高校一年の冬、洗礼を受けたとき、
今では大変簡便な日本語で行なわれるその式を、
当時大木神父がすべてラテン語で執り行なわれたのを思い出す。
そのとき、神父は聞かれた。
『悪魔の誘惑を退けますか?』
それに対し、私は「退けます」と答えたのであったが、
もちろん何の躊躇いもなかったわけではない。
本当に退けられるかどうか、自信満々であったわけもない。
すべての受洗者が、必ずそう答えるのだが、
このときもし、本当に正直に、
「うーーん、そのときになってみないと……」と言ってしまったとき、
洗礼式はどうなるのだろうか。
教会で結婚式を挙げれば、必ずあの有名な文言が登場する。
『富めるときも貧しきときも、健かなるときも病めるときも、
変わらぬ愛を誓いますか?』
そう聞かれ、
「うーーん、それはその場になってみないと……」
と言い淀んだとしたら、そしてそのほうが実際、正直な態度ではあるのだが、
そのとき司祭はどうするのだろうか。
修道院に入るともなれば、誓約はさらに壮大となる。
清貧・貞潔・従順という、どれ一つをとってみても、
普通ではあり得ないような徳を、三つまとめて神に誓うのだ。
新約聖書のなかでももっとも分かりやすく、
面白いといえる【マタイによる福音書】。そのなかでも、さらにもっとも有名で、
かつ興味深い『山上の垂訓』の場面の解説を、現在淡々と進めている。
前回、ローマ・カトリックが離婚を一切認めないという話は、
宗教的戒律と社会的規律、法律、そして自然法との兼ね合いから、
あまりに多用な議論へと発展し、興味がつきることがなかった。
今回は、それにも増して興味深い部分を扱う。すなわち、
イエスは、『一切、誓約など行なってはならない』という、
驚くべき命を下しているのである。
さらにはまた、続けて言う。
『右の頬を打たれたなら、左の頬も向けなさい』
『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』
これらを、通常の世界観の範囲内で理解しきるのは難しく、
必ずどこかで自己矛盾に陥ってしまう。が……
ヴェーダ的な、より広い世界観から見たとき、
初めてこれらのイエスの言葉も真に理解できる。
そのための解説を、27日(木)、
心を尽くし、思いを尽くして行なうつもりだ。