にはそう書かれていたが、葉はちょうどここで途切れていた。
あと数行か、または数語でこの章が完結するであろうことは、
全体の流れから想像できたが、
まるで真実が、その全貌を露わにするのを恥じらうかのごとく、
その後もこの部分を読みたいと思い、何度検索をかけてもらっても、
それはいまだに見つかっていない。
『(次の危機は)自然界に関する災厄からもたらされる。
よく知られていない、誰も予想できないものだ……』
予言の読み手は、最初「自然災害」と口にしたものの、すぐに、
「自然災害ではなく、自然界に関する“災厄”」と言いなおした。
さらに、『それは人の過ちによるもの』とも書かれていた。
地震や台風のような「災害」ではなく、
「自然界に関わる災厄」とは何なのか……。
人為的で、かつ予想できないものとは……。
セミナーなどの際、たまにこのことに触れ、
皆さんと「何のことなのでしょう……」などと話しているうち、
じきにそれはやってきた。
そうして一年半が経ってなお、収束は見えていない。
人生には避けがたく浮沈があり、国家にも、自然界にも変動がある。
国家の歴史、地球や、宇宙の歴史、
そして無数に存在するであろう宇宙全体のことを思えば、
われわれの人生の一つひとつはいかにも小さく、瞬間のものであるが、
しかしそれでも、人間に生まれることは類まれで、
一つひとつの人生が尊く、愛おしい。
生命の歴史のなかで、おそらく、肉体を持っている時間は、
持たない時間よりはるかに短いに違いない。
そんな人生を、私たちの一人ひとりが今、生きて、進化を続けている。
第146号(2021年5月25日配信)
『命運』政治の話と身内の話はなるべくしないようにと心がけているが、
それでもときどき書きたくなることもあり、
「そういうのも読みたい」と言う方がおられるのもまた事実なので、
今日は少しだけお許し願いたい。
『理性のゆらぎ』と『アガスティアの葉』にもあるように、
父は最初の妻に先立たれ、一人娘が残された。
亡くなった妻のすぐ下の妹の家にはたまたま子がなかったので、
彼女はそこに養女にやられることとなった。
私が子どもの頃、尾道には現在のような全国的知名度はなかったが、
尾道に行けば、どうしてこんなに優しいのか分からない女性が私を迎えてくれた。
その人が実の姉であることを、私はその後も長く知らなかった。
彼女が養女に行った先の母親は、したがって私とは血のつながりがないのであるが、
この「姉の母親」は茶道の師であり、歯に衣着せぬ物言いをする方でもあるので、
姉にもお弟子さんたちにも厳しい人に映ったに違いない。
だがその実、彼女はちょっとした風流人でもあり、
書もたしなめば、絵画も玄人はだしに描く。
最近は茶の湯の全国大会を催され、
表千家の宗匠を招かれたそうで、
先般、ご自宅を訪ねると私たちにも過分な茶と菓子をふるまわれたうえ、
お茶の名器や、自ら描かれた書画を見せてくださった。
その際には家系に関するさまざまなエピソードも能弁に語っていただいたが、
聞けば早や、95歳ということであった。
9年前、父が亡くなって葬儀を行なったとき、
彼女はこれに参列くださり、父を送った後で一言、言われた。
『圭秀さん、幸子をよろしくお願いします……』
幸子とは、養女となった、姉のことである。
両親に孝行することがほとんどできなかった私は、
それを父の遺言のように受け止め、
姉をインドやその他の巡礼旅行に誘いなどするようになった。
その際には会員の皆さまにひとかたならずお世話になった。
ずっと後になって、尾道の優しい女性が実の姉であることを知り、私は思った。
もし父の最初の妻が亡くなることなく男の子が続けて生まれたとしたら、
それは私だったのだろうか、それとも別人だったのだろうか……。
もちろん、姿形は違っていて、体質や気質も違っていただろうが、
そこには“私”の魂が入ったのだろうか……。
予言の葉を読んでみれば、ある日、あるとき、ある場所に、
惑星がある一定の配列をとったとき私は生まれ、
その名も両親の名もはるか昔から書かれていたわけだから、
父の最初の妻が亡くならないはずはなかったことになる。
だとしたら、私はそうなるべくして母のもとに生まれ、
