「私を総裁候補として、
自民党さんが次の総選挙をお戦いになるお覚悟がおありになるかどうか……」
宮崎県の東国原知事が、自らの総選挙出馬のために出した条件である。
これを聞いて、識者のなかには、
出馬を断るための彼一流の“ギャグ”であろうと推測した人たちもいた。
が、そうであろうはずはなかった。
知事はごくごく真剣だったのだ。
東国原知事の類稀なる才能も、国や県を思う気持ちも素晴らしい。
宮崎県のためによく勉強し、仕事もしておられる。
だからこそ、80%を超える驚異の支持率を与えられていたのだ。
その知事が、勝負の「時」、自分の「時」と判断し、勝負をかけられた。
しかしこの条件を聞いたとき、私は正直、やり過ぎたと思った。
知事として、権力と権限を握った。
支持率は80%を超えている。
どこへ行っても人びとにもて囃される。
何をやってもうまくいくような気がする。
そんなときが、人生、もっとも気をつけなければならないときだと、
古来、多くの先人が教えてくれた。
そんなときが、人生の頂点になりやすいときだと、
あの発言の直後、私もセミナーで言ってしまったが、
しかし私も含め、そうした失敗を繰り返すのがわれわれの人生である。
東国原知事は、その持ち前の明るさで今後も政治の道を邁進されるだろうが、
一般に政治家のような、人の上に立つ人びとは特に気をつけねばならないとされる。
権力を握ると、人は奢る。
権力を握ると、弱い者の気持ちは分からなくなる。
うまくいくと、いつまでもうまくいくような気になる。
後から振り返ると、そんなときが人生の頂点となる。
困惑させられた人びと、踏みにじられたと感じた人びと、裏切られたと思う人びと……
その人びとは普段は黙っていて何も言わないかもしれないし、
直接、何の行動も起こさないかもしれない。
しかし彼らの計り知れない怨嗟の念は、確実に、的確に、返される。
そうなってから、人は取り返しのつかないことをしでかしたことに気づき、
臍をかむことになる。
話はまったく変わるが、聖書のなかでも、
最後の晩餐を経て、ついにイエスの「時」がくる。
そのとき、イエスは栄光を求め、長く崇高な祈りを捧げる。それは……


『世界が創られる前に、わたしが父のみもとで持っていたあの栄光』であり、
『天地創造の前からわたしを愛し、与えてくださったわたしの栄光』である。
これらを含む、驚くほどヴェーダ的なイエスの最後の祈りの部分を、
19日に解説する。
また、それにまつわる太古のユダヤ人の『時と生命、運命』の英知を、
『伝道の書』から、<瞑想くらぶ>で解説する。
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イエスの祈り 1
gethsema 5

イエスの祈り 2


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