第十回 〜ローマ・アッシジ・メジェゴリエ〜 六日目

ドブロヴニク空港は、こじんまりとした空港だった。しかし、夏の時期には、この街をヨーロッパ中から観光客が訪れるため、パリ、ロンドン、フランクフルト等からの臨時便が続々と到着する。
この日、私たちはザグレブから来た飛行機に乗り、4時20分、ザグレブに向う予定だった。出発1時間ほど前に搭乗手続きを終えたが、搭乗開始時刻になってもゲートが開く様子はなかった。東欧圏の、しかも政府が経営する航空会社なので、そんなものだろうと思い、空港ロビーで待つことにする。
そこここでおしゃべりなどしていると、ときは楽しく過ぎていったが、30分、1時間が経っても搭乗開始のアナウンスはなかった。ボードは依然、delayed。
そのうち、一人の方が聖歌を口ずさみ始め、皆の心がなごむ。すると、タヒチからやはりメジュゴリエを巡礼したグループの人たちも聖歌を歌い始め、われわれの何人かも加わって空港は一時教会のようになった。
そうして3時間ほどが経ち、クロアチア航空からサンドイッチが一個ずつ配られたとき、私は初めて、事態が深刻であることに気づいた。まだまだ飛行機は出ないことを、このサンドイッチが示していたからである。
下江添乗員は、空港の職員に盛んに接触を試みるが、「分かりません」の一点張りだった。
幸い、ザグレブの旅行代理店には日本人職員がいて、秋山さんというその方が情報収集に務めてくれている。
その結果、やっと分かったのは、当日、ザグレブの雷雨のため、いまだに向こうを飛行機が出ていない、ということだった。機材を雷が直撃した、という情報もあった。飛行機がザグレブを出ない限り、われわれが乗る便もない。
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空港で歌う怪しい面々
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搭乗を待つ家族

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第十回 〜ローマ・アッシジ・メジェゴリエ〜 五日目

朝目覚めたとき、メジュゴリエを今朝離れるということが信じられなかった。スベトザール神父の茶目っ気のある笑顔、地元ではすでに聖人のように思われているヨゾ神父のあつい祝福、ご出現の丘の夕陽……これらの印象があまりに強すぎ、離れ難い。かつてルルドで、最終日にはいつもそんな気持ちになったことを、私は思い出していた。
思いは皆、同じだったようだ。昨夜あんなに遅かったにもかかわらず、何人もの方は日の出頃からメジュゴリエを散策し、祈っておられた。教会の目の前のホテルが何とかとれたのは、こういうときに威力を発揮する。
そして何人かの方は、不思議な現象に遭遇した。教会奥の、比較的新しいキリスト像の脚の部分から、液体が湧き出ていたのである。
参加者の一人は、地元の方からスポイドを渡され、それを採取してきた。私が行ったときには、巡礼の方がこれをペットボトルにとろうとしておられたが、たしかに金属製のキリスト像から液体が湧き出ているのを私も目視した。
液体は、ちょうど涙のようにポロリ、またポロリと湧き出てくる。その原因や意味は不明であるものの、私はこの水をテッシュに含ませ、すでにバスで待つ皆さんの許へ走った。
“アドリア海の宝石”ドブロヴニクは、聞きしにまさる美しい街だった。
この街はまた、金製品でも知られる。われわれは、あるいは城壁に登って目の前に迫る景色に感嘆し、あるいは街に降りて緻密な金細工に吐息しながら、ひとときを過ごした。
バスが出発すると、ドブロヴニクの旧市街と、打ち寄せるアドリア海の波がふたたび眼下に現れ出た。そのあまりの壮観に、歓声が上がる。
それらが、しかしはるか後方に過ぎ去ったとき、誰もが、この巡礼の旅が終わったと思っていた。
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アドリア海の風景
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ヨーロッパ最古の薬局
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ドブロヴニクの下江さん
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太陽のもとでお食事
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箸が転んでもおかしいお年頃

