瞑想講座

【意識の科学<Art of Meditation>】とは?

【意識の科学<Art of Meditation>】とは? Q&A

受講前にいただいた主なご質問に、青山圭秀(A.)がお答えします。
以下は、実際にあったいくつかの会話をもとにして、構成したものです。



Part I 自然で、速やかな意識の進化

瞑想によって、「純粋意識」とか「実在」に意識が到達する、といわれるのですが、禅でいう「無」とどこが違うのでしょうか。

同じです。両者に違いはありません。ただ、それぞれの文化の伝統によって、表現の仕方が違うのです。


その状態に、二日間でなれるのですか?

はっきりいえば、真言──マントラ──をお教えして瞑想していただいたその日に、その状態を経験していただきます。コースに二日もかけるのは、瞑想の仕方を確実にするためと、背後にあるヴェーダ科学の理論をご説明するためです。


禅の高僧でも、「無」の状態を経験するのに何十年とかかるといいますが……。

多くの宗教や思想において、おそらく開祖は適切な方法論を知っていたと想像されますが、長い間に失われたものと思われます。ヴェーダにおいては、意識を扱う方法論は、伝統のなかで失われることなく息づいてきました。


では、2日で悟れる?

それもまた、少し違います。私たちは、瞑想を始めたその日に純粋意識を経験しますが、心は長い間表層の世界に浸っていましたからその事実に気づかず、急に完全な“悟り”をひらくことはできません。それは、危険ですらあります。正しい瞑想の仕方を学んだら、あとはしばしば純粋意識に浸り、同時に社会生活や家庭生活を楽しみながら、自然な過程を経てゴールに近づいていくのがベストです。


不自然な過程というものもあるのですか?

というより、ほとんどすべての修養法、修行法において、無理な努力が強制されています。それは、皆さんのほうがよくご存じかもしれませんね(笑)。


私は、座禅が組めません。足が痛くなるのです。

結跏趺坐を組む必要はまったくありません。瞑想は、楽な姿勢で行なっていただきます。私たちの目標は、禅や、ヨーガの難しいポーズをとることではなく、意識を最も効率的で、速やかに進化させることです。


私はキリスト教の教育を受けてきましたが、苦しむことからのみ、よいものが来るといつも教わりました。

おっしゃるとおり、苦しみから人は多くを学びます。しかし本来、生命は歓びを楽しむように造られています。この瞑想によって、意識は自分だけではなく周りの生命(周りの人びと)をも否応なく幸せに巻き込みながら、速やかに進化していきます。その過程は本来、歓びに満ちたもののはずです。


講座では、朝から何時間も瞑想したりするのですか?

この瞑想は、この上なく自然で優しいものですが、同時に非常に効果的なので、一日に何時間も行なう必要はありません。コースの時間がたっぷりとってあるのは、速かな意識の進化に備え、背景となるヴェーダ科学を理解していただくためです。


子どもと一緒の受講を考えていますが、小学生にもヴェーダが理解できるのですか?

ヴェーダとは、知識そのもの、真理そのもののことです。相対世界はあまりに複雑で多様ですので、完全に神と一致することなくしては、誰もヴェーダの全貌を知ることはできません。しかしまったく同じ理由で、誰も、ヴェーダをまったく知らずに生きるということはできません。これまで8歳の少女から、85歳のおじいちゃんまで【意識の科学<Art of Meditation>】を学ばれましたが、ちっとも分かりませんでしたという方は一人もおられません。


お昼休みの時間は、とってありますか?

お昼の時間の他に、休憩時間もとってあります。その他、私が個人的に面談する時間があります。会場には充分な机と椅子が用意されており、皆さんにはゆったり椅子に腰かけて受講していただきます。ちなみに、日当たり良好です(笑)。


Part II 現代科学と東洋の叡知

私には、まったく科学の知識がないのですが……。

深遠なヴェーダ科学の前では、私たちの誰もが赤ん坊のようなものです。私自身が、いつもそう感じるのです。瞑想のもたらす効果を、無邪気に楽しんでください。そうして、なぜそのような効果が得られるのかという説明に、無邪気に浸ってください。


