青山圭秀エッセイ バックナンバー 第41号 – 第50号
最新号へ第41号(2011年4月22日配信)
4月9日と10日、東北地方を旅した。ブログにも書いた高橋佐予子さんと3歳の寛名ちゃんは、前日、遺体が確認されたばかりで、
柩は白い、きれいな布にくるまれていた。
柩に手を合わせ、でき得るかぎりの祈りを捧げ、花を手向けた。
最初に買い求めた花では足りた気がせず、ふたたび花を求め、
みたび花を買い求めて柩に置いた。
他の柩にも手を合わせ、しかし他のどの柩よりもたくさんの花で飾り、
その場を後にした。
現地では何人もの方にお会いして皆さまからの義援金をお渡しし、
また、託された物資も避難所、および会員の皆さんにお渡しすることができた。
が、一部の方は、義援金の受け取りを辞退された。
自分はまだ恵まれている。
もっと苦しんでいる人たちのために使ってくださいといわれるのである。
そう言われた方のお一人は、なんと家を流され、
ご家族4人がまだ見つかっていないという方だった。
彼は今、地元の消防団と一緒に、遺体の捜索に明け暮れている。
したがって、二日の間ではお目にかかることもできず、
なかなかつながらない電話でやっと何度かお話ができたが、
このような方にはどんなことをしてでもお目にかかり、
皆さまからの義援金をお渡ししたい。
また、残された7歳の和芳ちゃんと、保護者となられた祖父母の方にも、
周囲の皆さまのご好意に頼りつつ、
なんとかしてお目にかかりたいと願っている。
仙台では、一部会員の方の被災後のお宅をお邪魔して、
片づけを手伝わせていただくこともできたが、
最後にゴミを出そうとすると、市のゴミ集積所は人でいっぱいで、
長蛇の列ができていた。
そうした市内の状況にもまして、沿岸部はさらに激しく傷んでおり、
茶の間に座って観る映像とはまったく違った印象を与える。
申し訳ないことには、
この二日間の模様を詳しくブログに書くつもりであったのに、それができない。
帰京した後、現在に至るまで、
一日の途切れもなく浅草、鎌倉、芝、その他の寺社仏閣に素早く出かけ、瞑想し、
素早く帰ってこなければならない状況で、まったくその時間がない。
ところで、今回の旅にはスタッフの他、Yさんにも同行していただいた。
長い間に渡って、ボランティア活動をご一緒していただいている。
一般に、人と人の絆を維持し、深めていくことが誰にとっても難しいこの時代、
もう20年以上にもわたって、私を支えてくださっている。
私のすること、書くこと、話すことが不甲斐なかったり、歯がゆいことも多々あるだろうに、
文字通り、だまって、支え続けてくださっている。
彼について書かれた聖者の予言には、
『いつもわたしの仕事を手伝ってくれて、嬉しく思っている』
と記され、
『(おまえは)わたしの恩寵をほしいままにしている』
との言葉があった。
さらに、一昨日読んだ私自身の予言の葉のなかに、この度の震災の意味や理由、
祖国の今後について記されていた。
もともとこの予言は、昨年秋に第一章を読んだものであるが、
『パリハーラム(処方箋)の章は、将来、
おまえの国が苦しんでいるときに読むことになる』
とだけ書かれていて、出てこなかったのである。
その後、これらは出てきたが、
パリハーラムの章を読むために行なわなければならないパリハーラムがあって、
それを日本とインドの両方で行なってきた。
一方、サティア・サイババの容体は依然、危篤が続いており、
現在の世界情勢との間に何の関係もないとは到底思えない。
24日(日)の<プレマ・セミナー><瞑想くらぶ>のなかでは、
これらについても触れてみたい。
相対界を生きるということはこういうことだと教えられる日々を、私たちは生きている。
しかしそれは、【バガヴァッド・ギーター】のなかでクリシュナ神が、
繰り返し教えてくださっていることでもある。
【ギーター】は、第二章の復習を終え、
いよいよその実践面をクリシュナ神が説いた第三章に入っていく。
