新法王 10

聖ベネディクトが山に籠もった頃、カトリック教会内に修道会という正式な制度があったわけではない。
キリストの霊性に与りたいと真摯に願う者たちが、一人、あるいは共同体を創り、山中や洞窟などで隠遁生活を送っていた。そうした人びとの従うべき基本的な規則を創り、「修道会」というものを創始したのが聖ベネディクトであった。
20歳前後で山に籠もったベネディクトは、最初からすべての欲望を統制下に置いていたわけではない。
ある夜、一人で祈っていると、世にも艶(あで)やかな女性が現れ、彼を誘惑しようとした。それは、聖者の心が創り出した幻だった。そのような状態を克服するため、彼は裸でイバラの中を転げ回り、修行したと伝えられる。
このような聖者の人格と精神性に惹かれ、多くの隠修士が彼のもとに集まってくるようになった。
共同体は、最初から「ベネディクト会」という組織を創ったわけではなかったが、聖者の書いた規則は「聖なる会則(ホーリー・ルール)」と呼ばれ、後の修道会すべての規範会則となった。
050429

美女の幻を見る
聖ベネディクト 

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 9

結局、計画は未遂に終わった。未遂に終わるはずである。周囲のことをまるで考えてないのだから。
もともと、広島の中学を受験し、寮生活を始めるなどということからして、昔の田舎の小学校では始まって以来のことだった。
その上、もしあのとき大学に行かずに修道会に入るなどということをしていたら、それも開校以来のことだったし、その後もおそらくなかっただろう。当然である。学校自体が、神学校ならぬ進学校なのだから。
ところが、聖人とか賢者と後に呼ばれるようになる人びとは、その辺からして違う。
たとえば5世紀の終わり、イタリア北部の美しいウンブリア地方に生まれた聖ベネディクトは、14歳のとき、学問を修めるためにローマへ出た。
ところが、そこで彼がみたものは、不品行と不道徳の蔓延する、邪悪な都市だった。その邪悪さが、今日のそれと比べていかほどのものだったのかは分からない。そう大したことではなかったのかもしれない。
しかし聖者はこれを忌避し、ローマを離れて山中の隠遁生活に入ったのだった。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 8

広島の西の外れの山上に、私の母校はある。カトリックの男子修道会であるイエズス会が、上智大学、六甲学園、栄光学園に続いて建てた学校で、広島学院という。
山上には学校と修道院と寮があり、その他には三輪明神という神社、少しの民家があった。そんな山中で、私は中学・高校時代を過ごした。
高校に進み、将来の進路を考え始めるずっと前から、カトリックの司祭(神父)になることを考えていた。
友だちは皆、東京や京都、大阪や広島の一流大学に入っていくに違いなかった。都会の大学に行くのは魅力的だった。そこには、未知の世界が開けているに違いなかった。しかしそこでは同時に、魑魅魍魎が跋扈しているに違いないとも感じていた。
(高校を出て、そのままイエズス会に入れたら……)
そんな誘惑が、いつも心のどこかにあった。
実際、それを勧めてくれる先生もいた。その場合、修練院というところでまず最初の年月を過ごすことになる。日の出前に起床して、祈り、ミサにあずかり、ラテン語や哲学の勉強と、室内・屋外での労働をして、2年間を過ごすのである。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 7

コンクラーベで、出席者の2/3以上の票を得た者は、ラテン語で「法王に選ばれたことを受諾しますか」と尋ねられる。彼がこれに「受ける」と答えて初めて、新法王が決まる。
かつて映画『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞に選ばれたマーロン・ブランドは、アメリカインディアンに対する抑圧政策への抗議として受賞を辞退した。
だが、科学者がノーベル賞を辞退したとか、作家が芥川賞や直木賞を辞退したという話は、寡聞にして知らない。同様に、歴史上、法王選出を辞退したという例も聞いたことがない。
次に新法王は、「何と名乗られますか」と聞かれ、新法王名が決まる。ヨゼフ・ラッツィンガーは、これに「ベネディクト16世」と答えた。
新法王の洗礼名は、イエスの養父であったヨセフである。堅信という別の秘跡を受けるときには堅信名を得たかもしれないし、仮に修道院に入れば、新しい修道名を受けるのが普通である。同様に、法王になったとき、彼は新しい名を自ら選ぶ。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 6