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第十回 〜ローマ・アッシジ・メジェゴリエ〜 四日目

1981年6月24日、現在では「ご出現の丘」と呼ばれる丘に少年たちがさしかかったとき、事件は起きた。聖母マリアが丘の上に現れ、微笑み、手招きをしたのだった。
翌日、6人の子供たちが同じ場所で、同じ貴婦人を見た。その翌日、貴婦人は、「私は幸いなる聖母マリアです」と自ら名乗られた。ご出現は、今も続いている。
当時この国は社会主義国だったので、官憲はこれを人心惑わすものとして取り締まろうとした。そのとき、子どもたちを守るようにして投獄されたのが、主任司祭であったヨゾ神父である。神父は、今はメジュゴリエから車で40分ほど離れたところにある聖フランシスコ修道院におられる。
神父にお会いできるかどうかは、やはり直前まで分からなかった。情報はその都度変わり、お会いする時間帯も変わった。この日、午前11時、部屋に入って来られるヨゾ神父の姿を見たとき、初めて私は胸をなで下ろしたのだった。
6年前と比べて、神父はさらに聖徳の円熟味を増されたようだった。その口から、一言、二言と言葉が洩れる。通訳がこれを英語に訳し、私が日本語に訳している間に、神父が言葉を継がれる。
しばしば、聖なる方は多くを話さない。その人がたとえ完全に黙っていても、一緒にいるだけで、われわれは影響を受ける。
神父は、かつてここに流された殉教者の血が、今、聖母マリアのご出現と人びとの回心という形になって実を結んだと話された。
この場所で、人知れず、信仰のために死んでいった修道士たちがいたのである。一人として、歴史に名を留めてはいない。しかし今や、彼らは神の国の食卓を囲み、また、こうして巡礼に来たわれわれを導き、祈ってくださっているに違いない。
話の終わりに、神父は一人ひとりを祝福してくださった。ロザリオを手渡し、一人ひとりの頭に手をおいて、われわれと、日本で帰りを待つ人びとの幸せを祈ってくださった。何人かの方は、お話を聞きながら、すでに涙を流しておられた。
神父は現在、メジュゴリエから引き離され、地元の孤児院を運営しておられる。私はつい、街で買い物するのであればここの売店で買うよう、皆さんにお願いした。収益が、すべて孤児院のために使われるからだ。
売店のシスターは、日本からこれだけの巡礼団が来たのは初めてと、喜んでくださった。彼女らには、涙を流す「秋田の聖母マリア」のお写真を差し上げた。
メジュゴリエの初夏は、すでに盛夏のようだった。陽が少しでも和らぐのを待って、ご出現の丘に登る。かなり急峻な岩場だが、何千万という人びとの巡礼により、岩は磨耗し、丸く光っている。贖罪のため、これを裸足で登る者もいる。
途中、皆でロザリオを一環となえ、ご出現の場所でしばしの時間を過ごした。その間、あっという間に緑の平野の向こうに陽が沈み、自然の荘厳なドラマを見せられる。気がついたときには、3時間が経過していた。
肉体の目には、聖母は見えない。だが、一人ひとりが深く満足して山を下りた。
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朝日を浴びる教会
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祈り
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メジュゴリエの太陽
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収益は全て孤児院のために
使われます
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ヨゾ神父と
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ヨゾ神父と 2
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ご出現の丘
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ご出現の丘 2
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夕焼けの聖地