第42号(2011年5月25日配信)
高校の倫理の授業で、大木神父が次のような話をされたことがある。「もしここに、一生懸命努力してどうしても生計が成り立たず、
生きていけない人がいたとします。
その人が、他にどうすることもできなくなってパンを盗んだとき、
国はこの人を罰することができるでしょうか?」
もちろん、罰することができるだろうし、実際に社会は彼を罰する。
しかし神父の答えは、「否(いな)」であった。
その根拠として、彼は日本国憲法を挙げた。
『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』
(第25条【国民の生存権】)
憲法にこの権利が保証されているかぎり、上記のような人を罰することは、
本来できないはずだというのが、神父の見解であった。
本来的にはそうであろうが、しかし現実はさまざまな難しい問題を含んでいる。
実際、それを無制限に認めるとしたならば、多大なるモラルハザードが起き、
社会は成り立たなくなる。
その典型的な例を、かつてある途上国に赴任した外交官夫人が経験し、話してくれた。
駐在中、現地のお手伝いさんを雇ったが、家のものを盗まれた。
悪びれるふうでもないのでなぜかと聞いたら、彼女はこう答えたという。
「あんた方は金持ちだ、われわれは金がなくて困っている。
あんた方のものをもらうのは当たり前だ」
震災以来、毎日のように浅草や鎌倉に行くこととなり、時間的に困窮している反面、
メールや手紙は届き続ける。
そのうちのお一人は、何人かの会員の方の知り合いで、
私も十数年前の一時期、ボランティアをご一緒していたことがある。
その後ご子息が結婚し、家庭をもたれたが、
不幸にしてこの度、被災された。
ご子息は、しかし思わぬことを母親に打ち明けた。
今、生きていくためには、
放射能に汚染された地域であっても仕事をし続ける他はない。
さらに、ときには意外なことをして生計を立てている。
メディアでもわずかに報道されたことがあるが、
避難地域の家屋に侵入し、ものや食糧をとってくる。
そのようにしなければ、生きていけないというのである。
どうしようもなく苦しく、やるせないやりとりが、親子の間であったことだろう。
その内容のすべては知るべくもないが、サイババを信仰する母親に、息子は言った。
「(あなたの)インドの神さまは、なにもしてくれないじゃないか!」
一方で、そんなことを私に語る母親は、涙ながらにこうも言った。
「あの子が捕まらなければよいのですが……」
この親子を非難したり、嗤(わら)ったりすることは、誰にとってもたやすいだろう。
世の中のいかなる建前にも優先する、息子の本音と母親の本音の両方を聞かされて、
私も絶句する他なかった。しかし決めた。
<プレマ倶楽部>会員の方ではないが、
こうした方にも皆さまからの義援金をお渡しし、
その代わり盗みはやめていただく。
この約束を担保するものは何もないが、
しかし、一番苦しいのはご本人のはずだ。
そして、今は肉体の衣を脱いだ、母親の“インドの神さま”が、
約束を果たさせてくれるものと私は信じている。
ところで、同じインドの神さまは、かつてこう語っている。
『神々に祭祀を捧げることなく神々からの贈物を楽しむ者は、
盗賊に他ならない』 (【バガヴァッド・ギーター】3・12)
精妙な自然の法則を破る行為は、自然界の微妙なレベルで、個別生命のそれぞれで、
時々刻々行なわれている。
そして知らずに犯したことであっても、
自然の法則はこれに反応する。
われわれは通常、物質世界の盗賊を非難し、これを罰してやまないが、
しかし自分自身が実は盗賊であることを忘れていると、クリシュナ神は語る。
これに続く、クリシュナ神の汲めどもつきない解説を、
5月29日の<プレマ・セミナー>で学んでみたい。
第43号(2011年6月17日配信)
長い間、死生観や世界観を共有してきたと思っていた人が、ある日突然、父親を不慮の事故で亡くした。