このような人生を歩むことになった。
後に私の駄文を読まされることになる読者の皆さんの命運にも、
それなりに関係していたことになるだろう。
どんな家にも個人にも、国家や、惑星にすら“命運”がある。
それは偶然に起きているように見えるが、
実はそうではないことを太古の聖者らは知っていた。
そこに横たわる法則の一部は聖典に記されたが、
しかし多くは文字になることなく伝承され、
記された聖典もまた、多くが苛酷な歴史のなかで散逸した。
ときに地上に現れる聖者は、それらを認知し、復興する。
次回、5月30日(日)のセミナーでは、
そのうち、特に宝石と、地上の生命の命運についてお話ししたい。
<追記>
満月が地球の影にすっぽり隠れて赤黒く光る「皆既月食」が26日夜、
日本全国で見られます。
この日は今年、月が最も地球に近づく「スーパームーン」と重なるため、
天気が良ければ普段よりも大きな赤い月が見られることになります。
これをじっくり見てみたいという気持ちが湧くかもしれませんが、
皆さんは、できればやり過ごしていただければと思います。
または、月が完全に地球の影に入る午後8時9分~28分をはさんだ30分~1時間、
カーテンを閉めて瞑想されるとしたら、さらに素晴らしいです。
「地上の生命の命運」と深く関わるこれらについても、
30日(日)のセミナーで詳しく解説する予定です。
第147号(2021年6月24日配信)
『命運 2』身内のことを少し書いてしまったので、
やや長くなるが完結させたい。
父が婿養子に入った佐藤家の娘は、美しい三姉妹だった。
父が結婚した長女は、後に心臓の病に倒れることとなる。
そのすぐ下の妹は、前回のエッセイで紹介した茶人であり、
非凡な書画の才能を示す文人でもあった。
姉はこの人の許で、結婚するまでの人生を過ごした。
父が籍から離れた後、三女が婿養子として迎えた勲は、
医師であり事業家、豪放磊落(らいらく)な人だった。
小学生の頃、私は年末・年始をよく尾道で過ごしたが、
あるとき、なにかの祝いの席だったのだろうか、
見たこともないような豪華絢爛たるガラスの器に、
小山のようなフルーツ・ポンチがもられ、いただいた私は、
こんな美味いものが世の中にあるのかと感じ入ったのを思い出す。
ちなみにわが家では、ごはんに味噌汁と漬け物、
玉子焼きに醤油と味の素をかけて食べていた時代だった。
叔父・勲は政治にも関心を寄せ、尾道市長を務めた後、
次は衆議院選挙に出ると私は聞かされていた。
佐藤邸は延べ床面積500平米もあろうかという豪邸であったが、
1980年2月9日早朝、これに賊が押し入った。
賊はまず、屋外の電話線を切断した後、寝室のある2階に直行、
夫・勲の首をスッパリ切ってほとんど即死させると、
別室に寝ていた妻が異変に気づいて様子を見に来るや、
背中など35カ所をめった刺しにした。
指紋も、その他の手がかりもほとんど残さなかったこの事件は、
「尾道市民を震え上がらせる戦後最大の凶悪犯罪」と報じられた。
「恨みがあっても、こんな犯行は普通の人間にはできない――」
捜査に当たった者はみな、そう考えたという。
実行犯は、おそらくプロの殺し屋であったろう。
しかし結局、15年後に時効が成立、
今もどこかで生きているかもしれない犯人は、闇に消えた。
犯行の動機は金銭貸借によるものだったと考えられ、
容疑者も一桁まで絞り込まれていたという。
それでも広島県警は、これを挙げることができなかった。
金銭の貸し借りについては、結局は借りた者の勝ち、
都合が悪くなれば最後は殺せばよいという、
世の不条理をわれわれ親族が学んだ、いわば血の洗礼だった。
ところで、2月9日、勲の長男は医師となるべく、
東京で大学入試の当日だった。
試験が終わると知人から尾道に帰るよう連絡が入り、
「夕刊を見ろ」とだけ言われて新幹線に飛び乗ったという。
両親が惨殺されたという事実を、彼は新聞で知ることとなる。
私の従兄弟に当たる彼は父親に似て豪胆な性格で、
後に政治家となり、市議会議長まで務めた。
話していてこれほど面白い男は、親族のなかに他にいない。
だが、これも父親同様、義理と人情に生きる人で、