女性法王の可能性をも開きかねない女性司祭の登用を、ヨハネ・パウロ2世はまったく認めようとしなかった。その懐刀であった新法王もまた、在任中に認める可能性はないだろう。
その理由としてよく挙げられるのは、神が救い主として男性であるイエスを選ばれたこと、そのイエスは男性のみを使徒としたこと、等である。だが、もし本当にこれだけが“理由”だとしたら、そこに説得力はあるのだろうか。
話は少し違うが、日本の皇室においても、長い間、男系であることが本質的とされてきた。現行の皇室典範にも、「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と明記されている。
現在、この条文に改正の動きがあって、世論の大勢は改正に賛成し、公に反対するのは相当勇気のいる状況になっている。
しかしこの改正をもって二千年の伝統を否定し、とりかえしのつかない過ちを犯すことになる、という反対意見も、個人的に話してみると少なからぬ数の人が持っているようだ。
ヴェーダの伝統においては、かつて男性だけに与えてよいとされた種類のマントラ(真言)があった。現在、そのような区別はあまりないが、しかしそれでも、ヴェーダ典礼を行なう司祭は男性に限られる。
インドには女性の聖者もいるが、彼女らもまた、正式な祭祀は男性司祭に行なわせている。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 5

千年、二千年という時を経て世界の趨勢となった男女同権という立場から、カトリック教会においても女性司祭を認めるべきだとする意見が、特に欧米を中心にあるらしい。
荘厳なミサを司式し、ただのパンをキリストの体に変化させ、信者の罪を聞いてこれに赦しを与え……といった権能を持ちたいと女性が思ったとしても、決しておかしくはない。あるいはまた、司祭の数が現実に足りず、シスターしかいないとなれば、真摯で敬虔な彼女らを司祭に登用して何が悪いのかという議論にもなる。
だが、ヨハネ・パウロ2世は在任中、こうした意見に一切、耳を貸さなかった。
仮に今から何世紀かが経つうちに、カトリック世界でこのような意見が勢力を増し、同時に革新的な法王が現れて女性司祭の登用を認めたとしよう。その場合、女性司教(一つの教区を率い、教区内の司祭を束ねる)も認めないわけにはいかないだろう。女性司教がいれば、女性の大司教、枢機卿も誕生することとなる。
そうして千年も経った頃、司祭や司教になろうという敬虔な人びとのなかに女性が圧倒的に多ければ、ちょうど枢機卿会の多数を非イタリア人が占めるなど百年前には想像できなかったように、枢機卿会の過半数を女性が占める時代が来るかもしれない。
そうなったときには当然、歴史上初めて、女性法王が誕生することになるだろう。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 4

もともと、法王選出に三分の二以上の票が必要と決められたのは、13世紀のことである。
しかし、20世紀になって、10日間で30回の選挙を経た後、枢機卿が全員一致で望めば、過半数の得票で選挙が成立すると決められた。
さらに1996年、その条件は「全員一致」から、「過半数の枢機卿の同意」に緩められた。これを改正したのは、ヨハネ・パウロ2世であった。
教会法が、コンクラーベを行なう者(選挙人)を80歳未満の枢機卿に限定していることは、日本でもしばしば紹介された。
しかし実は、同法が被選挙人(法王に選ばれる者)を枢機卿に限定していないことは、ほとんど知られていない。
したがって、理論的には、洗礼を受けた男子カトリック信者ならば誰でも、次期法王に選出される可能性を持っている。
生前、ヨハネ・パウロ2世は、現在知られている枢機卿の他に、一人、匿名の枢機卿がいると洩らしていたと伝えられる。そしてもしかしたら、前法王は遺言のなかで、自らの後継者をその人にすると言い残しているのではないか、彼はコンクラーベに118番目の候補として登場するのではないか、等の噂があった。
この人物は、結局、コンクラーベに現れなかった。仮に、この人が教会法上は正式の枢機卿でなく、かつ、前法王が本当にそのような遺言を残していたとしたら、枢機卿位にない男子カトリック信者が法王に選出される可能性が実際にあったことになる。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 3