その悲しみは他人には分からないものであるに違いないが、しかしそれでも、
父親が不幸な世界や、虚無の世界に行ったわけではないことは分かっているとばかり、
私は思っていた。
ところがしばらくして、その人はふとこう洩らしたのだった。
「死んだ後も、私たちの意識は本当に続くのでしょうか……」
「(え)……」
私は、しばし絶句したと思う。
そんな基本的なことを、われわれは共有していなかったのかと。
その人に言わせれば、自分ももちろん、意識は続くと思っていたのだという。
しかし父親が亡くなってから、どんなに彼に思いを寄せ、語りかけ、
返答を待っても、何の音沙汰もない。
深い絆で結ばれていたと思っていたのに、これでは本当に、
死んですべてが灰に帰したとしか思えない。
そう、訴えたのだった。
肉体をもって相対界に生きるわれわれは、決して強い生き物ではない。
頭では、どんな思想や理想を追い求めていても、
いざ、心や体が弱ったとき、人は混迷の闇に彷徨いこむ。
しかしもちろん、それも自然界が用意した、進化の道筋の一つである。
そのとき、頭で考えていただけのことと、
心底分かっていたことの区別が、ある程度つくからだ。
あるいは、自分では気づかなくても、人を見ていたらよく分かる。
そして、そんなとき、暗闇を彷徨うその人を口で説得することなど、
決してできないと思っておくべきだ。
人は、言葉で聞いただけで、または頭で考えただけで、
ものごとが分かるわけではない。
自分で苦しみ、悲しみ、不条理を経験し、
それを乗り越え、一皮むけて、やっと分かる……少しだけ。
あるいは一生、分からないままで終わるかもしれない。
それが今生で起こるかどうかなど、それこそどうしてわれわれに分かろう。
進化の道筋はまた、人によりそれぞれ違う。
人は、最後にキリスト教徒として生まれ、悟りを啓くかもしれない。
あるいは仏教徒として、またはイスラム教徒として、悟りに至る可能性もある。
特定の宗教組織に属さないでいる者も、真理に近いかもしれない。
いずれにしても、それぞれの道があり、それぞれのレベルがあるのだから、
可能なかぎりそうした道を尊重しなければならないとは、誰でも思う。
しかしそれでも、同じ土俵のなかで、どうしても異なる価値観が衝突し、
どうにも理解しあえないときがある。
そんなとき、またはそんな相手に対してどうしたらよいかが、
【バガヴァッド・ギーター】第三章に明確に書かれていて、
生きる上での大きな指針となる。
その部分の解説は19日(日)に行なうとして、
当面、私はラインホールド・ニーバー風に、次のように願いたい。
『自分が真に知っていることを知っていると認識できる力と、
もしかしたら間違っている可能性もあると省みる勇気、
そして、その両者を区別できる英知を、お与えください』
第44号(2011年7月7日配信)
「九州から出てきた無骨者です。まだ、何市が何県にあるのか、すべては把握してないけれど、一生懸命やりますから」
「国の財政も危機的です。なんでもかんでもお金では解決できない。
だから、どうか知恵を出してください」
「県のほうでも、コンセンサスをとってください。そうでないと、国も十分には動けません」
内容的には、おそらく以上のようなことが言いたかったのだろう。
すべて正しい。
ところが、復興大臣の口から実際に出たのは、次のような言葉だった。
「九州の人間だから、東北の何市がどこの県か、分からんのだ」
「知恵を出したところは助けるが、知恵を出さないやつは助けない」
「県で、それはコンセンサスとれよ。そうしないと、われわれは何もしないぞ。
だからちゃんとやれ、そういうのは」
賢く、有能だという彼の心のなかで、
いったい何が起きていたのかは誰にも分からない。
たぶん、本人にも分かっていないだろう。
しかし、たとえ内容的に間違っていなくとも、
実際に発せられた言葉がこれでは、ものごとは成就しない。
自然法則を霊妙なレベルで支配し、相対界を治める神々に、
われわれもさまざまな願い事をする。