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第十回 〜ローマ・アッシジ・メジェゴリエ〜 三日目

昨夜、船に乗り遅れていたらどうなっていたか……。
アンコーナの港でまず宿を探す。あまりいいところはなかっただろう。翌日の船で、おそらく全員分の部屋はとれなかった。すると、メジュゴリエに向う方法はなかった。
おそらくこれが、過去10回の『大いなる生命と心のたび』最大の危機だったが、そんなこととは関係なく、われわれは船内で食事とおしゃべりを楽しみ、大いに盛り上がった。
朝、世界遺産でもある美しい港街、スプリットに着いていた。ヨハネ・パウロ二世が三度訪れたという壮麗な聖ドムニウス教会と、ディオクレティアヌス帝の宮殿跡を見学し、上等の海鮮料理を楽しんだ後、いよいよバスはメジュゴリエへ。
しかしこのとき、レストランの周辺で、数人の男が私たちの行動を逐一カメラに納めていることに、誰も気づいていなかった……。
何も知らない私たちは、午後5時、聖地メジュゴリエに着いた。ここで長年、指導的司祭を務めておられるスベトザール神父との会見が、5時にセットされている。
ところが、待ち構えていた現地のガイドは、「会見は4時からだった」と、信じられないことを言う。われわれは、出発の直前にも、これが5時であることを確かめてきたのだ。
愕然としていると、ガイドが神父に交渉してくれて、これから特別にお会いできることになった。
6年ぶりに会うスベトザール神父は、以前と少しも変わっていなかった。茶目っ気ある表情と、慈愛に満ちた眼差し。自然と人垣ができて、写真撮影会となる。
「私たちは、日本人の勤勉さや仕事に対する緻密さ、仕事の美しさを心から尊敬しています」
そのような話から、神父は始められれた。
「その日本からこれだけの巡礼団を迎えるということは、本当に私たちも嬉しい。日常の利便性や快適性をすべて犠牲にし、周囲の人びとにも協力を仰ぎ、経済的、時間的にも多大な犠牲を払い……そうして皆さんが得ることは、神にハートを明け渡すということ。神の前に、より美しくあるということ。そういう人びととの交わりを深めるということ……」
メジュゴリエにおいて最も霊性の高い神父の一人といわれるスベトザール師と親しく時を過ごした後、ホテルに入り、それから各自、ミサにあずかる。
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船上から見た
スプリットの朝日
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アドリア海の犬
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この先がレストラン
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6年ぶりの再会
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スベトザール神父とその一味
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聖ジェームス教会のミサ
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メジュゴリエの聖母

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第十回 〜ローマ・アッシジ・メジェゴリエ〜 二日目

聖フランシスコが母親の胎にいたとき、一人の僧侶がフラリと現れ、預言を残した。「この子は、今に世界に影響を与える者となりましょう……」そこで母親は、イエスに倣い、彼をみすぼらしい馬小屋で産んだと伝えられる。
今は小聖堂となっている、聖フランシスコの生地、聖女クララの遺体のあるサンタ・キアラ教会、フランシスコが最初に再建したサン・ダミアーノ教会を経て、聖フランシスコ教会を巡礼した。
これまで私は、ここに来る度、奄美ご出身の滝神父様にお会いしていた。滝神父は、その後日本に帰られ、今は同じ奄美出身の平(たいら)神父がおられる。
神父は私たちをミーティング室に入れて下さり、聖フランシスコ聖堂の由来、第一級の芸術品、聖者の遺品などについて、系統的に説明してくださった。その後、それらのいっぱいつまった聖フランシスコ教会へ。
午後は、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会を巡礼。壮麗な創りの「天使の聖母」教会の中に、聖女クララが剃髪し、聖フランシスコが亡くなった小さな修道院が納められている。
ここは、たった一カ所の巡礼で、それまでの罪の罰がすべて免除されるという「全免償」がローマ法王庁から認められた、唯一の教会であるとされる。それもこれも、すべてはキリストに倣って生涯を閉じた聖フランシスコの功徳による。
サン・ダミアーノの朽ちた教会で、キリストから『傾いた我が家の再建せよ』と命じられてちょうど今年で800年、聖フランシスコは東洋の国からこのような巡礼団が来たことを天国で見ていて、祝福してくださったに違いない。
アッシジを後にしたバスは一路、ロレートへ。そこに、聖家族が実際に生活したという家がある。1291年、イスラム教徒の侵攻を避け、天使たちがここに運んだというものだ。
午後9時出航の船にどうしても乗らなければならないのに、ロレートに着いたのが7時ちょうど。だがここは絶対に見逃せない。これを逸すれば、二度とふたたび来られないだろう。30分だけ、ということで教会に向うが、建造に3世紀を要したというこの壮麗な教会、どこから入ればよいのかも分からない。まごまごしている間に、5分、10分が経過する。
そのとき、一人の怪しげな男が登場した。Mさんをつかまえて、盛んに話しかけている。私は思わず、男に聞いた。「英語、話せますか?」なんと、英語を話した彼は、われわれを聖家族の家まで一直線に導いてくれた。さらには、かつてここに天正の少年使節団が来たこと、この地から日本に渡って殉教した人びとがいたことなどを説明し、その上最後に日本語の小冊子までくれた。
この男、一体何ものだったのか、誰にも分からない。しかしとにかく、謎の男の登場で、われわれは閉まる寸前の『聖家族の家』に入れたのだ。
予定通り7時半にロレートを出、美しいアドリア海が視界に飛び込んできたときには感動した。楽勝だ……。
そう思ったのも束の間、今度は渋滞につかまった。事故があったらしく、港を目前にしながら大きく迂回しなければならないという。アンコーナ港に着いたのが、8時40分。出国・乗船手続きが終わったのが9時2分前。午後9時、乗船とともに出航。さすがの下江添乗員も、私も、本気で肝を冷やした。
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聖女クララの眠る柩
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聖フランシスコの生地
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クララ会のシスターと
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熱弁を振るう平神父
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聖フランシスコの像
(鳩は本物です)
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聖者の休んだ石のベッド
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ナゾの男
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夕暮れのアンコーナ港