先日の<プレマ・セミナー>後、皆さんと一緒に観た映画『ブラザーサン・シスタームーン』には、久々に心洗われる思いだったというメールをいくつもいただき、感謝している。
その中で、聖フランシスコは、ときのローマ法王イノセント3世の謁見を求めてローマに上るが、謁見した法王のほうが逆にフランシスコの人格に打たれるという場面がある。
実際、真の聖者を目の前にしたとき、仮に彼が何の言葉を発しなくても、人は心打たれるものだ。
1226年、ローマと目と鼻の先アッシジで、清貧の聖者フランシスコはそのあまりに清らかな生涯を閉じ、後年、聖女クララがこれに続いた。しかし聖者らの死後も、カトリック教会の腐敗と堕落はとどまるところを知らなかったようだ。
1268年、教皇クレメンス4世が没したとき、時の枢機卿たちは権謀術数と遊興に明け暮れ、数年を経ても後継者を選出しなかった。
呆れ返った人びとは彼らを宮殿に閉じ込め、パンと水のみを与えて新法王を選ばせるという実力行使に出た。そのとき以来、法王選出選挙は、隔離された部屋で秘密裏に行なわれることとなった。
コンクラーベとはもともと「鍵で(閉める)」という意味だが、日本語でいえばちょうど「(枢機卿たちによる)根比べ」となる。
(※聖フランシスコと聖女クララの遺体は現在もアッシジの教会内に置かれ、拝礼することができます。)

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 2

今は亡きヨハネ・パウロ2世は、実際に自分で100カ国近くを訪問するなかで、千年も前に分裂した東方教会をはじめ、16世紀の宗教改革で分かれたプロテスタント諸派とも対話の努力を重ねた。
また、2000年の節目には、ガリレオ裁判や十字軍の遠征、ユダヤ人差別などで教会が過ちを犯したことを認め、謝罪した。さらにはユダヤ教やイスラム教との対話と和解を訴えた。
そうした柔軟路線とは別に、避妊・中絶・離婚・司祭の妻帯・女性司祭の登用などの意見には、まったくといっていいほど耳を貸さなかった。その意味で、彼は教義的にはきわめて保守的であったとされる。
そうした前法王を教理面で支えてきたのが、教理聖省長官を24年に渡って務めてきたヨゼフ・ラッツィンガーだった。ドイツ・バイエルン地方の生まれ。現在78歳というから、教理聖省長官に就任したのは54歳の若さであったことになる。
長い間、ヨハネ・パウロ2世の右腕として辣腕をふるってきたラッツィンガー枢機卿といえば、誰もが知る名であった。だが、今、この時点で彼は枢機卿ではない。ベネディクト16世が、新法王として彼自身が選んだ名である。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする

新法王 1

昨年6月、ポルトガル・ポルトの空港に降り立ち、市内に入ろうとしたとき、近づいてきたボランティア団体のメンバーから小さな“プレゼント”を渡された。避妊具であった。
ポルトガルはカトリック教国であるが、カトリックの教義が避妊を正しくないとしていることを考えると、そこに現代の矛盾の一端を見ることができる。
カトリックの教義においては、避妊は、「楽しみを享受しながらそれに伴う責任を回避する行為」として位置づけられる。したがって、それは神の摂理に反するとされる。
ところが現実には、避妊具の使用によって蔓延を抑えられる疾病がある。たとえばそれにより、HIVに感染し、亡くなる人を減らすことができる。こうして、人びとの体の健康を守ろうとする医師たちは避妊具の使用を呼びかけ、霊の救済を叫ぶ教会はその使用を認めない、という現象がおきた。
亡くなったヨハネ・パウロ2世は、教義面では超保守的だったと評価される。避妊、中絶、司祭の結婚、女性司祭等々、もっての他だ。そうして、側近と官僚組織も保守派で固めた。その前法王最大の側近が、ヨーゼフ・ラッツィンガーだった。

カテゴリー: キリスト教 | コメントする