破局 4

ヴェーダは、そのような破局は、大なり小なり、ある程度の間隔をおいてやってくることを告げている。戦争にしても災害にしても、それらは、自然界に生きる個々の生命が自然の法則を犯す、さまざまな罪科の積み重ねとして起きてくる。
人が人を殺したりというような、大きなものだけではない。たとえば親がいらいらして子供にあたり、上司が理不尽な命令を部下に下し、あるいは目下の者が目上に充分な敬意を払わず、夫が妻に、妻が夫に思いやりのない言葉を吐きといった、日常的に犯される小さな罪科が蓄積されていったとき、自然は最終的に、さまざまな形の災厄で正義を通したり、生命の進化を促したりする。
現在、<プレマ・セミナー>で解説している東洋の聖書『バガヴァッド・ギーター』は、一貫してそのことを教えている。
イエスもまた、言う。
『まことにわたしは言う。それらがみな実現するまで、今の代は過ぎ去らぬ』
それは必ず来るというのである。しかしイエスはまた、それでも過ぎ去らないものがあるという、より本質的なことを同時に語っている。
『天地は過ぎ去る。だが、わたしの言葉は過ぎ去らぬ』
(マタイ 24・34〜35)

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破局 3

これから世界がどのようになっていくのか、われわれには分からない。未来が決まっているのかどうかすら、知る術もない。大難が、善良な人びとの祈りのおかげで中難や小難になるという考え方は世界中の宗教にあり、聖書にも、それを思わせる次のようなイエスの言葉がある。
『そのとき、ユダヤにいる者は山に逃げよ。
 屋根の上にいる者は、家のものを取り出そうとして下りるな。
 畑にいる者は、外套を取りに引き返すな。
 その日不幸なのは、みごもった女と乳を飲ます女である。
 こういうことが冬や安息日に起こらぬよう、
 その日逃げ出すことのないように祈れ。
 そのときには、世の始めから今までになく、
 後にもないほどの大艱難が起こる。
 その日が短くされぬなら、救われる者は一人もない。
 だが、その日は、選ばれた者のおかげで短くされる』 
 (マタイ 24・16〜22)

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破局 2

聖母マリアは、世界のさまざまな場所にご出現になり、あるいは奇跡の水を湧きださせ、あるいは人びとの悔い改めを求めている。
そしてその預言もまた、常に、もしこのままあなた方が悔い改めないなら、というただし書き付きの形になっている。
『破局まで、パウロ6世から二人の教皇しかいない』という預言についても同様である。
人は常に、自らをよりよい方向に導くことができるし、未来を変えることができる。預言も、そのための預言だという立場はどんなに強調しても強調しすぎることがない。
ところで、この預言の内容そのものについては、パウロ6世から数えて三人目の教皇のときに破局が来ると解釈すべきだという説がある。本当は二人の教皇しかいないはずだったのに、一部の正しい人びとの祈りのおかげで延期された、あるいは、ヨハネ・パウロ2世の苦しみと引き換えに持ち越された、という説もある。
一方、先に触れたマラキの預言については、111番目の「オリーブの光」と112番目の「ローマの人ペトロ」は同一人物ではないか、という説がある。
これを聖母預言の解釈と同時にとると、(このままでいけば)これから選ばれる法王の治世で破局がくることになる。
あるいは、運がよければ、破局はそのまた次の法王の治世まで持ち越されるのかもしれないし、ふたたび、善良な人びとの犠牲や祈りのおかげで延期されるのかもしれない。

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破局 1

聖マラキ以外に、ローマ法王に関係した破局の預言を残されたのは、ほかならぬガラバンダルの聖母マリアである。
『(そのときまで)パウロ6世から二人の教皇しかいません』
『そのうち一人は、大変短い治世で終わります』
実際、パウロ6世の後を継いだヨハネ・パウロ1世は、33日間の治世で世を去った。だからこそ、ヨハネ・パウロ1世が急死した後、枢機卿たちは、いまだ50代の若い法王を選んだのだという説がある。何の下馬評にも上がっていなかった、非イタリア人の枢機卿を。
だが、そのヨハネ・パウロ2世も、就任して3年目、旧ソ連KGBによる暗殺計画により狙撃され、以後、ついに本来の健康を取り戻すことなく世を去った。
一方、マラキによれば、そのヨハネ・パウロ2世からまだ二人の法王が立つことになっている。どちらが正しいのか……。これについては諸説がある。
ちなみに、全く健康であったヨハネ・パウロ1世がなぜ突然亡くなったのか、その調査結果は公表されていない。
しかし法王庁の歴史のなかで、就任直後に亡くなったローマ法王がかなりの数にのぼることを考えると、それらは決して偶然ではないといわれている。

