聖書のなかには、いくつか、
キリスト教徒でなくても知っているような有名な文言がある。
『敵を愛し、
迫害する者のために祈れ……』(マタイ 5・44)
『心の貧しい者は幸いである。
神の国は彼らのものである……』(ルカ 6・20)
『求めよ、そうすれば与えられる。
探せ、そうすれば見出す。
叩け、そうすれば開かれる……』(ルカ 7・7)
宗研では、聖書を最初から順番に読むようなことはしなかった。
その日、その日のテーマとなる部分を一つずつ学び、神父の解説を聞くのが、
宗研の“楽しみ”だった。
ところで、これらに加え、次のものもまた、
多くの日本人が知るところの文言だ。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された……』 (ヨハネ 3・16)
【ヨハネによる福音書】の冒頭近くに突然登場し、
キリスト教の根幹を成すとも言われるこの文言を最初に宗研で聞いたとき……
私は大いに戸惑った。
神は、世をこのような混沌とした、悪に満ち満ちたものとして創られた。
全能の神はその全能をもってそうされたのだろうし、
全智の神は予めそうなることを知っていただろう。
『その独り子をお与えになった』とは、
キリスト教的には、
「独り子の血と肉(十字架上の死と苦しみ)をもって、世を救った」
という意味になる。
それは、神を人格神としてみたとき、有り難いことであるに違いない。
これこそがイエスの使命であり、
すべてのキリスト教徒は、このことに最大の感謝を捧げる。
しかし神はもともと、創造主なのだ。そう考えたとき、
先にこのような不条理な世界をお創りになっておいてから、
独り子をお与えになったと言われても……というのが、
私の印象だった。