私の系譜 15

父の闘病から死、そして葬儀に至る一連の出来事を思うとき、
その様子は、よくも悪しくもあまりに“人間的な”出来事にあふれていて、
まとまった時間があれば一冊の小説にしたいくらいである。
それらをいま、短いブログに書くことは到底できないが、
通夜の晩のことを少しだけ書いてみたい。
夕方6時に始まった通夜は、7時には終わった。
東京で通夜に出席すれば、その後、弔問客全員に食事が振る舞われるが、
私の田舎ではそのようなことはなく、
食事は親族だけで行なった。
その席に、遅れて来られた知人が二人おられた。
一人は、広島県福山市を広島市と思ったために、
広島まで行ってしまったと言われ、大変申し訳ない気持ちになった。
もうひと方は、福岡から新幹線でおいでになって、
柩の前で拝まれると、そのまま出ていかれようとした。
「少しだけ、お食事でも……」
と申し上げたがお時間がなく、
そのまま新幹線でとんぼ返りしていかれた。
親族にご用意した料理は大量に余ってしまい、
斎場の方に相談したが、どうすることもできない。
「足りなくなるよりは、いいですから」
おそらく毎回のように言ってきたであろう台詞を、
私も聞いて納得する他なかった。
ただ、これだけの料理を無駄にするのは、
質素に生きてきた父に申し訳ないと感じたので……

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私の系譜 14

もしあのとき○○していたら、と人は人生をふり返る。
もしあのとき神戸を受験していたら、果して合格していたのだろうか。
若気の至りか、正直、落ちたような気がしない。
その場合、私は意気揚々と、神戸で新たな中学生活を始めていた。
それは、広島のカトリック系ミッションスクールでの生活とは、
まったく違ったものになっていたはずだ。
住環境も、生活も、授業内容も、出会ったであろう友人や先生や、
影響を受けた思想や哲学も、すべてである。
あるいは、我が家の裏手には地元の公立中学があったので、
そこに通うことももちろんできた。
そのとき、私はどんな人生を送ることになったのか。
小学校からの友人の多くと中学に通い、
もしかしたら野球部に入り、これに情熱を注いだかもしれない。
いずれにしても、まったく異なった人生になったことは間違いなく、
あのような形でキリスト教に触れることも、
インドに行くことも、したがってその後の著作や活動もなかっただろうし、
仮にあったとしても今のようではなかった。
私が瞑想をお教えした人たち、聖者の予言をお読みした人たち、
そして、私の本や、このブログをお読みいただいている人たちを含め、
およそ私と係わりをもったすべての人たちとも、出会うことはなかっただろう。
または出会ったとしても、まったく違う形だったに違いない。
逆にもし、私と皆さんとの出会いがそれぞれに必然であったのならば……

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私の系譜 13

そのようにして私が進学しようと思っていたのは、ある神戸の中学校だった。
が、一年が経っていよいよ受験となったとき、大きな問題が降って湧いた。
神戸の受験日と、地元の付属中学の抽選日が重なったのである。
抽選など、代理を立てればよいだけのことだった。
実際、代理を立てた者がいた。
代理を立てられようが、立てられまいが、
いずれにしても私は神戸に受験に行くつもりだった。
が、しかしここへきて、父が一言だけ言った。
「そんなことをすれば、地元軽視といわれて大変なことになる」
結局、父のその言葉で、
私は一年間準備してきた神戸の学校の受験を諦めたのだった。
普段、あまり多くを語らない父の口調は、断定的で厳しいものであったが、
しかし今にして思えば、中身には疑問符がつく。
つまりそれは“ウソ”だったのだ。
したがって私は、その後長い間、父にはまんまとしてやられたと思い続けたのであるが、
病弱で、体が強いとはいえない次男を遠くの学校にやることを、
父はそれほど懸念したのに違いない。
神戸は、今でこそ新幹線で1時間弱で行けるが、
当時は急行で4時間、5時間かかるところだった。
もともと、地元の付属中学に合格できれば、それが一番よかったのかもしれない。
父もそれを心から願っていただろう。
しかしそこは、学科の倍率が2倍なのに……

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私の系譜 12

小学校5年まで、ほとんど何も考えることなく友だちと遊び惚けていた私が、
6年生になって自分に課したこと、
それは、毎日12時より前には寝ないということだった。
それまで、夜8時には眠りに就くように躾けられていた私の、
これが最初の、親に対する反抗であったかもしれない。
しんしんと夜が更けていくなか、一人で勉強していると、
経験したことのない世界が目の前に拡がった。
それは、まだ若くて健全だった子供の感性が触れることのできた、
この世界の神秘といっても過言ではなかった。
ときに私は、夜中の12時を過ぎ、
1時、2時、3時の深夜を探検した。
すると、これに気づいた父が起きてきて、私を叱る。
理路整然とことの愚かさを説いてもらえれば、私にも理解できたかもしれない。
しかし、生来口数の多くない父は、ただ怒っているように見えたので、
私はさらに反発して、とうとう夜通し起きて勉強するような愚挙に出た。
父にしてみれば、息子が自分の言うとおりにしないことに、
大いにいらだちを感じていたに違いない。
あるいは、自分のなかの、内心ではよいとは思っていない面が、
息子にそのまま現れてきているのをみて、慄然としたのかもしれない。
実際それは、彼自身のDNAが……