常にその生き様には“危うさ”を秘めている。
人は過去や過去世に応じて、
それぞれの体質や気質、才能や容貌とともに生まれるが、
その「命運」に抗うことはできないのかと思うことが時々ある。
そう思わせる典型のようなこの男が、親族ながらつくづく、
私は好きだ。ちなみに、
当時血の海となった事件の現場は今もそのまま保存されており、
命日には毎年、親族により法要が営まれている。
第148号(2021年7月7日配信)
『献身』「メルマガ拝見しました。
まさか先生が、あの惨殺された尾道市長ご夫妻とご縁戚とは思わず大変驚きました。
こちらの中国新聞でも、つい何ヶ月か前にあの事件について
特集が組まれ大きな記事になっておりました」
前回のエッセイを読んだ方からこんなメールをいただいた。
懐かしい、むかし我が家でも父がとっていた中国新聞をおとりになっている、
故郷広島の方である。
私が広島学院中・高の寮にいた頃、
同じく中学・高校時代の彼女はそのすぐ前の道を登り、ピアノのレッスンに通っていた。
毎週木曜日の夕方、6時からの夕食が終り、勉強時間が始まる7時少し前、
とびきり可愛い女の子が寮の前を通る。
そんなことが評判となり、私も皆と一緒に窓から身を乗り出して、
「お嬢さ~~ん、可っ愛い~~!」
などと声をかけた……というのはウソで、
それは私の友人や先輩、または後輩どもがやったことである。その様子は、
まるで電線に並んでいるツバメさんみたいでした(笑)と、彼女は後に述懐している。
私も、それに加わるような審美眼と心の余裕があれば、
もう少し違った人生を歩むこともできたかもしれないが、
当時は何も知らずにカトリックの神父になろうと思い詰めていたのだからどうしようもない。
そのうちに、理不尽にも先輩に突撃を命じられた下級生が彼女の名前を聞き出し、
声援は「〇〇ちゃ~~ん!」と変わった。
後に彼女はサイババを知って帰依するようになり、
二十数年が経ってからまったく偶然に、東京でも広島でもない場所で私と出会った。
メールはこう続く。
「時の流れのなか、このところ毎日がただただ哀しく
瞑想し、祈るばかりです……」
優しいご主人、優秀なご子息、美しいお嬢様……
幸せを画に描いたようなこの人の家庭の、いったい何が哀しいのか。
勇気を出して聞いてみると、こんな返事が返ってきた。
「コロナでもう充分たくさんの人が苦しまれているのに
これからまだそれが続いていく。
それも、従順で善良な人達が……。
悲しむ必要はないと頭ではわかっていても
自分は何にもできないと思うとそぞろ哀しく、
自分にこれからいったい何ができるのだろうかと……」
こんなやりとりをしていたちょうどそのとき、シヴァ神のパリハーラムが出てきた。
今年の三月からその存在が予言されていたものである。
これを探すためにしなければならないことがインドと日本で膨大にあったが、
前回、皆さんに助けていただいたときの映像が届いたので、
過分な表記もあるものの、そのまま挙げる。
全員がマスクと消毒をし、インドでは珍しくソーシャル・ディスタンスをとっているが、
これらの仕事を担ってくれたボランティアや予言の読み手の家族らは、
それぞれ別の機会にコロナに感染し、一部の人は重症化して苦しまれた。
https://youtu.be/OqJyt6TRTYA
『混迷する世界と、苦しむ生徒らのため、必ず探して行なわなければならない』
と書かれていたパリハーラムの内容は壮大なもので、個人でできるレベルを超えている。
だが同時に、
『これは、瞑想の生徒、読者らと一緒に行なわなければならない』とも書かれていた。
ちなみに読者といえば、セミナーでも少しお話ししたように、
パリハーラムの後半部分には突然、
現在私が書いている小説のモデルとなった人についての記述があった。
その方ご自身も、小説のモデルにされていることをまだ知らないのだが……。
いつも申し上げていることだが、
日々、瞑想し、祈り、または聖典を学ぶだけでも、人は国や、世界に貢献している。
そうしていただけるだけで、私は幸せだ。
ただ、予言の指示に従うなら、
私はこのパリハーラムを皆さんと一緒に行なうことにもなるという。
