かつてイエスは親友ラザロの死に際して、涙を流しながらなお、
『ラザロよ、(墓から)出てきなさい』と命じて蘇らせたとされる。
また、イエス自身が十字架に架けられながらなお、
『父よ、あの人たちを許してやってください』とつぶやかれた。
こうした意識状態というのは、
イエスが通常の意識状態と、普遍の意識状態の両方を同時に生きていたことを、
強く示唆している。
ただ単に、彼が人格者であったというだけでは説明がつかない。
瞑想講座のなかで必ずお教えする事実の一つは、
人間の意識は相対界を超え、
絶対のレベルに到達することが可能だということだ。
その意識状態は、当然、言葉では説明できないけれども、
しかし太古の聖典や聖者たちはこれをなんとか説明しようとして、
さまざまな文献を残してくれている。
瞑想中、われわれは例外なく、絶対の意識レベルにときどき侵入するが、
当初はそのことに気づかない。
が、なんでもそうであるように、しばしば経験することで、
徐々に分かるようになってくる。
ところで、さらに興味深いことは、
絶対のレベルに意識を確立することは、
実は相対界の、通常の意識状態を保ったままで可能だということだ。
相対と絶対の両方に、同時に意識が確立された状態は、
いわゆる「人でありながら神と一致した」状態に相当するが、
おそらく、イエスや仏陀がそうだっただろうと思われる。
キリスト教はもともと……
人間が神と一致できることを否定しているので、
聖書のなかで、人間の「意識」についてのそうした説明は皆無に等しい。
が、イエスのような神人(かみびと)においては、
その様子が隠しきれない。
17日に解説する【ヨハネによる福音書】第5章、第6章は、
そのようなことを考える格好の“教材”に事欠かない。
言葉の面からも、行動の面からも、
イエス自身による、神人一致の表現の絶妙なさまを、
堪能していただきたい。