私自身は、監督をよく存じあげることもなく、
ソフィアの「オオシマ天才発言」を本に書いたと思っていた。
が、当時の担当編集者にも聞いてみたのだが、
それはおそらく、元の原稿にはあったものの、
本になる段階で削除したらしい。
なぜなら、その前後のくだりに至るまで、
文章にしたことを、私は克明に覚えているし、
実際、『理性のゆらぎ』を作るときには、全体の分量が多過ぎたので、
かなりの削除を余儀なくされたからだ。
当時、Yさんなどに読んでもらった初期の頃の原稿は、
数年前まで保存していたが、
おそらく、廃棄してしまっている。
なので、今は確かめる術はないが、記憶を繙き、
その当時の“幻の”原稿を公開する。
問題の部分は、第6章『かなえられた願い』のなかで、
ソフィアと、私の部屋で最後に会うシーンである。
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彼女は、何も言わずに私を見つめていた。私は話題に窮し、苦し紛れに、日本映画で観たものはないかと切り出していた。
「日本映画で観たものはないの? 好きな監督は? 俳優や女優は?」
「そうね……」
そう言って、彼女は視線を宙にやった。
「ナギサ・オオシマ……彼は天才だわ」
大島渚のことだった。代表作『愛のコリーダ』は、私も、アメリカにいたときに観たことがある。日本ではその後、これが猥褻であるとして裁判となったが、海外では芸術作品として、高い評価を受けていた。
「ところが、そのオオシマだけど、最近は映画よりは、テレビの討論番組なんかによく出るんだ。深夜の番組で、観ているほうもそろそろ眠くなったようなときに、彼は突然、怒りだす。口をきわめて、青筋を立て、相手を罵倒し始めるんだ」
「……」
「そうやって彼が爆発するのを、視聴者はあるいは楽しみにし、あるいはハラハラしながら見てるんだけど、実際には、あれはディレクターからキューが出てやってるんだという噂もある……」
「世界のオオシマ」に対して失礼千万な話だが、そんなことを得意になって話してやると、彼女はこちらを見つめ、クスクス笑った--。
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今思えば……
このくだりをボツにしてよかった。
しかしでは、どうして監督は私の本を手にとられたのか。
何かの見えざる手がそうさせてくれたのかもしれないが、
おそらく彼は、純粋にスピリチュアルな方だったのではないかと、私は思う。
実際、その後、
監督が私のことに触れられた場面をたまたまテレビで観たことがあったが、
人間というものを深く洞察される方だという、強い印象をそのとき受けた。