冒頭の方の哀しみは、メールで電磁的にやりとりしていただけなのに、
まるでその場で聞いていたかのようなシヴァ神の記述の仕方には、
いつもながら神秘の感に打たれる。だが、さらに嬉しいことには、
『これに参加したなかに、奇跡を経験する者ら(複数形)が現れる』とも、
『わたしのダルシャンに与るのは近い将来となる』とも書かれている。
このパリハーラムをすべて行なうには数年かかるだろうが、
どうやって皆さんと一緒に行なうのがよいのか、
予言の読み手と相談し、スタッフが知恵をしぼってくれた。
そのお気持ちがあって事情の許す方がおられれば、
是非ご一緒させていただきたいと願っている。
第149号(2021年9月19日配信)
『政界今昔物語』-その1-前回の東京オリンピックの年、1964年の9月9日、
国立がんセンターに一人の患者が入院した。
喉頭癌がすでに進行しており、末期だったが、
新聞には「前がん症状」と発表された。
10月10日、晴れてオリンピックの開会式に出席したその人は、
閉会式の翌日、内閣総理大臣の職を辞することを発表した。
戦後のわが国で「所得倍増計画」を打ち出し、これを実行に移しつつ、
4年を超える長期政権を担当した池田勇人である。
1899年生まれの池田は今日、郷里広島が生んだ戦後最大の政治家とされるが、
(宮澤喜一は池田大蔵大臣の秘書官だった)
30歳のある日、ひざの周りに小さな水ぶくれがいくつかできた。
水ぶくれは大きく膨れていくとやがて潰れ、出血、瘡蓋となり、
新たな水ぶくれを生むという悪循環を繰り返した。
池田は、夜も眠れないほどの痒みに苦しめられる。
病状は悪化の一途をたどり、大蔵省を休職、32歳のときには退官し、
広島の実家に戻らざるを得なかった。
その際にはミイラのように全身を白いガーゼに包み、
白い手袋と頭には黒頭巾をかぶっていた。これを見た親族は、
「原爆投下の後で見た患者よりひどい」と、息を呑んだという。
この「落葉状天疱瘡」は不治の病といわれ、医師らも匙を投げた。
池田は痛みと痒みで病床をのたうち回り、
「頼むから殺してくれ!」と叫んでいたという。
そこから、医師らを一様に驚かせたという奇跡的治癒をもたらしたのは、
家族による献身的な介護と同時に、島四国巡礼であったともいわれている。
その最中、光輝く神仏が現れて池田の回復を予言したという記述を、
子どものころどこかで読み、感動した記憶があるのだが、
今、それを見つけることができない。
政治家としては、そのようなことを言うわけにもいかなかったかもしれない。
それが“実際に”あったかどうかは別として、
どこまでも篤く帰依する家族の心が神仏に通じたものと私自身は思っている。
京大法学部出身の池田は、最初から大蔵省の出世コースには乗っておらず、
まして一度退官した後に出戻るということを余儀なくされたので、
最初は重要な会議にも呼んでもらえなかったという。
だが、運命とはいったい何なのか、
戦後やってきた駐留軍は官僚の上層部を“公職追放”としたため、
すべての官僚のなかで最大の権限を持つ大蔵事務次官の椅子は
思いがけなくも池田に回ってきた。
続いて、50歳で出馬した総選挙に初当選、吉田内閣の大蔵大臣に抜擢される。
初当選議員としては、後にも先にも例のない人事であった。
大蔵大臣、通産大臣として吉田、岸の両首相に仕え、
戦後の財政再建と外交を実質的に支えた池田は、
まるで神仏に予告されたとおり、1960年7月、内閣総理大臣に就任した。
1964年、退陣を表明した池田勇人は、
11月9日の議員総会で佐藤栄作を後継総裁として指名した。
佐藤は、それから7年半にわたり長期政権を担当し、
池田の「所得倍増計画」をそのまま敷衍・施行していった。
もともとこれは、1960年代の10年間でGDPを倍増させるというものだったが、
実際には、池田が就任した年、約25兆円であったGDPは、
佐藤内閣の末期、1972年には約83兆円となっている。
倍増どころか3倍を超える、脅威の高度経済成長と世界を驚かせた。
どのような政策、政権もそれを嫌う人びとが一定程度いるものであるが、
たとえば鉄道や道路、港湾や用水など、社会資本の整備や、