「どうか、この病気を治してください」
「どうか、あの大学に合格させて」
「どうか、あの人と結婚させて」……
「どうか、……」「どうか……」「どうか……」願いは尽きない。
しかし、そのうち、叶う願いとそうでない願いがあるのはなぜか。
結局、願いがかなうにはそれに相応しい人、相応しい時、相応しい場合がある。
ただやみくもに願って、かなえられるものではないらしい。
そしてまた、同じ願いであっても、捧げ方が違えば、
大きな影響力を神々に対して及ぼし得ることを、東洋の科学は教える。
祈りの言葉にも作法と捧げ方があり、太古の賢者たちはその方法を聖典に残してきた。
神々への捧げ物と同時にヴェーダのマントラ(真言)を吟唱することで、
天界の神々に直接、願いを届ける方法をプージャ(儀式)と呼ぶ。
現在、われわれが真に願うこと、
それは被災地の復旧・復興と同時に、
これ以上の災厄を生み出したくないということだ。
最近読んだ聖者の予言には、
より大きな災厄が起きてくるであろうことが記されている。
しかしそれは、われわれの祈りや瞑想、
神々に捧げる儀式や慈善によって軽減されるとも書かれている。
だから、皆さんには震災後、普段にも増して瞑想することをお願いしたし、
また、それ以外に、私自身が行なわなければならないことも始めた。
その完遂にはおそらく一、二年はかかるだろうが、
それらのうち、日本で捧げなければならない儀式を、近々行なう。
インドで広く信仰される守護神・アイヤッパに捧げられるもので、
7月17日(日)、緑が丘文化会館で行なわれる。
同時に、シヴァ神に捧げられる特別なアビシェーカ・プージャも行なう。
折しも、当日の【バガヴァッド・ギーター】は、第三章のクライマックス、
すなわち、心と欲求に関する、クリシュナ神による不滅の言葉だ。
いつもの会場で、【バガヴァッド・ギーター】第三章の解説を終え、
休憩を挟んで瞑想し、プージャに入っていく。
これにはお弁当と、他に特別な料理がつくので、
ご参会いただける方は終了後、召し上がっていただくことになる。
インド人コックが沐浴し、マントラを唱えて作り、神前に捧げられた食事なので、
ご家族、ご友人のためにも是非お持ち帰りいただきたい。
初めての方も、どうか気兼ねされたりしないように。
できるだけ多くの皆さまにご参会いただき、聖者の指示された方法で、
わが国のために、そしてそれぞれの皆さんのために、
ご一緒に祈りを捧げたいと願っている。
第45号(2011年8月5日配信)
『人生の特異日』過去24回戦って、21敗3分け。
確率からいってそろそろ勝ってもいいんじゃないかと思った人もいるだろうが、
“実力”の差は歴然としていた。
2011年女子サッカーのワールドカップ、決勝は日本対アメリカであったが、
案の定、多くの時間はアメリカがボールをキープし、シュートを放ち、
大差で負けてもおかしくはなかった。
が、1-0から日本は追いつき、延長戦も残り3分で奇跡的なシュートが決まる。
さらに運命のPK戦では、誰も想像できなかった展開が待っていた。
最初のPKを、日本のゴールキーパーが、横に飛びざま、
なんと脚で止めるという離れ業を見せたのが、
この日が「運命の特異日」であったことの象徴であった。
こうしてわが国は、なんとサッカーのワールドカップを得たのである。
男子では、一世紀待ってもとれないであろうワールドカップを。
ところで、8月には、私にも小さな成功体験がある。
43年前の8月4日、小学校のソフトボール大会が行なわれた。
子供会ごとに当たるトーナメント方式で、
優勝チームは市の大会に出場する権利を得る。
わがチーム「平和」は、その名のとおりまったく平和なチームで、
優勝候補に挙げてくれる人はどこにもいなかった。
が、この日朝、特異なことが始まった。
普段、練習に参加することもなかった6年生の栄作が、久しぶりに現れるや、
監督からライトを守るように言われたのである。
(大丈夫なの……??)
