黄金週間 2

「世の中に金持ちはたくさんいるが、連中はみな不幸そう。悪いが俺は、幸せだ」
そんなことを言っては、彼は大笑いをする。というより、話している間中、笑い続けている。世を斜に構えることもなく、本当に幸せそうな彼が、ますます幸せであって欲しいと願うばかりだ。
そうかと思うと、読者の皆さんのなかには、たいへん慎ましやかに希望を伝えてこられる方もいる。
「『バガヴァッド・ギーター』の解説。毎回楽しみにしているのですが……」
話を聞く間に『ギーター』の聖句を書き取りたいという誘惑にかられ、聞くほうがおろそかになってしまうのです、といわれるのである。
というわけで、次回5月14日、これまで読んだすべての詩節をプリントにして配らせていただくことにする。
「あと、数奇な運命を経て、聖者が物質化したあのシヴァ・リンガムの水を……」
……ということで、次回、希望される方は、その水を持ち帰れるよう準備させていただくことにした。
事務局より:
次回5月14日には、これまで読んできた『バガヴァッド・ギーター』の詩節すべてをプリントにしてお配りします。また、物質化されたシヴァ・リンガムの水も希望される方はお持ち帰りいただけますが、水を入れる容器は各自ご用意ください。
なお、「シヴァ神」は、究極的な普遍存在のインドにおける呼び名ではありますが、以上は希望される方だけを対象とするもので、<プレマ倶楽部>におけるすべての活動同様、いかなる宗教や宗派を勧めたり、信仰や信条を奨励するものでもありませんので、ご諒解ください。

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黄金週間

4月29日から10日間に及んだ黄金週間も、今日で終わる。行楽や、家族の団欒を楽しんだ方もたくさんおられたに違いなく、そんなことを想像するだけでも心楽しい。
この10日間のうち、実際に何日くらい休んだかはまったく人によるだろうが、新聞には、所得の高い層ほど黄金週間中の休みの日数が多い、という統計が出ていて興味深かった。
お金持ちほど忙しく働いているのかと思うと、彼らはたくさん休み(たぶん海外などへもお出かけだろう……)、所得の少ない層ほど休みも少ないというのである。
そんなものかもしれない。私も、この10日間に2nd STAGEが二期、1st STAGEが一期あり、一日も休みはなかった。だが、受講生の皆さんのおかげで、この上なく幸せだった。
 そんなことを地方の友人に新聞記事込みでメールしてみると、なんと彼は、「俺はの上を行く」と胸を張った。
聞けば、彼は4月に何かのことで会社を休んで以来、一日も休んでいない。もちろん、土日・祝日、黄金週間含めてである。次の<プレマ・セミナー>目指して上京してくるというが、当然、その日まで休まない。
では、さぞかし高給を取っているかと思いきや、「俺ほどよく働き、かつ収入の少ない者が他にいたら教えてくれ」と、ふたたび胸を張った。
「なぜ、おまえのような愚鈍な者に聖母は現れたのです?」
そう聞かれて、「私より愚鈍な者がいれば、聖母はその方にお現れになったに違いありません」と胸を張って答えた、聖女ベルナデッタを彷彿とさせる。

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新法王 18

『新法王4』に書いたように、司祭でない者が法王になる可能性は、教会法上あり得なくはないものの、しかし現代ではまったく考えられない。
司祭でなくして法王となったイノセント3世には、政治家としての側面があったようだ。彼は盛んに十字軍を派兵し、異教徒と異端の制圧に向かわせた。とりわけ、異端カタリ派に対する弾圧は苛烈を極め、カタリ派信徒の多くは正統派カトリックへ改宗……したのではなく、殺された。
その一方で、フランシスコ会の修道士たちは、自分たちで教会堂を再建し、貧者を助けるなどの活動を地道に続けていた。フランシスコ会やドミニコ会を認可することで、イノセント3世は教会に新しい風を吹き込んだという功績もある。
平信徒が突然法王になるのは無理だろうが、民間人が知事や首相になったりすることがあったほうが、社会は活気を呈していいかもしれないと思うことがある。しかし、彼らが期待外れに終わったときには落差も大きく、イメージ的なこと以上に実質的に社会が失うものもまた計り知れないことを、覚悟しておくべきである。
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世界史で習った
十字軍遠征路