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第十回 〜ローマ・アッシジ・メジェゴリエ〜 一日目

午前4時。ローマのホテルで爽やかに目が覚めた。4時とはいえ、日本はもう昼だ。
それにしても、昨日の飛行機は退屈しなかった。お隣になったMさんは都内で手広く事業をしておられるが、われわれには想像もつかない広い知識を持っておられる。人間性の本質に迫るさまざまな話をうかがううち、ローマの夕陽が目の前に見えてきた。
今回のツアー最初の訪問地は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂。通常の見学に加え、どうしてもということで、先般亡くなられたローマ法王ヨハネ・パウロ二世の墓を目指す。すでにこのツアーで、ヨハネ・パウロ二世の謁見に一度、二度と与っているからだ。
お墓に詣でるためには、一旦聖堂を出、それから列に並ばなければならない。それにしてもこの列、ガイドさんによれば、当初は4時間待ちだったという。
皆さん、ここで早くも感慨にふける。とりわけ、以前謁見に与った皆さんは。
続いて、アッシジの聖フランシスコが訪れたかつての法王庁サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノを巡礼。バスの中から、聖フランシスコの銅像が見えると、思わず「キャ〜〜」と歓声が湧く。今までになく、今回の巡礼団は若いのか……。
キリストを磔にした釘と木、聖トマスの指の骨が残る聖十字架教会は、前回、改装中だったため、再訪。敬虔なカトリック信者のガイドさんが、的確な説明をしてくれた。これまで分からなかった疑問点も氷解。それにしても、当時の釘や木、骨が未だに残っているとは……。
そして、この日のメインの一つは、『絶えざる御助けの聖マリア』。前回、私たちは21世紀の元旦にここを訪れた。あのとき、願いをかなえてもらった人が何人かいて、お礼参りということになる。かく言う私もその一人。
今回、私は約30人の方から手紙を預かった。86通の手紙を預かって来られた方もいる。
それなのに、係の男性は、一般席脇の小さな手紙箱に一通ずつ入れるようにという。大きな手紙の束を見せ、『絶えざる御助けの聖マリア』様裏すぐ下の箱に直接入れさせてくれと再度交渉したところ、「では俺が入れてやろう」と係の男。
「いえいえ、私が行きます」と、私がすべてのお手紙を直接、箱に入れてきた。大きな務めを一つ果たし終えたような気になる。
ローマを後にして3時間。夕陽に染まるウンブリア平原の向こうに、美しい古都アッシジが姿を現す。
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ローマの夕陽
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故ヨハネパウロ二世の眠る墓
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絶えざる御助けの聖母
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聖母への嘆願書入れ
(上がイコン裏側)
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祈り
(サン ジョバンニ イン ラテラーノ)

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津波 5

カネやモノを与えるより、仕事ができるようにする、というのがあくまで援助の基本だとは思うが、ここではそれも容易でない。
スマトラ沖地震が発生したのは、ちょうど今日から半年前の12月26日だったが、漁師の舟はいまだ海岸に、または陸地に打ち捨てられ、あるものは脇に大穴が開き、あるものはどのようにしてそうなったのか真っ二つに折れている。
そうした状況を打開するには、やはりある程度のお金が必要だ。そのために今回、現地の災害対策組織、および被災者たちと信頼関係を築き、同時に、援助金が適切に使われたかどうかをみてくれる知人を一人立てた。
ちなみに、今回のそれには、この企てを察知された何人かの方から寄贈された分が含まれている。そうした方々にもまた、日本と、インドの神々の特別な恩寵がもたらされることを確信している。
インドから帰ると、体全体が硬直したようで、節々に痛みがあった。体も、心も、自分のものではないかのようだ。その状態から抜け出すにはいつも一週間くらいかかるが、今回のは超弩級で、いまだに回復した感じがしない。
そうこうしているうちに、ヨーロッパ巡礼ツアーの出発の日になってしまった。ローマの『絶えざる御助けの聖マリア』や、アッシジの聖フランシスコと聖女クララ、メジュゴリエのご出現の聖母子……この方がたが私たちを迎え、私の至らなさを許し、すべてを癒してくださると信じて、これから日本を発つ。
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神々の祝福がありますように・・・・・・
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マリア様が待っていてくださる・・・・・・