皆が皆、そう思った。
栄作に打順が回ってきたとき、これに期待する者は誰もいなかった。
ところが彼がバットを強振するや、パッカーッという音とともにボールが飛んでいった。
普段ボーッとして無口な栄作は猛然と走って三塁を陥れ、
しかし当然のような顔をしてわれわれを驚かせた。
ライトフライも、ふらふらしながらも結局、ボールをグラブに収める。
そんな栄作の突然の活躍で、平和は一回戦、二回戦を突破、
準決勝も勝って決勝に駒を進めた。
決勝の相手は、優勝候補の筆頭「いづみ」。
投手の橋本君は5年生ながら校内一の剛速球でならし、
当時4年生だった私は、練習試合でもバットにかすることすらなかった。
ところが、ここでも特異なことが起きた。
一回裏のチャンスで打席に立った栄作が思い切りバットを振り回すと、
橋本君の剛速球のほうが当たりに行って、パッカーッとはじき返されたのである。
つられるように、チームの全員が打ち始め、終わってみれば、21対3。
私まで、全打席で出塁するというオマケがついた。
こうした特異日が、人生にはある。
カルマか、ダルマか、いずれにしても、溜まりに溜まった何かが一気に吹き出す日。
実力を超えてこんな日を創り出せる人は勝者となり、
エキサイティングな人生を楽しむこととなる。
が、それはしかし、偶然起きてくるものではもちろんない。
日頃の努力がなければ、運命の女神が微笑むこともないだろう。
また、さらにいえば、日頃の瞑想や祈り、祭祀。
それらがなければ、能力や脳力が速やかに開花していくことも難しい。
われわれが瞑想してマントラを想う度、神々が微笑む。
さらにマントラを想う度、女神が微笑む。
そして、宇宙全体が微笑む。
また、ヴェーダの祭祀は、マントラと、われわれの心を供物として捧げることにより、
神々を直接お歓ばせする儀式だ。
そんなことをしている人には、やはり神々や女神、宇宙が、ときに褒美をくださる。
人生の特異日に。
ありがたく、もったいないことではあるが、
しかしそれは、この宇宙の法則でもある。
日本ではお盆の14日は、相対界を統べる強大な神・カルパスワミに儀式を捧げる。
被災地の復旧・復興をはじめ、是非、それぞれの願いをお持ち寄りいただきたい。
第46号(2011年9月16日配信)
『10年』石の上にも3年という。
同じことを3年も続けられれば、それなりに評価できるという意味の諺だ。
では、10年という期間はどうだろうか。
王、長島、金田といった天才を揃えた当時の巨人ですら、V9の後、
10年連続で勝つことは遂にかなわなかった。
203連勝、外国人柔道家に一度も負けることなく引退した山下泰裕も、
全日本選手権9連覇で止まっている。
『木村の前に木村なく、木村の後に木村なし』と謳われた木村政彦は、
全日本柔道選手権で13連覇をなし遂げ、不敗のまま引退しているが、
しかしこの方の場合は“格”がまったく違う。
この方は修辞的でなく、言葉の真の意味で超人的、不世出の天才だったので、
通常の天才であった山下などと比較してはならないのである。
いずれにしても今日では、勝負の世界で、特にプロの世界で、
“10年連続”をなし遂げるのはほとんど不可能といってよい。
そんななか、思い出すのは、世界自転車選手権プロスプリントの中野浩一である。
1970年代から80年代にかけ10連覇を達成、結局、同大会では負けなかった。
競輪が日本ではメジャーなスポーツではなく、
やや胡散臭い目で見られていた時代だったので、
わが国でこそあまり知られていないが、
ヨーロッパにおける“コーイチ・ナカノ”は大変なブランドである。
現在、欧米でナカノを超えるブランドとなったのは、誰あろう、イチローだろう。
大リーグに移籍していきなり同年の首位打者、MVP、新人王を獲得し、
その後、2004年には年間安打数の大リーグ記録を達成、
現在は10年連続で年間200本安打を記録し続けている。
それがどれほど凄いことなのか。
今ここに、あらゆる試合で必ず一本ヒットを打つ打者がいたとしよう。
そんな選手が、球界でどれほど尊敬されるかは想像に難くない。