理論編は難しそうに見えるのですが、これが理解できないと瞑想もマスターできませんよね。

ヴェーダの科学と哲学は、実際、難解です。が、そこを理解できるように、易しく解説します。たとえ、まったく理解できなかったという方がおられたとしても、瞑想はできるようになってお帰りいただきます。小難しいキリスト教神学をまったく知らなかったマザー・テレサが、イエスをこの上なく深く愛していたように、かりに理論が難しいと感じられても、皆さんには瞑想によって深い意識状態に浸っていただきます。


でも、私は今までいろいろ瞑想その他を試してきましたが、うまくいった試しがないのです。

そうだと思います。ある理由により、そうなるはずなのです。でも、心配しないでください。この方法は、心と体にとても優しく、自然です。


以前、人から勧められてあるセミナーを受けました。そのときだけは興奮して人生が変わったような気がしましたが、時間が経ってみると何の問題も解決されてないことに気づき、愕然とした経験があります。

単純に、行なうことの深みの問題だと思っていただいて結構です。


友人のなかに、いろんな本を読んでポジティブ・シンキングに努めている人がいるのですが、彼はときどき独善的で、はた迷惑なことがあります。

ものごとを肯定的に捉えることは、誰にとっても大事で立派なことですが、その効果はあくまで心の表層のレベルに留まっています。いくらそう思おうとしても、心のなかには現実に、根深い問題があるからです。


私は個人主義者です。個人的な秘密を皆に話させられたり、知らない人と抱き合って泣いたりするような訓練には、ついていけないのですが。

この講座では、お一人おひとりが意識の内面に向います。それを人に見られることもなければ、抱き合って泣く“訓練”もありません。


この瞑想は、宗教に関係がありますか?

いかなる宗教団体や教義とも、関係がありません。


でも、誰か始めた人がいるのでしょう?

ヴェーダが他の宗教と違うところは、開祖や教祖といわれる特定の個人がいない点です。ヴェーダとは、もともと真理とか科学という意味ですが、真理には始まりとか終わりがないのだと説明されています。したがって、創始者もいません。
ただ、ヴェーダの真理も、時代の移り変わりのなかで失われたり、ふたたび見いだされたりする、ということはあります。『不二一元哲学』を説いたシャンカラや、『ヨーガ・スートラ』を残したパタンジャリは、それぞれの時代に現れたヴェーダの再興者といえます。


私は、瞑想などを始めたら、仕事が嫌になるのではないかと不安なのです。今でも世俗を捨てたいと、半ば本気で思っているのに……。

では単純な“予言”をさせていただきますが(笑)、たぶんあなたは世俗を捨てたいとはあまり思わなくなると思います。というのも、瞑想を始めたら、普通は仕事をするのが面白くなるからです。今まで見えていなかった成功や達成が突然身近に実感されたとき、それを捨ててしまいたいと思いますか?


瞑想をすれば、自動的にそうなると言われるのですか?

それは自然で、ある意味“自動的な”変化といえます。が、もちろん、この瞑想をしていればあとは何をしていてもいい、という意味ではありません。やりたいこと、やらなければならないことがクリアになってきますから、努力するのも心楽しくなるというか……。


そこなのです、問題は。何をしたらいいか分からないというか、人生の目標みたいなものが、自分で分からないのです。

どんな人もそれぞれ固有の崇高な価値を持っているのに、一番身近にいる自分にそれが見えないというのは、驚くべきことです。『理性のゆらぎ』を書いて以来、多くの方から同じことを相談されました。そして、実際に悩んでいる方に、どのような慰めの言葉をかけても、建て前を言っても、意味がないことを学んできました。
今は、これだけを申し上げます。瞑想によって私たちの意識が向う先は、いわばあらゆる創造性と可能性の場です。ちゃんとした瞑想をしていて創造性が湧いてこないということは、普通、あり得ません。創造的でいて、おっしゃるような悩みに苦しみ続けることもまた、不可能なことです。


Part III 瞑想と日常生活

瞑想するためには、肉や魚はやめなければなりませんか?

肉や魚の量が自然に減ってくる人がいるのは事実ですが、意図的にそうする必要はありません。


牛丼食べてもいいんですか?

結構ですよ(笑)。


お酒を飲んでも?

人生、楽しんでください(笑)。ただ、これも自然に量が減ってくる人はいるかもしれません。自然にとは、何の苦痛もなく、むしろ充実感をともなって、という意味です。


私は、面白みのない、ただ立派な人、というふうにはなりたくないんですが。

たしかに、瞑想をすることで、結果的に立派な人にはなるかもしれません(笑)。でも、面白みのない立派な人にはならないでしょう。創造的で魅力的な人が面白くないなどということが、あり得るでしょうか。


深い瞑想状態で、意識はあるのですか?

