そのようにして私が進学しようと思っていたのは、ある神戸の中学校だった。
が、一年が経っていよいよ受験となったとき、大きな問題が降って湧いた。
神戸の受験日と、地元の付属中学の抽選日が重なったのである。
抽選など、代理を立てればよいだけのことだった。
実際、代理を立てた者がいた。
代理を立てられようが、立てられまいが、
いずれにしても私は神戸に受験に行くつもりだった。
が、しかしここへきて、父が一言だけ言った。
「そんなことをすれば、地元軽視といわれて大変なことになる」
結局、父のその言葉で、
私は一年間準備してきた神戸の学校の受験を諦めたのだった。
普段、あまり多くを語らない父の口調は、断定的で厳しいものであったが、
しかし今にして思えば、中身には疑問符がつく。
つまりそれは“ウソ”だったのだ。
したがって私は、その後長い間、父にはまんまとしてやられたと思い続けたのであるが、
病弱で、体が強いとはいえない次男を遠くの学校にやることを、
父はそれほど懸念したのに違いない。
神戸は、今でこそ新幹線で1時間弱で行けるが、
当時は急行で4時間、5時間かかるところだった。
もともと、地元の付属中学に合格できれば、それが一番よかったのかもしれない。
父もそれを心から願っていただろう。
しかしそこは、学科の倍率が2倍なのに……
抽選の倍率が6倍というとんでもない“難関校”だったから、
私は最初から、これに合格するなどという虫のいいことは考えていなかった。
昭和46年3月1日、神戸では私の第一志望校の入試が行なわれ、
福山では地元の付属中学の抽選が行なわれた。
想定されたとおり、私は自分でひいた抽選に落ちた。
それは同時に、私が広島のカトリック校に行くことが決まった瞬間でもあったが、
皮肉なことに、その学校の寮は、神戸に行ったどんな場合よりも、
おそらく心身ともに厳しく、苦しい環境となったのだった。