青山圭秀エッセイ バックナンバー 第1号 – 第10号
最新号へ第1号(2005年8月31日配信)
創刊のご挨拶「メールマガジンを発行しますのでご登録を」などと図々しくお願いして半年、
今日まで創刊が延び延びになってしまいました。
この間、世界にも、日本にも、私自身にもさまざまなことがありましたが、
一番印象深かったのは、やはり6月、インドの津波被災地を訪れたことでしょうか。
そこには、日本にもたらされる通常の映像やレポートからは想像できない現実があり、
心の奥底に迫ってきました。
また、帰国してすぐに向かったヨーロッパの巡礼は空前の感動旅行となり、
『大いなる生命と心のたび』ご参加の皆さんで、
<プレマ倶楽部>内に新たな親睦グループが生まれました。
折しも、日本の将来を左右するといってよい国政選挙のさなか、
これから先の世界がどうなっていくのかは混沌としています。
そうした未来図については、エッセーやセミナーのなかで縷々、
触れるようにはしていますが、これについてヴェーダには、
昔も今も変わらぬ金言があります。
『世界は、汝のあるがまま──』
世界がどのように映るかは、その人その人の内面によるという意味です。
人生の充実や幸・不幸は、周りの環境にももちろん影響されるものの、
最終的には個人の意識レベルが決めます。そのために、
私がこれまで培ってきた科学──現代科学とヴェーダ科学の知識を、
皆さんには最大限に利用していただきたいと願っています。
今後は新しい情報があり次第、短いものをしばしばお送りするようにしたいと思っています。
また、<プレマ倶楽部>の皆さんには、会員限定版を折に触れ、お届けする予定です。
涼しくなってはきましたが、くれぐれもご自愛くださいますように。
第2号(2005年9月9日配信)
地震や雷、台風が続いていますが、皆さんはこの夏をいかがお過ごしになりましたか??杉並に住む知人のお宅は、一階が床まで浸水したといいます。
そうかと思うと、福岡の友人は、ほとんど平穏無事だったとのことでほっとしました。
沖縄、四国、中国、九州地方の皆さん、
カトリーナよりも大きいという今回の台風で被害はなかったでしょうか……。
今年3月に予定していたスリ・ランカ旅行は、
スマトラ沖の津波によって一旦延期されました。
心新たに組み直した11月の日程は、すでにホームページにご紹介しましたが、
お申し込みの皆さんには、オプションのアーユルヴェーダ体験について、
追って詳細をご案内します。
第3号(2006年1月1日配信)
謹んで、新春のお慶びを申し上げます。昔から、年が明けたからといってそれをお祝いする理由は
どこにもないだろうと思っていました。
特に努力しなくても年は明けるし、
単に普通の一日が刻まれただけではないかと……。
でも、日本のみならず、世界中の人びとが長年にわたって
お祝いし続けているのであれば
それにはそれなりの意味があるのではないかと、最近は思います。
昨年大晦日のエッセーにも書いたように、旧い年は速やかに過ぎ去り
新しい年がやってきます。同じように私たちにとっても
過去はいずれにしても流れ去り、生命の新しい局面がやってきます。
そのようでないと、私たちは過去の失敗やその結果に囚われて
新たな進化が停滞してしまいます。
いずれにしても、いかなる生命の進化も押し進める
自然界の抑え難い力の象徴として、新たな年の始まったこの日
私たちは「おめでとう」と言うのかもしれないと……。
皆さまには健やかに新年をお迎えのことと思いますが
私はといえば、普段なかなかゆっくりはできない仕事の準備を元旦からしています。
<プレマ・セミナー>では、悩み苦しむアルジュナに対し
尊主クリシュナが生命の、ダルマの法を説くという
第二章のクライマックスの部分に来ています。
第二章はまた、東洋の聖書『バガヴァッド・ギーター』全体のハートと呼ばれる部分です。
『大いなる生命と心のたび』は
初の国内ツアーとして春に秋田の聖母マリアと東北の聖地、
秋には千年の巡礼地サンチャゴ・デ・コンポステーラ、