しかしそれでも、日本でなら年間144本、大リーグでなら年間162本に過ぎない。
毎試合一本では、年間200安打に遠く及ばないのである。
これを10年連続してやってのけたのは、
無数の小天才たちが群雄割拠する大リーグの歴史のなかでも、
イチローをおいて他にいない。
日本でも有名なピート・ローズも10回なし遂げているが、
それは連続ではなかった。
しかし今年、5月に入ってから不振が続いたイチローは、
これといった復調の兆しを見せることなく低迷し、
年間200本安打のためには、現時点で、
残り13試合で30本打たなければならないという状況にある。
もし仮に、これを奇跡的になし遂げるようなら、
あの大リーグ記録262本にも匹敵する快挙であろう。
それは、王にも、長島にも、金田にもやってきた。
動体視力も、筋力も、身体のしなやかさも衰え、
気ばかりが焦り、数字が伸びないという時期が。
それが今、この天才打者にもやって来ようとしている。
すべてが終わって、現役を引退するそのときまで、
彼はいま少し苦しまねばならないだろう。
しかしその苦しみの終わるとき、彼は初めて、
さまざまな場面におけるその心のありようを、
リラックスしてわれわれに披瀝してくれるのかもしれない。
それはある種、天才にだけ与えられた特権なのかもしれないが、
しかしまんざらそうでもないように、私には思える。
われわれもまた、この世を去ってしまえば、
それぞれに偉業を達成した、それぞれの分野のかけがえのない一人ひとりとして、
過去を振り返り、しばしの休息に身を委ねることが可能となる。
そんなときが、誰の人生にもやってくる。
家族や周辺は悲しんでいるかもしれないが、
実は本人だけは、数十年ぶりに、真に心安らかで晴々するというその瞬間が、
いつかは、どんな人の人生にもやってくるに違いない。
第47号(2011年10月5日配信)
『1億分の6秒』今から16万年前、地球上に北京原人がいたのか、ネアンデルタール人がいたのか、
あるいは、われわれがまったく知らない太古の文明があったのか……。
いずれにしても確かなことは、
その頃、大マゼラン星雲内の超新星の一つが大爆発を起こしたということだ。
その結果放出された大量の光とニュートリノは、
1987年2月23日、午前7時35分35秒、岐阜県神岡鉱山跡に製作れた「カミオカンデ」を通過、
水の電子との間にわずかな相互作用を行なった。
約20,000,000,000,000,000個のうち、痕跡を残したのはわずかに11個。
通過時間は、約10秒であった。
数百年に一度しか捕えられないといわれる超新星爆発をまったくの偶然によって捕え、
ニュートリノを検出、同時に大統一理論に修正を迫ったこの業績により、
2002年、小柴昌俊はノーベル物理学賞を受けた。
それから10年、スイスとイタリアの国境をまたぎ、
ニュートリノにまつわるもう一つの実験が行なわれた。
スイスの国際共同研究所CERNから発射されたニュートリノを、
730キロ離れたイタリアの研究施設で検出したところ、
なんと光よりも1億分の6秒ほど速く到達したという。
相対性理論の教えるところでは、
この世の中に、光よりも速く移動する物体は存在しない。
あり得ないと考えた研究者たちは、
計15,000個のニュートリノを発射して実験を繰り返したが、
結果は同じであったので、発表に踏み切ったという。
もし、相対性理論が破れているとしたら、その影響は計り知れない。
この100年間、物理学の土台の部分で、
常に相対性理論は使われてきたからだ。
そうして今日まで、あらゆる検証に耐えてきた。
人類が月に行って帰ってこられるのも、
最新の宇宙論が観測結果と一致するのも、
すべて相対性理論のおかげである。
また、光速を超える物体においては、質量は負となり、時間は逆向きに進む。
実際、今回のニュートリノは、イタリアの実験施設に着いたとき、
自分がスイスを出たときよりも過去にいったことになる。
問題は理論面に留まらない。
たとえば、車の運転時等にいつもお世話になっているGPSが正確なのは、
相対性理論にしたがって常に補正を行なっているからだ。