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新法王 17

ヨハネの他に多い法王名を挙げると、たとえば「イノセント」という人が13人いる。
そのうち、最もよく知られているのはイノセント3世である。彼は1209年、アッシジの聖フランシスコの来訪を受け、謁見を与えたことで、逆に歴史に名を留めることとなった。
映画『ブラザーサン・シスタームーン』ではなかなか精悍に描かれているこの法王は、しかし、調べてみると奇妙な経歴の持ち主だ。法王に選出されたのは弱冠37歳前後であったとされるが、そのとき、彼はいまだ司祭ですらなかった。しかし枢機卿ではあったとされる。
ローマ・カトリックにおけるヒエラルキー(身分階層)が、おおむね、信徒・司祭・司教・大司教・枢機卿・法王といった順であることを考えると、かなり不可思議なことのようには思えるが、かつてはこうしたことがどのようにしてか可能だったらしい。
ちなみに1209年、イノセント3世が聖フランシスコに謁見を与えたサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂と、これを記念する聖者の銅像は、今回の第10回『大いなる生命と心のたび』二日目に巡礼する。
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聖フランシスコに謁見を与える
法王イノセント3世
(ジオット画・ルーブル美術館)

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新法王 16

20世紀のヨハネ23世はカトリック教会に大きな足跡を残していったが、歴史上、ヨハネ23世という名の人物がもう一人いる。
1410年に即位した彼は、しかし、ベネディクト13世、グレゴリオ12世に並立する、いわゆる対立教皇であった。世俗の王権と結び、互いに互いを利用しなから権力闘争に明け暮れた時代、当然、自らを正統教皇と主張しはしたものの、結局は対立教皇の汚名を着、「ヨハネ23世」は歴史の舞台から消えていった。
1400年間で22人もの法王を数えたヨハネであったが、対立教皇ヨハネ23世の後、次にヨハネ名を名乗ろうとすれば、自分がヨハネ23世となってしまう。その忌まわしい名を用いる法王は、実に6世紀の間現れなかったが、それでもヨハネ23世の名を名乗った法王は、最後は聖人の位に挙げられた。
慈父のようであったといわれる新ヨハネ23世は、歴史の激動期を生き、5年足らずで亡くなった。彼はその法王名を選んだとき、こう言ったという。
「歴代法王の中で一番多い名だ。短い在位に終わった人がほとんどだが……」
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対立教皇ヨハネ23世の墓
(フィレンツェ)
には教皇の紋章が使われている

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新法王 15

1958年、ピオ12世がその余りに波乱に富んだ生涯を終えると、即座にコンクラーベが招集された。
このとき、「忙しいのだが、義務だから仕方がない」と言い残して出て行ったヴェネチア大司教ジュゼッペ・ロンカッリは、二度と枢機卿として戻ることはなかった。
マスメディアによって初めて大々的に報道されたコンクラーベが選んだのは、慈愛に満ちた、ペルガモの小作農のせがれだった。
彼が選んだ法王名は、ヨハネであった。76歳で即位したヨハネ23世の在位は5年足らずと短いが、業績は歴代で群を抜く。
彼は第二バチカン公会議を招集し、ローマ・カトリックが近代的組織宗教として脱皮する下地を作った。また、1962年に勃発したキューバ危機では、水面下で戦争回避に務め、結果、世界は破局を免れることとなったともいえる。
現在のベネディクト16世は第265代のローマ法王とされているが、歴代、最も多くの法王名となったのが、このヨハネであった。
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囚人からも慕われた
慈父ヨハネ23世

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新法王 14

第二次大戦開戦期、ピオ11世に続いてローマ法王に選出されたのは、教会法学者でバチカン国務長官、11カ国語を自由に操るというピオ12世だった。
ピオ12世は、テレビやラジオを通じて世界に顔を知られた、最初の法王だったといえる。マスコミを駆使して人類の起源や進化論、避妊や人工授精について、共産主義についてなどの教えを述べ伝えた。
また、彼は聖母信心の篤い法王としても知られる。1950年の聖年には「聖母被昇天」(聖母マリアは肉体をもって天に挙げられた)の教義を宣言し、その年の暮れをファティマで祝った。
深い学識を有し、禁欲的な雰囲気をかもしだすこの法王は、疑いもなく歴史に残る法王であったが、しかし、その在位が第二次大戦と重なったことが、彼の評価に暗い影を落とすこととなった。
ピオ12世は、戦争に対する不偏・中立を保つあまり、ユダヤ人虐殺の事実を知りながら、これを明確に非難しなかった。実際、助けを求めてくるユダヤ人を助けなかったり、「ユダヤ人が虐殺されるのは当然の報いだ」と発言する高位聖職者もいて、それらの責任が法王の身に降りかかった。
彼を取り次ぎとする奇跡も起こり、気高く、聖人の位に挙げられる準備はすべて整っているにも関わらず、いまだにそれは実現していない。
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苦難の時代を生きたピオ12世

