正課の授業で特にキリスト教教育を受けたわけではないが、
聖書を学びたいと希望する生徒には、課外のクラスが設けられていて、
こちらは「宗研」といった。
どう考えても、これは「宗教研究会」の略に違いなかったが、
これを宗教研究会と誰かが呼ぶのを聞いた記憶は、
中・高の6年間を通じて一度もない。
中学一年に入ってすぐ、大木神父の宗研に入りたい生徒が募集された。
まったくの任意で、たしか20人くらいのクラスが二つできたと思う。
曜日によって、何曜宗研、何曜宗研と呼ばれるようになった。
私がこれに入ったかというと、実は入っていない。
聖書を読むなどという“贅沢”を始める前に、しっかり勉強しなければ……などと、
子供心に思ったのだった。
その割りには、一人の修道士の方をつかまえて無理やり弟子入りし、
ヨーガを学び始るなどということがあった。
こうして、私の人生は、
キリスト教系から東洋哲学系へと進んでいってもおかしくなかったのだが、
どうしたわけだか気がついてみると……
私は教会にも通うようになっていた。
毎週日曜、朝6時に起きて古江の山を下り、
まず広島電鉄の宮島線に乗って己斐に出る。
反対方向に行けば、終点は宮島であった。
己斐から、さらに市内電車に乗り継いで観音町で降りると観音町教会があり、
朝7時のミサに出ることができた。
最初は、寮の先輩に連れられて行ったのだが、
後に自分一人で行くようになり、
広島学院の生徒が毎週7時のミサにやってくる、と思ったらしい一人の神父が、
私に祈りの方法や、カトリック要理を教えてくれるようになった。
かつて、無神論者であったのにルルドで奇跡を目の当たりにして回心し、
神父となって日本に赴任したペドロ・アルペ神父が、
原爆投下後に助けた少年。
この長谷川少年が、後に自らも司祭となり、
観音町教会に赴任していたのであった。
ちなみに、長束の修練院でかつての大木修練生を指導したアルペ神父は、
現在は列福調査が進められており、将来、
福者アルペ、聖アルペと呼ばれるときが来るかもしれない。