ブログがなかなか更新できず、待っておられる方には申し訳なく思っている。
最後に書いてから、今日でちょうど一カ月、
しかし感覚的には、3カ月くらい経ったような気分だ。
それほど、たくさんのことが次々と、起きては去っていった。
たとえばこの間、私は二度、伊勢神宮に行くこととなった。
一度目は雨、そして二度目も雨だった。
かつて、『大いなる生命と心のたび』で皆さんとご一緒したときを勘定に入れると、
通算三度、すべて雨。
我が身の不徳を責めていたところ、
伊勢の参拝時に雨なのは、神さまがお慶びの徴だという説を複数の方から聞いた。
本殿前でお祈りしていると、
あの白い布が上方に吹き上がることもよくあり、
それがその徴だという説もある。
それはそうなのかもしれないが、いずれにしても、
一度、晴れ渡った伊勢神宮を参拝したいという気持ちは拭いがたい。
ところで、神社で正式に祝詞を挙げていただくと、
最後に神札(おふだ)と一緒に神饌(しんせん)をいだたくのが普通だ。
神饌は、お祈りに際して神にお供えしたのち、神前より頒(わか)たれたもので、
神事のあと、これを皆でいただくことを「直会(なおらい)」と呼ぶらしい。
神代の時代から、日本で、大切な行事として受け継がれてきたものだ。
しかし、それと同じことは、聖典のなかで、クリシュナ神によっても述べられている。
『祭祀の残り物を食べる善人は
あらゆる罪科から解放される』(【バガヴァッド・ギーター】3・13)
まさに「直会」のことである。
ここにいう祭祀とは、実は宗教的な儀式に留まらず、
個別生命のあらゆるレベルにおける「祈り」であったり、「儀式」であったり、
「奉仕」であったり、「瞑想」であったりもする。
その詳しい解説は明日行なうとして、しかし、
字義どおりの「祭祀の残り物」とは……
ホーマの際、神々に捧げられた供物の灰のことをいう。
木々や食物、生薬や宝石、金銀やシルクなど、
ヴェーダ聖典に基づき、僧侶たちがマントラを唱えながら神々に捧げた供物すべてを合わせた灰が、
物質世界におけるその最大の象徴だ。
サティア・サイババがしばしばヴィブーティを物質化されたのも、
その意味合いによる。
前回、【バガヴァッド・ギーター】のこの部分を解説したとき、
ホーマで捧げられた灰を皆さんにお配りしたが、
その機会を逃したという方、ご友人にも渡したいという方が何人もおられた。
明29日は、今回の復習解説に併せ、
その後行なわれたさらに壮大なホーマの灰を、
謹んでお配りしたい。