王朝 2

 1960年、アメリカ有数の富豪でもあったケネディ家は絶頂期を迎えていた。次男のジョン・F・ケネディをホワイトハウスに送り込むことに成功するや、ジョンは弟のロバートを司法長官に任命、こうして3人の兄弟が大統領、司法長官、上院議員を務めることとなった。“ケネディ王朝”の始まりである。
 しかしこのとき、王朝は、実は始まりの始まりではなく、終わりの始まりだった。すでに一家の長男(ジョンの兄)ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアは、第二次世界大戦中、自ら操縦する爆撃機が爆発し死亡していた。続いて1948年、次女のキャサリンのチャーター機が墜落して死亡。ともに20代の若さだった。 
 ジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日、ダラスで暗殺され、弟のロバート・F・ケネディ(RFK)も1968年、民主党の大統領候補指名のキャンペーン中に暗殺された。

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王朝 3

 悲劇は、世代を超えて続く。JFKの次男パトリックは1963年8月、未熟児で生まれ、2日後に死亡。
 RFKの長男ジョセフは1973年、車の事故に巻き込まれ、同乗者の女性は生涯、身体麻痺になった。三男のデービッドは1984年、麻薬の過剰服用で死亡。
 RFKの四男マイケルは、自分の子供の十代のベビーシッターと関係を持ったと暴露された挙げ句、1997年12月31日、スキーで滑走中、木に激突して亡くなった。
 エドワード・ケネディがついに大統領になれなかったことは冒頭に書いたとおりだが、その妻はアルコール依存症に苦しみ、離婚。
 長男エドワード・ジュニアは1973年、がんで右足の切断を余儀なくされた。
 次男のパトリックはコカイン中毒に苦しみ、エドワード・ケネディの甥で医学生であったウィリアム・S・ケネディは1991年、婦女暴行の罪で告発された。

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王朝 4

 それでも、ケネディ家には一条の光があった。暗殺された大統領の息子・JFKジュニアは、ボストン大学を出た後、ニューヨーク大学法科大学院を卒業。マンハッタンで検事補として働いた後、1995年、政治月刊誌を発行、編集長となった。
 ホワイトハウスの大統領執務室では父のデスクの下にもぐって遊び、父親の葬儀の時には柩に向って無邪気に敬礼した2歳のときの彼の姿を、米国民は忘れていなかった。王朝を再興するのは、やはりJFKの息子に違いないと。
 だが、1999年7月、JFKジュニアの操縦する自家用機は突然、マサチューセッツ沖で消息を絶った。従兄弟にあたる、故ロバート・ケネディの娘の結婚式に向う途中であった。何が起きたのかは分からない。が、飛行機の残骸のなかから、JFKジュニアと最愛の妻キャロリン、その姉ローレンの遺体が発見された。
 2000年、上院選への出馬の意向を固めつつあった矢先の出来事。海域は、亡きJFKがこよなく愛し、ダラスからもどった柩を秘密裏に沈めた場所の近くだった。
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父の柩に敬礼するJFK Jr.
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JFK Jr.と、その妻キャロリン 
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この同じ海域に父の柩は沈められ、子の飛行機が墜落した

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王朝 5

 どのようにして、特定の一族がここまでの悲劇に見舞われるのか……。それは偶然かもしれない。一族が富や権力に奢った結果なのかもしれない。
 しかしここに、これらの悲劇とともに常に語られる一つの事実がある。それは、ケネディ元大統領の父パトリック・ケネディの資産形成過程と関係がある。
 貧しいアイルランド移民であった彼は、酒の密造や金融(株価)操作、マフィアとの結託等々、あらゆる違法手段を駆使して巨大な資産を形成していった。単に法を犯したというだけでなく、多くの人びとに塗炭の苦しみを舐めさせたに違いない。JFKは選挙においても、マフィアを使った。そのマフィアに充分な礼を尽くさず、却ってこれを冷遇したことが、暗殺の原因の一つであったと一般にいわれている。
 こうして、ケネディ家の栄光と悲劇を思うとき、私の理性はさまざまな可能性を考えるにしても、私の感性は一つの法則を思い出さざるを得ない。最終的に、ダルマにかなった行為は幸福を、そうでない行為は不幸を伴うという法則。一見しただけでは分からない。一時的に免れたような気がするかもしれない。だが、時の経過とともに、この法則は密やかに成就する。

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王朝 6

 では、ケネディ家は悪事のみを働いたのか。だからここまでの悲劇に見舞われるのか。もちろんそうではない。彼らもまた、多くの善いものを社会にもたらしてきた。だからこそ、栄光をつかみ、今でも米国民の共感を得るのである。そして私は、最近、ケネディ家の隠れた遺産の一つを発見した。