日々の生活の安全性、利便性の飛躍的向上について、
国民のすべてがその恩恵に与ったことは否定しようのない事実といえる(つづく)。
第150号(2021年9月23日配信)
『政界今昔物語』-その2-1964年の東京に続き、72年には札幌で冬季オリンピックが行なわれた。
中学一年の冬、学校の寮で凍えるような思いをしていたこの時期、
70メートル級ジャンプで日本人が金・銀・銅を独占したのには驚いた。
半世紀も前のことなのに、笠谷・金野・青地という3人の名前は、
今も思い出すことができる。
「銀盤の妖精」「白い恋人」といわれたジャネット・リンは、
尻もちをついてもにっこり微笑み、日本人の心を鷲掴みにしたというが、
寮にいてあまりテレビを見られなかった私はそのシーンを見ていない。
同じ年の5月、佐藤栄作は悲願であった沖縄の本土復帰を果たすが、
実際には7年続いた佐藤内閣はほとんど「死に体」となっていた。
代わって台頭していたのは、
佐藤派に巨額の資金を供給してきた田中角栄である。
佐藤の意中の後継者は、他派閥とはいえ、同じ東大出身、
元大蔵省主計局のエリート官僚であった福田赳夫だった。
「田中君は若い。福田君の後でいいじゃないか」と佐藤は口にしていたといわれる。
実際、福田自身は、佐藤が角栄を説得し、政権を禅譲してくれることを期待していた。
が、もはや派内の大半を田中に掌握された佐藤にその力はなく、
総裁選になだれこむ。
1972年の自民党総裁選のときのことは今も覚えている。
中学2年の夏、映画『ゴッドファーザー』が日本でも大ヒットして、
私は3時間になんなんとするこの映画を同じ日に二回続けて観た。
同じ夏にあった総裁選に立候補したのは
田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫の4人で、
第一回投票ではそれぞれ156、150、101、69票を得た。
田中と、盟友の大平の票を合わせれば257、
それに対して福田と三木の票に、
中曽根康弘の派閥の人数35を加えると254票で拮抗する。
一体どうなるのだろうと、新聞を読み、固唾を呑んでいた記憶がある。
福田赳夫と同じ高崎出身である中曽根は、
通常であれば福田について貸しをつくっておき、
代わりに自分のときには福田の協力を得るというのが政界の常道であったろう。
ところが、決選投票の蓋を開けてみると、
田中角栄282票、福田赳夫190票と、田中の圧勝だった。
中曽根派35人は、一人2000万円、合わせて7億円で派閥ごと、
田中に買収されたのだった。
このとき、福田赳夫の実母が、
「中曽根が憎い…」と言いながら嗚咽する映像をたまたま見て、
私は政界の、というより、この世界に生きることの恐ろしさを
子どもながらに垣間見た気がした。
ちなみに、田中の基礎票257に
中曽根派の35を単純に足すと292になるはずであるが、
決選投票での票数はそれよりも少ない。これはすなわち、
二つとか三つの派閥からそれぞれカネをもらう議員がいることを意味している。
二人の候補から受け取ることをニッカ、
三人から受け取ることをサントリーということも、このとき学んだ。
「政界浄化がまったく進まない」とはよく耳にすることだが、
この表現はなかなか微妙な内容を含んでいる。
というのも、いつも言うように政界の“きれい度”というのは、
結局はわれわれの“きれい度”を反映しているからだ。
もしわれわれのそれが進化していないのであれば、
政治家だけきれいでいろと言ってもそうはならない。それでも、
現在はかつてのような怨念政治の時代に比べれば随分“まし”に見えるのは、
制度や習慣のほうが進歩したからかもしれない。
かつてサイババは言った。
『わたしにとって、天を地に、地を天に変えるよりも、
おまえたちの心を変えるほうが難しい……』
心の内面は、それほど変えることが難しい。
マハーバーラタの大戦争が戦われた時代から、半世紀前、そして現在に至るまで、
心の進化はあまりに遅く、心もとない(つづく)。
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