1984年、ロサンゼルス・オリンピック。
日本中が注目していたのは、瀬古利彦の“金メダル”だった。
無理もない。それまで9回マラソンを走って6勝。
過去5回の国際大会すべてで優勝していた。
当時名伯楽といわれた中村清監督は、瀬古を自宅横に住まわせ、
日々の練習以外にも、食事等生活のすべてを管理。
トイレを突然開けてその状態まで問うたというほどの徹底ぶりであった。
雨の日も風の日も、暑くても寒くても、淡々と神宮外苑を走り続ける瀬古は、
いつしか「走る修行僧」と呼ばれるようになっていた。
オリンピックイヤーがやってきて、瀬古の体調ははかばかしくなかった。
不断の倦怠感に悩まされながら、しかしこれまで以上にハードな練習を継続。
前年12月の福岡国際で優勝してからそのまま息抜くことなく、
オリンピック本番の8月まで猛練習を続けようとしたというのだから、
今日の常識から考えれば常軌を逸している。
ついにレース2週間前には血尿を見るまでに至ったが、
それでも瀬古は、レースの4日前まで神宮外苑のコースを走り続けた。
時差に体を慣らす時間をまったく持たなかった理由を聞かれ、
中村監督が答えるのを聞いた私は、当時ひっくり返るほど驚いたのを覚えている。
「ロサンゼルスに行ってしまっては、十分な練習ができない」―
今回のオリンピックも、よきにつけ悪しきにつけ驚くことが続出しているが、
私が最も驚いたニュースを昨日聞いた。
「女子レスリングの吉田沙保里選手が、今日、リオに発っていった」―
オリンピック3連覇、世界選手権10連覇、“霊長類最強”といわれる方だ。
われわれの想像を絶する気力と体力をお持ちなのだろうが、
しかし、それにしても……。
話を元に戻すと、生涯で15戦マラソンを走り、10勝した瀬古利彦を、
世界歴代最高、またはアベベ・ビキラに次ぐ二番目のランナーと評する人もいる。
しかし、瀬古がオリンピックで勝つことはついになかった。
ロサンゼルスは結局14位。
4年後のソウルオリンピックでは度重なる足の痛みに悩まされ、9位。
今日でいうところの、疲労骨折のようなものだった。無理もない。
しかし、瀬古にとって最大の不運は……
ロサンゼルスの4年前にあった。
1980年のモスクワ・オリンピック。
瀬古は、まさに全盛期。走れば誰にも負けない自信があっただろう。
だが、ソ連がアフガニスタンに侵攻、西側諸国はオリンピックをボイコットした。
オリンピックで勝った選手は、強かったと評される。
しかし強かった選手、しかも卓越して強かった選手のなかにも、
オリンピックに縁のなかった者がいる。
それぞれの人生である。