神父 5


大木神父と会っていると、30年前、一人で上京してきたとき、上智大学キャンパスに隣接しているイグナチオ教会に通うようになったことを思い出した。同じイエズス会の経営ということで、中学・高校で習った先生の何人かは上智大学に移っていた。そしてそれと同じ春、神父はネパールに旅立ったのだった。
18になった年、大学に入った私は、世間的に見ればとりあえずうまくいっている少年の部類に入っていたかもしれない。ところが、実のところ私の心は……


挫折感の只中にあった。当時私は、高校を卒業して、カトリックの修道会であるイエズス会に入ることを考えていた。私の場合、それは世間で思われるほど崇高なことではなく、何もかもを棄てたいという否定的な感覚にも多分に依拠していた。そのような少年が、ふたたび世俗の只中に入っていかなければならなかったので、私の心のなかには、一つの予感があった。このままでは、私はますます不幸になっていくに違いないという、それは確信に近い予感だった。
「将来のことを思うと吐き気がした」と、ときどき瞑想講座でお話しするのは、他ならぬこの時期のことだ。その救いようのない不幸感は、私がヴェーダの瞑想に出会うことで初めて解消されていくのであるが、当時はまだ、キリスト教以外に、というより、キリスト教を含むさらに深い英知があるなどということは、知る由もなかった。
時が経っていま、気がついてみると、私を救ってくれたヴェーダの瞑想を、(技術自体は当時私が行なっていたものとは数段に違うものだが……)私自身が教えることになっていて興味深い。


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