帰国してすぐに予定されている<木曜くらぶ>のために、
旅行中も聖書を持ち歩き、
いわゆる『山上の垂訓』の部分を読んだ。
アフリカの修道院に住んだときも、
朝6時のミサの際、ちょうどこの部分が朗読された。
苦しい旅の間、何度も読み返しながら、
イエスによるこの言葉は、
この世に、いまだ悟りを啓けないままで生きるわれわれに対する、
愛と慈しみの結晶だとしか思えなくなってきた。
肉体をもって相対界に生きることは、困難を極める難事業だ。
旅行中に、どれほどの悲惨を見てきただろう。
帰国して数日の間にも、どれほどの悲しみに接しただろう。
悟りを啓き、すべてを超越した神人(かみびと)は、
おそらくすべてを完成する前の感覚や印象をお持ちであったのだろう、
苦しみ、泣く者のための言葉を残してくださった。
大聖賢ヴィヴェーカーナンダをして……
『ここに宗教のすべてがある。
これを知った人は、これまでに教えられたすべてのこと、
これから教えられるであろうことのすべてを知ったのである。
他の何を知る必要もない。
ここに枢要なことのすべてが記されている』
とまで言わしめた聖なる箇所を、23日木曜日、
心を尽くし、力を尽くして読み込んでいく。