ファティマ、アヴィラ、ガラバンダルの巡礼を計画中です。
秋田では、聖体奉仕会の特別なご配慮により
涙を流された聖母のおられる修道院に泊めていただける予定です。
また、今年前半には、<プレマ倶楽部>会員限定の新情報を流しますので、
会員の方で未登録の方がおられましたら、
なるべくメルマガに登録しておかれますようお勧めください。
今年は、このメルマガ回数を増やすことも、私の目標の一つです。
どうか応援してください。よろしくお願いいたします。
第4号(2006年2月28日配信)
トリノオリンピックの終わりに続いて2月も終わり、時の経つ速さには驚くばかりです。
時の経過を感じるのに、私は昔から「オリンピック」を尺度にしてきました。
たとえば、あの長野オリンピックからはや8年が経ちます。
思えばあのとき、日本は空前のメダルラッシュに沸いていました。
スピードスケートの清水宏保は、
「大丈夫だと思う」と言いながら本当に金メダルを獲るという、離れ業を演じました。
その清水は、今大会にも出場していて、18位という結果でした。
ジャンプの原田は、その4年前の大失敗ジャンプ、
そして長野でも手痛い失敗ジャンプをやりながら、
最後の最後に大ジャンプを飛んで日本中を感動させました。
その原田も4大会連続で出場しましたが、
なんと体重が200グラム足りなくて失格という、
誰にも予想できない結果を“演出”しました。
よかれ悪しかれ、意表をつく人というのはいるものです。
しかし長野のとき、私が最も感銘を受けたのは、
清水でも原田でもなく、堀井学でした。
清水と共にメダル候補に上がっていた彼は、
当時できたばかりのスラップ・スケートに馴染めず惨敗。
ライバルと対照的な結末を迎えた男のしぼり出すような涙が
私には最も美しく感じられたと、当時のエッセーに書きました。
そして今大会、もう日本にメダルは無理と思われていましたが……
女子フィギュアで金メダル。これには正直、驚きました。
女子フィギュアこそは、冬季オリンピックの華。一時は、
どんなに伊藤みどりがジャンプを飛んでも、
日本人の体型でこの種目は無理と言われていたのですから。
聞けば、荒川選手は早くから天才少女といわれ、
長野オリンピックに出場しながらも転倒して13位。
次のオリンピックには選ばれず、挫折。
最近は後輩の村主、さらに幼い浅田真央にも勝てない状態であったといいます。
それがここへきての金メダル。人生、努力を続けていれば、
どこでどう逆転するか分からないという、よい見本を示してくれました。
荒川さんは言います。
「私がほしいのは、金メダルよりも『スケートを続けてよかった』という思いです」
まさに今、解説している『バガヴァッド・ギーター』の境地。
おそらく、彼女はその境地にあるというより、
その境地を目指して競技を続けてきたのでしょう。
そうしてついに、『スケートを続けていてよかった』という瞬間を迎えました。
この次、冬季オリンピックが開かれるとき、私たちはどうしているでしょうか。
毎日瞑想していると、誰にも予想できない、
とてつもなく素晴らしい未来が待っているような気がしてきます。
そして気がつくと、しばしば本当にそうなっているのです。
第5号(2006年7月6日配信)
昔、慶応に志村という投手がいた。東京六大学野球で輝かしい戦績をおさめたこの投手を知っている方は、
しかし、読者のなかに一人もおられないに違いない。
彼は将来を嘱望されながらも、プロには行かないと宣言、ドラフトを回避したのであった。
そうして彼が就職したのは、とある大手不動産会社であった。
「プロで成功しても、一生の間にもらえるのはせいぜい数十億。
それより、一度に数百億を動かす仕事をしてみたい」という台詞を残し、
彼は球界から去った。
ところが、バブル経済は崩壊。
その後、志村氏が数百億を一度に動かす立場になったのかどうかを私は知らない。
が、おそらく彼は、自分よりもはるかに才能の劣る選手が華々しく活躍する場面を
いやというほどテレビで見ることになったには違いない。