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予言 1

ローマ法王逝去に当たり、たくさんの皆さまからメールをいただいた。そしてそのなかに、『最後の奇跡』に現れる次の記述に触れられたものが複数あった。
12世紀のアイルランド。太古の昔から民間信仰と神話に彩られ、あらゆるものに魂の宿る世界。そうした非キリスト教的世界に生まれた聖者マラキは、しかし、熱烈なカトリック教徒となった。
25歳で司祭となった彼を有名にしたのは、後の大司教という地位や、教会内での目覚ましい働きではない。彼は、一つの預言を残したのである。それは、これから生まれてくるであろう歴代ローマ法王の性格を、逐一言い表すものだった。
たとえば、マラキが没して4年後に誕生したケレスティヌス2世はテベレ川に臨む城砦都市に生まれたが、この法王をマラキは「テベレ川の城」と呼んだ。同様に、徴を意味するSegni 伯爵家に生まれたイノケンティウス3世は「徴の伯爵」、靴造りを生業とするオッサ家に生まれたヨハネ22世は「オッサの靴職人」……。

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予言 2

こうしてマラキの預言した112人の法王のうち、110番目「太陽の労働」は、東欧は労働者の国に生まれたヨハネ・パウロ2世であるといわれている。そして111番目は「オリーブの光」、112番目については次のように記載されている。
『聖なる教会が最後の迫害を受けるあいだ、ローマの人ぺトロが法王位につく。彼は多くの苦難のさなか、小羊たちを司牧する。その苦難が去ると、七つの丘の町は崩壊し、恐るべき最後の審判が下される。終わり──』
七つの丘の町とは、ローマにほかならない。この預言は、ローマが壊滅することを言っているのか、それとも教会の崩壊を言うのか……。いずれにしても、聖者マラキは、『恐るべき最後の審判が下される』ことを預言している。

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進化 1

昨年の4月3日に始まった【意識の科学<Art of Meditation>】講座は、現在、第15期生の皆さんを迎えている。
ヴェーダの教える瞑想の威力に疑いをもってはいなかったが、それにしても私自身、想像した以上のものをヴェーダは与えてくれた。さらに、たくさんの真摯な生徒さんにも恵まれた。
この1年、私を支えてくださった皆さまやヴェーダの聖賢たち、導いてくれた神々には、感謝以外の何ものもない。

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進化 2

ところで、世の中には、この瞑想が合わないという人もいるのだろうか。何期か前に、初めて、初日の面談票を白紙で提出された方がおられた。
「どうも、よく分からないんです……」
そう言われるので、多くの方がこの瞑想に速やかに満足されるにしても、稀に、しっくり来るのに多少の時間がかかる人もいることをご説明した。しかし同時に、純粋意識そのものは、マントラを適切に用いる限り、すべての人が初日から体験していることも申し上げた。気づこうが気づくまいが、それは事実である。
翌日、面談室に入って来られたこの方は、やや様子が違っていた。
「過去世を見ました」
それは前日のうちに(つまり瞑想がうまくできなかったと言われたその日に)、何気なくマントラを使っていて訪れたのだという。
「そう(過去世)だということは、はっきり分かりました」
登場人物たちは、現在の人生に現れる登場人物と、違った姿形をしていた。それなのに、誰が誰に対応するのかは、はっきり分かるというのである。
この方が喜んでおられたのは、何も過去世を見たからではない。瞑想体験自体が深いものであったことに、満足されたのだ。

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進化 3

今期も、こんな方がおられた。
この方は講座の初日、瞑想の技術を教わった後、マントラを使い始めるとすぐ、むせび泣きたいような衝動に襲われたという。たくさんの群衆の、悲しい顔が見える。長くは瞑想できなかった。面談室でその体験について短く語ると、この方はやや済まなそうな表情を浮かべて帰っていかれた。
その夜、ふたたび瞑想を試みてやはり同じような体験をしたこの方は、2日目の面談のとき、こう言われた。
「どうやら、ローマ法王様がお亡くなりになるのを見てしまったようです」
その日の未明、ローマ法王が亡くなった。そのニュースを見て、前日(初日)に自分が見たことの意味が分かったというのである。その後、この方も通常の、心地よい瞑想を楽しんでおられる。

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進化 4

瞑想中、われわれの意識は、通常の時間や空間の枠を超えることがしばしばある。
そこで、精妙になった意識は、場合によっては過去世を見たり、知らないはずの未来を知るようになることもある。
あるいは人の心のなかが見えたり、神々を見たりするかもしれない。そうしたことのメカニズムは、主として2日目の午前中に詳しく説明するが、初日からそういう体験をする方もいる。
瞑想に付随してさまざま不思議な現象があるかもしれないが、しかしわれわれは、それに驚いたり、とらわれたりすることなく、瞑想を続けたらよいのである。期待することもしない。
精妙になった意識が通るさまざまな経験は、意識の進化の過程で起こってくる。しかし道筋は、人によってさまざまだ。神秘な体験を日常的にするようになる人もいれば、そうした体験をあまりしないが、体調がよくなったり人生がうまく展開しながら瞑想を楽しむ人もいる。
顔がさまざま違うように、進化の道筋も人それぞれだ。われわれの目標は、さまざまな現象の背後にある英知や至福、実在にまで到達することだ。

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