長い人生の間に、ほとんどすべての人が病気をする。
ときにそれは重篤で、命にかかわることもある。
なぜ病気などという厄介なものがこの世界にあるのだろうと私も思うし、苦しみもする。
しかし今、ある人が病気になったとしたら、その責任は誰にあるのだろうか。
私や、読者の皆さんほとんどの共通の認識として、
誰にも、どんな場合も、その人に相応しいことのみが起きてくる、という考え方がある。
唯物的な考え方をすれば、そんなことはもちろんありそうにない。
しかしこの世界の深い原理を理解すれば、当たり前のことともいえる。
太古のユダヤの人びとも、当然、そのことを理解していた。
すなわち、人が病気になったとしたら、厳しい言い方だが、
究極的にはその人に責任がある。
生まれつき病気の人はどうか。
その場合も残念ながら例外ではなく、
生まれる前に、それに符合する何かがあったことを意味している。
今、生命の進化を遅らせる原因や、
生命に苦しみを与える原因を仮に広い意味で“罪”と呼ぶのであれば、
人が病気になるのも“罪”の結果であることとなる。
仮に病気が“罪”の結果であるといっても、
その人に最大限の思いを寄せなくてもよいことにはもちろんならない。
また、この言い方は病気に苦しむ人に対して厳しいこともあるので、
実際にそうであったとしても、普通そのようには言わないし、
こうしたことの意味が理解できない人には、言うべきではない。
しかし、この意味で“罪”という言葉を広義に用いるのであれば、
嘘をついたり人を騙したりすることだけが“罪”ではないことになる。
理由もなしに毎晩夜更かしすることも“罪”であるし、
食べ過ぎ、飲み過ぎもそうである。
タバコを吸うなどというのはまさに“罪”だ。
タバコの場合は、自分の健康だけではなく、他人の快適さや健康まで奪ってしまうからだ。
いずれにしても人は、たとえ知っていようが、知らずにであろうか、
自然の法則を犯すことにより病気になる。
病気は自分の責任ではないとわれわれが思う主な理由は、
実際のところ、その原因のほとんどを、われわれが知らないことにある。
病気もまた、自然の法則を犯した結果である以上……
そのことをわれわれは学ばなければならない。
それを糧にして、進化を図らなければならない。
それが、生命に病を与える自然界の意図だとすれば、
神々も、聖者も、病気を簡単に癒されたりはしない理由も理解される。
ただ、ある人びとは、その準備ができていたり、
またはそれに相応しい、他のよいカルマの結果として、
奇跡的な治癒に与ることとなる。
ちょうどこれからさしかかる【マタイによる福音書】においては、
イエスが奇跡の雨を降らせる場面だ。
“奇跡”というものを馬鹿にする人びともいるが、
しかし実際、イエスがあれほどまでに奇跡を起こされたのには、
実に、驚くべき理由があった。
次回の【聖書会】では、そのような原因・結果の法則の深みについて、
イエスの奇跡を題材として考えてみたい。