王ジャパンが世界一になり、大観衆の前で自らが活躍したであろう場面を、
何度も脳裏に思い浮かべることになっただろう。
さらに現実には、わからずやの上司や無能な部下に、さんざん悩まされたことだろう。
そうして、かつて多くの人たちに惜しまれつつ自分の下した決断に
何の疑問も生じなかったかといえば、人間、そんなにきれいなものではないだろう。
中田英寿が引退するというニュースを聞いて、志村投手のことを思い出した。
中田は、いまだ29歳。
サッカー選手として、体力的にも経験的にも脂の乗りきった時期の引退は、あまりにも早すぎる。
だが、もともと彼は、自分はサッカー選手にはなりたくない、
公認会計士になりたいと言っていたのである。
志村投手と違って、幸いにして彼はプロ入りし、国民に多くの夢を与えてくれた。
だから、この度の引退は早すぎるとはいえ、まだわれわれは幸運だったのだ。
実際には、志村投手が多くの局面で“後悔”に見舞われたであろうと同じように、
中田がこの早すぎる引退をチラリと後悔するときも、必ず来るだろうと私は思う。
実業家か、公認会計士かは知らない。
が、サッカーの世界で発揮したような天才ぶりをふたたび容易に発揮できるほど、
実際の社会は甘くないであろう。
もちろん、中田のスタイルからいって、
彼自身が後悔という言葉を公に口にすることは、生涯ないに違いない。
だが、人は後悔するものだ。どんな人の生涯にも、それはついて回る。
もちろん、この私の感想が、
鴻鵠の志を知らぬ燕雀のつぶやきならそれに越したことはないが……。
ともあれ、今度は彼がどのような人生を歩むのかに、国民は興味津々だ。
その新しい挑戦を見て、われわれはふたたび彼にエールを送り、
そこからまた何かを学ばせてもらうことになるのである。
第6号(2006年8月5日配信)
インドで10日間ほどを過ごし、帰国しました。インドを旅するときの苦労の一つは、その「温度差」にあります。
言うまでもなく、外は灼熱の大地。日差しは強烈で、アスファルトや石畳みも灼けています。
寺院には基本的に素足で参拝しますが、昼間、10メートルは可能でも、
20メートルは歩いていられません。
外気が“暑い”からではなく、地面が“熱い”からです。
インド人の皆さんはそれほど苦にしていないのが不思議ですが、
私は石の灼けていない日陰から日陰へと忍者のようにつたいながら移動し、
ときどき水をみつけると足を冷して寺院内を移動、礼拝することになります。
それなのに、というか、それだからか、車の運転手は例外なく、無類の冷房好きです。
無防備で何時間も続けて乗っていると、必ず鼻や喉を痛めます。
宿泊も、思い切っていいところに泊まると冷房が効き過ぎていて、部屋の冷房を切っても寒いし、
一方、節約して安宿に泊まると暑くて一晩中眠れない、ということもよくあります。
皆さんにはインドに連れてって、とときどき言われますが、
私がインド旅行よりもヨーロッパの巡礼旅行を心待ちにする理由の一つは、
そんなところにもあるのかもしれません。
東京に帰ってみると、意外に涼しいのに驚きました。
が、アメリカでは大熱波で百人以上の方が亡くなっているそうです。
世界的に、気象のブレが大きくなってきているように見えますね。
東京でも、昨日(4日)あたりからまた、夏本番を迎えた感じです。
皆さんは風邪をひくこともなく、お健やかにお過ごしください。
第7号(2006年8月24日配信)
【God Father】8月も下旬ですが、東京は相変わらずの暑さです。
東京以外にお住まいの皆さまも、それぞれに暑い夏を過ごしておられることと思います。
夏が「暑い」のは当然なのですが、夏は同時に「熱い」ものです。前回のメルマガでは、
灼けるインドの石畳のことを書きましたが、夏はなぜか精神的にも熱い。
それは、夏の暑さが私たちの基礎代謝を押し上げることと関係がありそうです。
夏に甲子園大会があるのは、その意味でまことに合理的です。
また、プロ野球ペナントレースの山場も、しばしば夏場にやってきます。
