【マタイによる福音書】を読んでいると、
ほぼ冒頭の部分から山上の垂訓のような希有な教えのエッセンスが登場し、
溢れるような奇跡の記述がその後に続く。
イエスはまた、その風貌もさぞ美しかったであろうと推測される。
このような神人を現実に目の前にして、
当時の過酷な社会に生きる人びとの多くが、
その弟子になりたいと願ったとしても、不思議はない。
実際、聖書のなかにも、人がイエスについていきたいと願うシーンがいくつか見られる。
『先生、あなたがおいでになる所なら、
どこへでも従ってまいります』
このようなことを口にする人に対し、
イエスは何と答えたか。
『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、
人の子には枕するところもない……』
われわれがイエスの意識状態を理解することはもちろんできないのであるが、
神人といえども肉体をもって相対界に生きる以上、
疲れを感じもすれば、痛みも感じたに違いない。
しかしイエスには、肉体の疲れを感じても、
これをゆっくり癒す暇などなかったことが容易に想像できる。
そんなことが分かっていながら、そしてその通り言われながら、
人びとはなお、イエスの弟子となっていった。
そうして最後にどうしたかを知ることは、
相対世界というものを探求するわれわれにとっていささか興味深い。
最後には、多くの弟子が、
そしてもっとも近しかった弟子の一部も、
イエスを裏切ったのだった。
イエスが、自らを神の子と表現するのを聞いて、即、
『十字架につけろ!』と叫ぶ側に回った。
しかしわれわれには、
イエスを十字架につけたこの人びとを笑う嗤(わら)うことなどできはしない。
われわれも、相手に少し納得できない点や何かが見えれば、
にわかに手のひらを反し、罵倒し始めるのである。
たまたま目にしたり、人づてに聞いたりしたことの真相など分かるはずもなく、
さまざまな現象を理解することなど本当にはできないのに、
ものごとの表層だけ見て、われわれは判断を下す。
そうして、ひとたびは『あなたのおいでになる所なら、どこへでも……』と言い、
あるいは、『生涯の尊敬を捧げ』、
『他の誰があなたを愛するより、私はあなたを愛しています』と誓ったその相手を、
理由はどうあれ……
裏切っていくのである。
山上の垂訓の後、
山を下りたイエスは、重い皮膚病(ハンセン氏病)の患者を癒し、
百人隊長の僕(しもべ)を一言で癒し、
ペトロのしゅうとめに触れて熱病を癒し、
舟に乗って遭遇した嵐を叱って静め、
何人かにとり慿いた悪霊を追い出し……
まるで奇跡のシャワーを降らせるのであるが、
その合間にさり気なく挿入された弟子志願者との意味深い問答も、
11日(日)には堪能したい。