今回の実験は、そのGPSを使って到達時刻を測定している。
したがって、そのなかに必然的に誤差が含まれるはずだが、
研究グループはそうした誤差も計算に入れていると主張している。
また、冒頭で述べた16万年前の超新星爆発による光とニュートリノが、
ほぼ同時に地球に到達していることも、今回の結果とは矛盾する。
いずれにしても、他の研究機関による検証を待つべきであろうが、
今回の件に関して私がもっとも驚いたのは、
「当然、そうだと思っていた」と言った友人の言葉だった。
たしかに、そうかもしれない。
これまで科学は、繰り返し革命的な進化を遂げてきたのであるし、
実際、相対性理論と量子力学は、統一することができないままだ。
われわれはまた、現在の科学では説明できない現象を体験することが、実際にある。
たとえば、われわれの想念が瞬時に他人に伝わることがある。
未来のことを知っている人がいる。
神々から未来を聞いて、そのとおりのことを経験する人がいる。
私自身が教える瞑想の結果起きてくるさまざまな事象の多くも、科学では説明がつかない。
こうしたことが現実にある以上、現在の科学が万能でないことは確かだ。
しかし、だから「当然……」と言われても、
正直、私はとまどってしまう。
深い、精妙なレベルの事象は、
何らかのかたちで表層の、粗雑なレベルに滲み出ては来るだろう。
実際のところ、西洋物質科学は、そうした表れを観測しながら、
徐々に深いレベルに到達しつつある。
しかしそれでも、
ニュートリノという物理的な粒子にそのようなことが観測されたことに、
事実だとしたらという条件付きでも、
私は驚きを隠せないのである。
第48号(2011年12月1日配信)
<理論と実践>つい先日、ある方とお話していたところ、
その方はは、「瞑想は、<Art5>までとりました」と言われた。
ところが、それが<Art4>Stage2に当たるという認識は十分おありになかったのか、
今回の<Art4>Stage3をとることができるのをご存知なかった。
忙しい方には、そういうことがまま起こるものだと思う。
昨年、初めて<Art4>Stage2(当時の<Art5>)をお教えしたときのことを思いだす。
ある方がよほど感動されたかのように近寄って来られ、お聞きになった。
「先生、この次の技術はいつ教えていただけるんですか??」
私は、やや躊躇いがちに答えるしかなかった。
「可能なら一年後に。でも、たぶん無理だと思います」
実際、これを毎年一つずつ教えていくのは結構難しい。
新しい瞑想の技術をお教えするとき、
いつも気をつかうのは、その理論的背景をどのように解説するかだ。
もともと、目に見えたり耳に聞こえたりするレベルのものではないので、
「言葉では表現できない」し「思考の対象にはならない」
「想像することもできない」し「感じ取ることもできない」。
しかしそれでも、理論は背後にある。
深く、普遍的な理論が、まるで誰かの心に理解されるのを待っているかのように、
存在しているのである。
これを分かりやすくコンパクトにまとめるには、
現代科学もヴェーダの科学も、その他の東洋哲学も、
あらゆるものを駆使することになる。
今年も、その方に申し上げたように、ひとつ瞑想のステップを上げることとなる。
その理論をまとめる作業は、いつも楽しくも苦しいが、
東の空が白みかけたこの明け方にやっと完成に近づいてきた。
【バガヴァッド・ギーター】の解説のときも同じであるが、この作業を行なう度、
ヴェーダの知識の美しさと深遠さに私自身が驚嘆しないではいられない。
今年は震災もあり、私たちそれぞれの周辺にもさまざまな変化があった。
しかしそれでも、こうして皆さんに新しい瞑想の技術と理論をお教えすることができる。
そのために、四国や九州、東北などの遠方からも多くの方がお見えになる。
『ヴェーダの英知は、自らを理解してくれる者の心を探し出す』
というが、まるで英知の女神がその人びとをみつけ出し、
心の深淵に分け入っていこうとしているように、私には思えてしまうのだ。
第49号
エッセイ掲載はありません。第50号(2012年1月1日配信)