あります。というよりも、その状態においてのみ、真の意識が確立されているというほうが正確です。安らいでいてなお、鋭敏な意識。その状態を、瞑想を始めたその日から経験していただきます。


そんなに深い瞑想状態に入ってしまったら、誰かに心をコントロールされそうで怖いです。

私たちがコンタクトするレベルとは、実在とか英知とか至福と呼ばれるレベルです。それは同時に、創造性や可能性の場でもあります。およそ、人に自由意志があるとすれば、意識をそのような深いレベルに確立する他に方法がありません。それによって初めて、私たちは自由を手にすることができるはずです。それまで私たちは、あるいは欲求の、あるいは欲望の、あるいは教義の、あるいは人からの評判の、いわば奴隷であるといえます。


Part Ⅳ 肉体的な効果

瞑想によって、記憶力が高まると聞きましたが……。

瞑想によって、記憶力が高まったり、生活の満足感が高まったり、不安感が解消されたり、高血圧が下がったり、コレステロールが下がったり、若返りの現象がみられたり、といった科学的な研究は、数多くあります。


瞑想で不安感が解消されるというのは理解できますが、コレステロールが下がるんですか? なら、肥満も解消されます?

そういう統計が出ていますし、瞑想の神経生理学的な、あるいは内分泌的な効果を考えれば、それほど不思議なことではありません。個人差はあるでしょうが、肥満の解消にも役立つでしょうね(笑)。


瞑想することで、医者にかかる必要もなくなる?

インドでも、瞑想をする人はそうでない人に比べ、医療費がずっと少ないという統計があります。 しかしそれでも、現代的な医療や、医師の意見が必要な場合は当然あります。われわれは中庸を行きましょう。


Part V うまい話には……

瞑想中には、いろいろなアイデアが浮かぶと聞きましたが。

現代科学が、宇宙は「無」から生まれ出たといい、ヴェーダ科学が、純粋意識からあらゆる創造が始まったと説くように、私たちが瞑想によって触れるのは、あらゆる創造性の場です。そこに日常的にコンタクトしていて、アイデアが浮かばないはずがありません。ただし瞑想中、心のなかの不調和が、あたかも独創的なアイデアであるかのように形を変えて出てくることもあります。ですから、瞑想中に湧いてきたアイデアは、出てきてから通常の理性で検討してみることも必要です。


ある瞑想法を試みていて、却ってイライラすることがあるのですが。

不適切な、または不自然な瞑想をしていれば、当然、イライラが募ります。
一方、適切な方法で瞑想していても、イライラすることが稀にあります。それは、瞑想がわれわれの心のなかにある不調和に触れたときです。あるいは、場合によっては過去の映像や印象をありありと思い出して、涙が流れたりすることもあります。それは、瞑想によって過去のトラウマが自然に解消されているときです。そういうときには、現象が自然であれはそのまま瞑想を続け、不快なときにはストップします。


自然な瞑想法と不自然な瞑想法は、どのようにして区別できますか?

『木は、その実で判断』されます。自然な瞑想においては、内面的で、表現しようのない安らぎや充実感が感じられます。また、外側の世界でも、仕事がうまくいったり、人間関係がクリアになっていくことが感覚的に分かります。それらを実感するのに、通常、そう長い時間はかかりません。


私は子供の頃から、うまい話には気をつけるようにと教育されてきたのですが(笑)。

お金にまつわるうまい話など、世の中にはないと思ってください(笑)。でも、精神的な世界には、ごく稀ですが“うまい話”があります。たとえば、洗礼を受けることで、死んだ後、神の国の相続人になれるとか。でも、これは一見うまい話のように聞こえて、実は難しいことです。本当に神の国を継ぐためには、きわめて厳しい信仰の道を歩むという条件がつくからです。
この瞑想法の話のうまさについては、他に比較できるものが見当たりません。でもお話ししたような成果を得るには、実は二つの条件があります。 一つは、この方法がヴェーダの科学に照らした本物であること。もう一つは、毎日わずかな時間、私たちがこれを実行することです。
一つ目は、私が存在のすべてをかけて保証します。二つ目は、……どうか皆さんが保証してください(笑)。