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新法王 13

ローマ法王ピオ10世は、1903年から1914年まで在位し、徳高い法王として知られていた。実際、彼は後に聖人の位に挙げられている。
1914年に第一次大戦が勃発したとき、ピオ10世は大きな衝撃を受けたといわれ、開戦の数日後に世を去っている。続いて選出された枢機卿はベネディクト15世を名乗り、その在任中、聖母がファティマにご出現になった。したがって、1917年当時、ピオ11世という人物は歴史上のどこにも存在しなかった。
実際、この預言をファティマで聞いた3人の牧童は、ピオ11世が法王の名か皇帝の名かすら、見当がつかなかったといわれる。だが、1922年、ベネディクト15世が亡くなると、その後に選出されたアンブロージオ・ラッティは、ピオ11世を名乗ったのだった。
町工場の息子からミラノ大司教、そしてローマ法王へと上り詰めたラッティは、おそらく聖母預言を知らなかったに違いない。
聖母は、「ピオ11世」の世の終わりに、もっと大きな戦争が起きると言っておられたのだ。そうして実際、その在位の終わり、1939年に第二次大戦が勃発した。
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聖ピオ10世
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聖母予言にも関わらず 
「ピオ11世」が名乗られた 

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新法王 12

547年に聖ベネディクトが亡くなった後、575年に選出された新法王は、聖者の徳を慕って早くもベネディクト1世を名乗っている。その後、歴史上、幾多のベネディクト法王が誕生したが、近年、記憶に残るのはベネディクト15世である。
ジェノヴァの出身の貴族であった彼は、幼少時より病弱で、体型も普通ではなかった。いつも片足をひきずって歩きながら、しかし人びとの福祉に大きな関心を寄せた。ボローニャ大司教、バチカン国務長官を経て1914年、法王に選出された。
ときあたかも、第一次世界大戦が勃発した直後であった。法王庁は、59歳の若さにして慈愛に満ちた新法王に、和平への願いを込めたに違いない。
実際、ベネディクト15世は、大戦時、和平案を提案するなど積極的に平和外交を推進したが、複雑に絡む列強の思惑のなか、それらが評価されることはほとんどなかった。こうして大戦が泥沼化した1917年、ファティマに聖母マリアがご出現になった。
聖母は、「来年の暮れまでには戦争は終わります」と預言した。実際、大戦は翌18年11月に終結した。が、同時に、聖母はこうも言われた。
「もし人類が悔い改めなければ、ピオ11世の世の終わりに、もっと大きな戦争が始まります」
050501

ベネディクト15世

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新法王 11

多くの弟子を集め、敬愛される聖者に嫉妬する者がたくさんいるのは、世の常である。聖者は命すら狙われた。
あるとき、毒入りの飲み物を勧められた彼は、分かっていながらそれを飲み干した。……が、祈りの力により、毒はまったく無害となったと伝えられる。
彼が西暦530年頃に創立した修道院に、モンテ・カッシーノ修道院がある。世界史の教科書にも登場するこの修道院で、聖者は祈りの生活を送りつつ、自らの会則の決定版を書いた。
ただし、修道会に必要なのは、修道士を縛り上げる細かい規則ではなく、むしろ人格者の手本であると聖ベネディクトは考えていた。
まさに、彼自身がそのような手本となり、ここに西洋キリスト教文化の基盤の一つともいえる修道会制度が発足した。が、それでも、長い歴史のなかで、多くの修道会は戒律を形式的に遵守させるだけの共同体へと堕落していった。
547年、聖者は、弟子に体を支えられながら祭壇の前で祈りを捧げつつ、亡くなった。
かつて聖ピオ神父の聖地サン・ジョバンニ・ロトンドを訪問する途中、バスのなかから、はるか山上のモンテ・カッシーノ修道院を見上げたときの感動が思い出される。

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