この8月も、私にとって忘れられないものとなりました。
エッセーにも書いたように、8月15日は日本にとっては終戦記念日であり、
カトリック教会にとっては「聖母被昇天の祝日」です。
その数日前、瞑想をお教えした方の一人からメールがきました。
今度のマリア様の祝日に洗礼を受けることになったと書かれていました。
彼女は、『大いなる生命と心のたび』にも何度もおいでになり、
キリスト教の聖地を巡礼された方でした。単に体が旅行をしただけでなく、
心の奥底でイエス様やマリア様に対する思いを募らせていたのでしょう。
私の知らない間にカトリック教会に通い始め、
受洗数日前になってそのことを打ち明けられたのでした。
洗礼式に招いてくださるという、マリア様からの思わぬ贈り物に私は喜んだのでしたが、
彼女は、これ以上ないほど控えめな表現で、もう一つのことを言い出されました。
「代父になってください」
代父とは、英語でいうGod Father。それはマフィアの親分のことではありません。
キリスト教文化圏においては、赤ちゃんが生まれたとき当然に洗礼を授けるのですが、
そのときの名付け親にその後の信仰生活の保証人にもなってもらう。
この人をGod Fatherと呼びます。
大ヒットした映画『God Father』では、最後のシーンで、
マイケル・コルレオーネが教会で甥の洗礼式に参列しながら、
同じ時間に五大ファミリーの親分衆を次々葬り去っていきます。
こうして彼は、名実共に、父親からファミリー全体の
“God Father”の地位を受け継いだのでした。
思わぬことでGod Fatherになることとなった私は、
8月15日の当日、正装し、緊張して教会に行きました。
洗礼を授かる彼女自身は、きわめて日常的な服装で来られ、
そのことがまた、大いに微笑ましく感じられました。
直前であったにもかかわらず、
去年メジュゴリエを一緒に巡礼した仲間も数名かけつけ、
心温まる洗礼式となりました。
こうしてローマ・カトリックの一員となった彼女は、
今後、教会における儀式に正式に与ることができます。
たとえば、ミサの間に聖変化して「キリストの体」となった
ご聖体をいただくこともできますし、
司祭に罪を告白することで赦しを得ることもできます。
瞑想を土台としながら、こうした宗教的な儀式もまた、
彼女の意識の進化を大いに速めることでしょう。
しかしその彼女のおかげで、私にとっては、暑くて熱い8月の一日が充実した、
至福のひとときとなったのでした。
第8号(2006年9月8日配信)
【慶事】8月下旬、かなり涼しさを増した東京の気候は、
9月に入り、残暑をぶり返しています。
気候以外に、日々厳しいニュースが続くなか、
この度は国民的な慶事がありました。
41年前、今の秋篠の宮様がお生まれになって以来、
皇室には男子が生まれていませんでした。
41年間に、少なくとも9人のお子さまが皇室には誕生していますが、
それが全員女子、ということが起こる確率は、単純に計算して512分の1。
こうして今春には、皇室典範改正のための法案が、
国会に提出される寸前までいきました。
国民の多くが、
女性天皇と女系天皇の違いを理解する前のことでした。
高々百年程度の歴史しかもたない郵便制度に比べ、
こちらは二千年以上続いた皇室や、
ひいては日本の国自体のアイデンティティにも関するものだったので、
ふたたび政争に発展するかと危惧されましたが、
そこに「紀子様ご懐妊」のニュースが飛び込んできました。
今回の親王様ご誕生で、皇室典範改正論議は一息つくようですが、
かりに今後もふたたび、皇族に男子が生まれないようなことが続けば、
いずれは考え直さなければならなくなるのでしょう。
どのような皇室像が象徴天皇のあり方にふさわしいのか、
国民的合意を得るための猶予はおそらく数十年与えられたので、
一つの尊い生命が生まれたということとは別の意味においても、
この度のことは慶事でした。
もっとも私としては、
いまだに心のなかで密かに願っていることがあって、
