「ソクラテス」の少し前、
中学校三年の世界史の授業の冒頭は「人類の黎明」ということで、
サル、類人猿、原人、ヒト……という進化の話だった。
が、私は授業中、これに“異議”を唱えた。
たしかにヒトはサルから進化してきたかもしれないが、
ヒトとサルとの違いは、程度の差ではなく、本質的である。
そこには、超えられないギャップがある、と主張したのである。
すると、世界史の大橋剛夫先生は、
そんなことはありません。
ヒトとサルの違いは程度の差であって、その証拠に、
サルも道具を使ったり、原始的な言葉を使ったりします、と言われた。
私の主張は、いうまでもなく、キリスト教的世界観に立ったもので、
いわば宗研の受け売りであった。
要するに、人間には「魂」があるが、
動物に魂はない。
動物は、いわば機械のように本能に従って動いているだけで、
自由意志のある人間とは本質的に違う、というのである。
キリスト教の修道会が創った学校で、
キリスト教の精神に則って経営されているはずなのに、
それを授業中に否定するのかという違和感を覚えた記憶があるが……
しかしもちろん、
大橋先生のおっしゃったことのほうが正しいのである。
特に、人間は肉体と魂の二つの要素から成り立っているが、
動物は、精巧な有機物でできた機械だという考え方は、
まことに人間の独りよがりで、
動物の皆さんには申し訳ない。
こうした独りよがりな点があるから、
「宗教」は立派かもしれないがキライだと現代人は言うのかもしれない。
しかし、キリスト教がこう言った二千年前には、
これがきわめて斬新な説だったのかもしれず、
問題はむしろ、「教義」として固定されると、
何千年かが経って人類の意識や知識が進化しても変更できないという、
宗教共通の特質にあるともいえる。
こうして、ときに聖者や神人が変革者として現れ、
たとえばあの偉大なユダヤ教も、
キリスト教へと“進化”していったのかもしれない。