『2012』誰でも知っているように、われわれの体と地球との間には重力が働いている。
なので、われわれは突然、天高く舞い上がることはできないし、
地球上の他のあらゆる物体も地面に張りつき、離れない。
このように、物と物が互いに引き合う力を重力(引力)といい、
これがどれほど大きな力となるかを決めるのが、その物体の「質量」である。
質量が2キロの物体は、1キロの物体に比べて二倍の力で地球と引き合うことになる。
やはり誰でも知っているように、物を動かすには力が必要となる。
一般に、重い物を動かすには大きな力が必要で、軽い物を動かすには小さな力で済む。
この「動かしにくさ」という量もまた、質量と呼ばれている。
質量2キロの物体を動かすには、質量1キロの物体を動かすときの二倍の力が必要である。
さて、ここに二通りの質量の概念が登場した。
この二つはまったく別々の概念なのに、同じ「質量」という名で呼ばれている。
そんなことが許されるのか……と思うが、しかし、
それは許されるのである。
なぜなら、有史以来、今の今に至るまで、
これら二種類の質量が違ったという観測が、一度もなされたことがないからである。
二つの質量が違う値であってもよかったはずなのに、
何をどう測定しても、この二つは一致している。
なぜなのか……。それはわれわれには分からない。
そもそも、なぜ物体に質量などというものがなければならなかったのかからして、
われわれには分からないのである。
質量のない世界がもし存在したなら、
われわれの住む世界とは似ても似つかないものとなったに違いないが、
そんな世界はあってもいいし、実際、かつてはそうだった。
すなわち、宇宙ができたばかりの頃、あらゆる物質に質量がなく、
物質はすべて、光速で運動していた。
しかしじきに「対称性の破れ」によりある種の場が出現し、物質に「質量」を与えた。
イギリスの天才物理学者ピーター・ヒッグスが提唱したこのヒッグス粒子は、
その後の世界の有り様をすべて決定したと言っても過言ではないので、
「神の粒子」と呼ばれる。
この「神の理論」が本当に正しいのかが、
長いながい準備段階を経て、今、試されようとしている。
実にこの元旦も、研究者たちは巨大加速器を休ませることなく稼働させ、
毎日何兆回、何百兆回という衝突実験を繰り返し、研究を続けている。
そうしておそらく、今年、
「神の粒子」の実在が確認されることとなるだろう。
2012年はまた、光よりも速いスピードで到達したとされるニュートリノ実験の真価が、
評価されることとなるだろう。
もしこれが確かめられれば、アインシュタイン以来の大発見であり、
物理学の教科書が書き換えられることとなる。
分野は違うが、今年はユーロの命運が決まる年にもなるだろう。
そもそも、財政を異にする国家が同一の通貨を持つこと自体が不自然なのであるが、
この十数年間、なんとか機能してきた。
ところが、そのなかの一つの小国の放漫財政が、欧米の多くの銀行を危機に陥れ、
それが欧米主要各国を、ひいては世界全体を危機に陥れようとしている。
世界はそこから立ち直ることができるのか、それとも恐慌に突き進んでいくのか……。
ちなみに、その小国にもはるかに優る(?)放漫財政を継続しているのがわが日本であり、
昨年、未曾有の震災を経験したわが国にとっても、
あらゆる意味で、今年は分水嶺となるだろう。
そうした、さまざまなものが真価を問われ、白日のもとにさらされる今年、
数千年も前からマヤの人びとが暦を一新しようとしたのも偶然ではないのかもしれない。
われわれは今、歴史の曲がり角にさしかかっている。
そんな言葉を、私は子供の頃から毎年のように聞き続けてきたが、
真実、そうした時期が訪れているのかもしれない。
その時期を、こうして皆さんと共有し、瞑想し、聖典を研究し、
聖地で一緒に奇跡を体験したりできるということ自体が、
私にとってはことのほか有り難く、また心楽しくも感じられるのである。
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