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王朝 7

 ケネディ家の長女ローズマリーは、優秀な家系にあって一人、精神障害を持つ者として生まれた。
 父パトリック・ケネディは彼女に、当時研究段階にあったロボトミー手術を受けさせ、廃人にした。それでも、この姉を支えたのが三女のユニス・ケネディ・シュライバー夫人であった。彼女は、障害のある人たちの可能性を伸ばすにはスポーツの効果が大きいことに気づき、1963年、知的発達障害の人びとのために自宅の庭を開放してデイキャンプを開いた。
 運動はその後発展し、1968年には知的障害者のための第一回国際スポーツ大会として結実した。88年、国際オリンピック委員会(IOC)との間で「オリンピック」の名称使用や相互の活動を認め合う議定書を取り交わし、正式に「スペシャル・オリンピックス」として発足した。
 健常者のためのオリンピック、身体障害者のためのパラリンピック、知的障害者のためのスペシャル・オリンピックス(SO)である。現在、160以上の国や地域が加盟、アスリートの数は100万人、活動を支えるボランティアは75万人を超える。
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ケネディ家の母ローズ(中央)と、長姉ローズマリー(右)

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王朝 8

 スペシャル・オリンピックスは、2005年に冬季世界大会を開催する。場所は、日本の長野。そのことを、日本国民もまだよくは知らない。
 そのためのチャリティ・コンサートが昨日、ホテル・ニューオータニで開かれた。かつて中学生の頃、体操をしていたわれわれの憧れの的だった監物永三さん(リュブリアナ世界選手権者、その後3つのオリンピックで9つのメダルを獲得)や、14才の金メダリスト岩崎恭子さん、世界大会を日本に招致した元首相夫人・細川佳代子さんたちのトークを楽しみ、世界的な京胡演奏家・呉汝俊(ウー・ルーチン)さん、久々の喜納昌吉さん、ムッシュかまやつのコンサートを堪能した。
 そして、これらすべてをプロデュースしたのが湯川れい子さんだった。初めてお会いした頃から十数年、お互い、物理的には年齢を重ねた。が、人のため、社会のために何かをする女性の姿は、以前にも増して美しかった。
 チャリティ・オークションでは、今は陶芸家となった細川元首相の茶碗を巡り、隣席の鳩山由紀夫さんと同時に5万円に挙げたが、ともにおいていかれ、結局30万円の値がついた。収益は、すべてスペシャル・オリンピックス長野大会の運営費に充てられる。

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王朝 9

 世界の歴史に名を残すケネディ家。巨大な良いことも、巨大な悪いこともしただろう。その結果、王朝はすでに過去のものとなった。しかしまぎれもなく、彼らの残したもののなかで最も長く伝えられる遺産の一つはスペシャル・オリンピックスであり、以下のようなその精神であろうと私は思う。  
 『スペシャル・オリンピックスで大切なものは、最も強い体や、人を驚愕させるような気力ではありません。大切なのは、各個人の、あらゆる障害に負けない精神です。この精神なくしては勝利のメダルは意味を失います。でもその気持ちがあれば、決して敗北はありません』 
── ユニス・ケネディ・ シュライバー ──

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記録 1

 あと一年でFA権を取得という年に、ポスティングシステムで渡米したイチローに好感を持ったのは、ぼくだけではないと思う。
 FAならばただ手放すだけになったオリックスには、このために莫大な利益が転がり込んだ。そのせいでもなかろうが、まさにその一年目、彼は首位打者となり、盗塁王、新人王のタイトルと並んでMVPを獲得した。日本人が大リーグでこれらのタイトルを総なめにするなど、いったい誰が予想できただろうか。
 2年目、3年目は、やや低迷気味だったといえるかもしれない。マークもきつくなっただろうし、そうそう毎年首位打者というわけにもいかないだろう。
 が、それにも増して悪かったのは、今シーズンの出足である。4月の打率は2割5分台。この時点で、今シーズンのイチローが世界の球史に残る大記録を打ち立てると予想した者もまた、皆無であったに違いない。

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記録 2

 ところが5月に入ると、イチローは猛チャージをかける。月間50安打。さらに7月、8月と50安打以上を放ち、終わってみれば大リーグ記録を更新。オールスター後の打率は、実に4割2分を超えた。
 あと12試合で19本、などという局面があったが、プレッシャーもかかろうに、大丈夫かと思って見ていた。が、一試合に5安打、4安打と固め打ちして、一気に記録への距離を縮めた。
「プレッシャーはアスリートにとっての醍醐味」などと、イチローは嘯いた。これこそ、彼の恐るべき才能の証でなくて何であろう。それに加え、彼は怪我をしない。もともとの強靱な肉体に加え、誰よりも時間をかける入念なウォームアップ、デッドボール性の球を巧みに交わす反射神経などが、その秘密といわれる。
 関係者は口をきわめてその才能に賛辞を送る。が、私が何より好きなのは、イチローの次の言葉だ。
「小さなことを積み重ねていったとき、とんでもないところに自分がいたのを発見した」

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