それは皇太子様と雅子様との間に皇太孫がお生まれになることです。
そういう声が雅子妃にプレッシャーをかけるのだとのお叱りを覚悟の上で、
なお、それを願うのではありますが……。
第9号(2006年9月28日配信)
【秋】毎年、日本アーユルヴェーダ学会は秋にあります。
エッセーにも書きましたが、今年は富山で、9月23、24日に開催されました。
今回は、
『瞑想による長期的な心理変化
──<Art of Meditation >による肯定性の増大──』
という演題で話してきました。
瞑想講座をおとりになった方には、
この研究のための調査票が送られてきたと思います。
瞑想を始める前と、始めてから1年程度が経った後とで、
心や体にどのような変化があったかを知るためのものです。
心理学の分野で確立されたいくつかの指標を使って調べた結果は、
瞑想を1年ほど続けた方においては、
心身ともに有意に状態が改善しているということでした。
また、経済状況を含む環境要因にも有意な改善がみられました。
これらは、危険率1%、または0.1%で有意でしたので、
大変顕著な変化であるといえます。
同じ学会のなかで、
他の研究者が他の瞑想法について調べた結果を出していましたが、
そちらでは、どうやら差が出なかったようでした。
結構納得してしまいました。
ときどきお話しすることですが、
他のすべての文化がそうであるように、科学の発展もまた、
人びとの集合的意識の上に成り立っています。
正しい瞑想にこのような力があるということは、
体験的には分かっても、客観的なデータにするためには、
皆さんにご協力いただいて初めてできることでした。
その意味で、瞑想されている皆さんは、
太古のヴェーダ科学を日々実践されているだけでなく、
現代科学の発展にも貢献されていることになります。
そのような皆さんに、この場をお借りして、
篤く御礼を申し上げます。
第10号(2006年10月30日配信)
【先輩】かつて私が福山の小学校を終えて広島学院に入ろうというとき、
当時の担任の先生が、二学年上にかつての教え子がいると話してくれました。
この方とは、中学では同室になりませんでしたが、
高校に入ってから一年ほど、寮の同じ部屋でお世話になりました。
彼は毎日、新聞を一時間ほども読み、
それほど勉強しなくても学年で常にトップを争うという、天才肌の人でした。
この人と同室だったときが、間違いなく、寮にいた5年間で最も幸せで、
充実した時期でした。
彼が後に東京大学法学部に悠々と合格し、
さらに東大在学中に司法試験に合格したことは知っていましたが、
その名前を、先日、たまたま新聞で発見しました。
定期的なたん吸引が必要であることを理由に、
東京都大和市の青木鈴花ちゃん(6)が保育園への入園を拒否されたことに対する裁判で、
東京地方裁判所は、
「市町村には児童が心身ともに健やかに育成する上で
真にふさわしい保育を行なう責務がある」
「障害者だからといって一律に保育を認めないことは許されない」
とし、入園を認めるよう命じたと報じられています。
関係者のお慶びはいかばかりかとお察ししますが、
この判決を下した杉原則彦裁判長が、その人でした。
杉原さんには高校を卒業してから一度だけお目にかかったことがあって、
私が博士課程の学生の頃、開通したばかりの半蔵門線でばったり遭遇しました。
お互い、すぐに分かりました。
郷里の福山でも、彼が法曹界で出世しているという噂は聞いていて、
当時、最高裁でお仕事されていると聞いても特に驚きませんでしたが、
私のような後輩に対しても敬語を使われ、
かつては「青山」だった私のことを突然
「青山さん」などと呼ばれたことに仰天したのを、今でも覚えています。
今回、ニュースには「杉原裁判長」の姿が幾度となく映し出されましたが、
黒の法衣に包まれていたとはいえ、
精悍なお顔は三十年前とほとんど変わりませんでした。
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