予兆3


<木曜くらぶ>や<プレマ・セミナー>でときどきお話しするが、
神話や、実際に書かれた予言を読んでいると、
ある人に一つのダルマを達成させるため、
天界でさまざまな議論が行なわれたり、
場合によってはお一人の神が他の神々を説得したりすることもあるという。
しかし興味深いことに、そして当然のことながら、
そうしたことのすべてを、われわれは知らない。
ごく稀に、後になって気づくこともあるが、それはごく一部なのであって、
われわれは人生の時間の多くを、なぜそうなったか知らずに過ごし、
幾生涯にもわたってその状態は続く。
無知とはまことに哀しいもので、
おそらく知らないがためにわれわれは、
人生について、運命について、
いつもああでもない、こうでもないと思い悩むのである。
聖典や予言は……


そうしたことを豊かに教えてくれ、
目からウロコが落ちることもあれば、
驚愕の目をむくことすらもときにある。
しかし本当にわれわれが知るのは、おそらく最後に悟りを啓いたときだ。
そのとき初めて、
この方のこのお蔭で、私はあのダルマを果たせたとか、
この方のご意志で、あの仕事をさせていただいたとか、
そんなことの全貌が分かったりするのだろう。
またはそのときは、こうした個別性も超越しているかもしれない。
そのようなゴールに至るまでの距離はあまりに長くて気が遠くなりそうだが、
しかし誰もが最終的にはそこにたどり着くことができる。
その途上を、道々、いろんな方とご一緒し、導いていただけることの有り難さを、
どんなに頑張ってもわれわれは充分認識できていないに違いない。


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