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津波 4

神戸の震災のとき、焚き出しに出かけたときのことを思い出した。あのとき、日本人が学んだのは、いざというときには何とか助け合えるということだった。
しかし今考えてみれば、そんなことを言っていられたのも、実は基本的に、ほとんどすべての国民が衣食足りている、という状態があったればこそである。
住民の多くが衣食に不自由しているところでは、教科書のようにはいかない。復興のスピードも、日本のようなわけにいかない。そういうごく当たり前の、しかし日本でテレビを見ていただけでは分からない現実を、現地ではいやでも見ることになる。
そのようななかで、何をするのが最も有効なのか。お金やモノを渡すよりは、彼らが仕事ができるように援助するのが本筋であるとは、いつも思う。応援しているカンボジアの自立村は、その典型だ。
ちなみに、2004年12月24日付け『聖夜2』に書いたカンボジアの井戸(プレマの泉)は、その後も掘り続けている。最近、No. 9までできたが、水質検査を行なったところ、No. 8にやや問題があったため、現在これを掘り直している。
こうしたところでは、掘られた井戸の水質に問題があるにも関わらず、その水が飲まれ続けるということがしばしばあり、問題は深刻だ。
たとえばバングラデシュでは、NGOによって掘られた井戸水に広範に砒素が混入していて、住民は長い間気づかなかった。気づいた後も、井戸水を飲んで砒素中毒になるか、泥水を飲んで赤痢になるか、という選択を迫られた。
そのような事態を、われわれは避けたい。
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復旧を待つ港
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プレマの泉 No.4
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プレマの泉 No5
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プレマの泉 No.6
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プレマの泉 No7
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プレマの泉 No.9

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津波 3

そもそも、仮設住宅で話を聞き始めた時点で、一人の男がどこからともなくやって来て、「帰れ!」と怒鳴り始めたのだった。「お前ら外国人は、興味本位にやって来ては、俺たちを傷つけていく」と言うのである。
そういう男に対して、仮設住宅の住民は、逆に一致して「帰れ! 帰れ!」の大合唱である。要するに、これから何かしてもらえそうな仮設の住民に対して、幸いにも家が流されなかった村人が焼き餅を焼いているのだ。
そうかと思うと、われわれの姿を目敏く見つけて近づいてきた別の男がいた。妻を津波で亡くしたことが新聞に出ているのだという。その新聞のコピーを渡し、彼はさかんに窮状を訴える。通訳に聞くと、見舞金が欲しいのだという。
それは、たしかに惨状だった。かつては互いに協調して生きてきたであろう村人たちは、今やより大きく災害でやられた者とそうでない者とに別れた。
そうした中では、依然、助け合いながら生きていこうという心と、同時に、他人に出し抜かれたくないという嫉妬心とがせめぎ合う。
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仮設住宅の少女

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津波 2

海岸線の近くには、雑木林が今もある。その辺りの砂浜を掘って、何百という遺体が埋められた。
「この林の辺りで見つかった遺体は、みな女だった」
男性は水に流されたが、女性は長い髪の毛が木の枝に引っかかり、そのまま溺死したという。女たちが死んだ雑木林から見る海岸は、今はもう、静かだった。
村の“メインストリート”に立ってみると、見渡す限りの荒野が続いていた。ここに、つい半年前までは民家と商店がぎっしり立っていたのだと女は言って、泣いた。女の娘は夫を亡くし、一家の働き手を亡くした。女たちは、たまたまコンクリート造りの家の二階に昇って難を逃れたが、水は二階の床下まで来たという。
政府は、家を流された住民のために仮設住宅を造っている。が、一つの仮設で話を聞き、何かをすると、今度は別の仮設に住んでいる人がそれを聞きつけてやって来る。自分たちも何とかしてくれ、不公平じゃないかと……。
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被害を語る人びと
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村のメインストリート

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