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私の系譜 11

父はもともと、生来の世話好きであったのだと思うが、
自分で何かを楽しむという概念に乏しく、
これもよくあるように、いくつもの仕事や世話役を掛け持ちしていたので、
私の知る限り「休日」という概念もなかった。
子供の頃、正月元旦を一日、家族で過ごしたことがあった。
お雑煮をいただき、テレビを観、カード・ゲームをし、相撲をとったりして、
それが本当に楽しかったものだから、
翌日も同じことが続いてくれればと私は期待した。
が、それが浅はかな願いだと知るのに、長い時間はかからなかった。
私は、「お願いだから、もう一日……」と、口に出して言った。
が、父はほとんど無言で、それを却下した。
何やら苦しそうな“言い訳”を、少しだけしたかもしれない。
しかしそれはもちろん、私には理解できない内容のものだった。
以後、今日に至るまで……

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私の系譜 10

父は税務署を退職後、税理士として独立したが、
その際、副業として不動産業も始めている。
法律によると、不動産仲介を行なったとき、
その売買手数料は約定価額×3%+6万円、
賃貸の場合は、一カ月分の家賃とされている。
ところが私は、子供ながらに、
父がこうして法に定められた手数料を全額は受け取っていないことに気づいていた。
半分か、場合によっては1/3程度しか受け取っていない。
どうしてそうするのかと聞いたことがあったが、
父は答えなかった。
私も、父がそうするのなら、それが一番よい方法なのだと素直に思っていた。
不動産の仲介手数料は満額とられるものだということを思い知ったのは、
高校を卒業し、東京に出てきて、自分がこれを支払う側になってからだ。
大学のキャンパスには、高校のとき使った教科書の著者や、
さまざまな学術書の著者の先生がゴロゴロいて、
別の世界に来たような感覚を私に与えたが……

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私の系譜 9

もし、実家に経済的余裕があれば、父はおそらく今でいう大学に進み、
早期の徴兵も免れるか、
またはあれほど過酷な前線に行かずに済んだのかもしれない。
会員の皆さんと話していて、なにかの拍子に、
ご両親が大学を出ておられるという話となったとき、
私は素直に、羨ましいと思ったものである。
しかし、そのような状況にまったくなかった父は、
同年代の多くの若者がそうであったように、
戦争に青春のすべてを費やしたと言っても過言ではない。
父は終戦後、偶然、税務署職員の公募をみつけ、受験したが、
たまたまこれに合格し、その後、長く税務署に務めることとなった。
毎朝決まった時間に淡々と出かけていく父がどんな仕事をしているのか、
子供の私には知る由もなかった。
しかしある日、非常に難しい案件があったらしく、
この日、それに失敗したら、クビになるかもしれないと私は母から聞かされた。
小学校に上がる前、まだ幼かった私は、
「クビになる」とは命をとられることだと勝手に思い……

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私の系譜 8

葬儀の三日間を終え、ふたたび始発で東京に帰ってくると、
自分では気づかなくても疲労困憊していたらしく、
すっかり風邪をひいてしまった。
それでも、時間は待ってくれないので即、仕事を始めたが、
一つだけ以前と変わったことがある。
それは、浅草や鎌倉に行くように指示する聖者もシヴァ神も、
『ただし、瞑想の師は寺院に入ってはならない』
とお書きになっていることだ。
『寺院には入らず、その近くで瞑想しなさい』
というのである。
わが国では、喪中の者は神社に入ることができないと一般にされるが、
聖者は、仏教の寺も、キリスト教の教会も同じとされているようだ。
そして当然のことではあるが、
私が喪中であることも、聖者は熟知しておられた。
なぜなら、帰京して最初に出てきた葉のなかに、
早速そのような指示が出てきたからである。
そういうわけで、私は現在、
神社、教会を含め寺に入ることができない状態なのだが、
会員の皆さんの温かいお気持ちには、感謝の言葉もない。
特に、一連の葬儀にあたっては、
東京、京都、大阪、四国、九州などからたくさんの方たちにおいでいただき、
私を驚かせた。
ところで、通夜、告別式においては、
遺族の挨拶を私が行なわせていただいた。
しかし私の地元では、それはきわめて短い、形式的なものとするのが通例らしく、
私が父の人となりについて触れたのは珍しかったらしい。
わざわざ福山までおいでになった皆さんは、異口同音に……

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私の系譜 7

このブログに書いた父・金彌は、今朝方闘病を終え、
息を引き取った。
95年の年月は、波瀾万丈であっただろうが、
その多くを私が知ることなく終わってしまったことも、
充分な親孝行ができなかったことも、正直、悔やまれる。
しかしそれでも、多くの皆さまから愛され、お世話にもなり、
今は重苦しい肉体から解放されて、喜んでいるのではあるまいか。
そして、生きている間にはほとんど経験しなかった“お休み”というものを、
今は楽しんでいるかもしれない。
また、何より、父のために祈ってくださった多くの皆さまには……

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私の系譜 6

負傷して内地に戻った父は、海軍兵学校の教官になったが、
それを知ったのは、ある年の終戦記念日、
日の丸に書かれた寄せ書きを偶然、見つけたときだ。
それは当時の学生、つまり、父よりもっと若かった海軍の兵卒たちが、
特攻に出て行く直前、教官であった父に残していったものだった。
思い思いに書かれたさまざまな言葉のなかに、ただ一言、
「 捨て石 」 ○○○○(署名)
というものがあった。
『友のために命を捨てるほど、大きな愛はない』と、イエスは言った。
祖国のために命を捨てることは、それにも増して尊い。しかし、
人はさまざまな人生を繰り返しながら進化していくということを知らない若者たちが、
“一度限り”と信じる命を国のために捧げるとはどういうことなのか、
私には想像がつかない。
そのような無数の“捨て石”の上に、
戦後日本の享楽的ともいえる繁栄が築かれたが、
予言の葉には、現在のわが国の精神性の低下が大きな自然災害を引き起こしたし、
それはまだ終わっていないとも書かれている。
そのようなことを、あの戦争を戦った世代の人たちや、
負傷して死にかけた父がどう感じているのか、話してみたいが……

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