私の系譜 13


そのようにして私が進学しようと思っていたのは、ある神戸の中学校だった。
が、一年が経っていよいよ受験となったとき、大きな問題が降って湧いた。
神戸の受験日と、地元の付属中学の抽選日が重なったのである。
抽選など、代理を立てればよいだけのことだった。
実際、代理を立てた者がいた。
代理を立てられようが、立てられまいが、
いずれにしても私は神戸に受験に行くつもりだった。
が、しかしここへきて、父が一言だけ言った。
「そんなことをすれば、地元軽視といわれて大変なことになる」
結局、父のその言葉で、
私は一年間準備してきた神戸の学校の受験を諦めたのだった。
普段、あまり多くを語らない父の口調は、断定的で厳しいものであったが、
しかし今にして思えば、中身には疑問符がつく。
つまりそれは“ウソ”だったのだ。
したがって私は、その後長い間、父にはまんまとしてやられたと思い続けたのであるが、
病弱で、体が強いとはいえない次男を遠くの学校にやることを、
父はそれほど懸念したのに違いない。
神戸は、今でこそ新幹線で1時間弱で行けるが、
当時は急行で4時間、5時間かかるところだった。
もともと、地元の付属中学に合格できれば、それが一番よかったのかもしれない。
父もそれを心から願っていただろう。
しかしそこは、学科の倍率が2倍なのに……


抽選の倍率が6倍というとんでもない“難関校”だったから、
私は最初から、これに合格するなどという虫のいいことは考えていなかった。
昭和46年3月1日、神戸では私の第一志望校の入試が行なわれ、
福山では地元の付属中学の抽選が行なわれた。
想定されたとおり、私は自分でひいた抽選に落ちた。
それは同時に、私が広島のカトリック校に行くことが決まった瞬間でもあったが、
皮肉なことに、その学校の寮は、神戸に行ったどんな場合よりも、
おそらく心身ともに厳しく、苦しい環境となったのだった。


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