GW 1

世の中、ゴールデン・ウイーク。幸いにしてお天気も上々の日が続いたが、私自身は<プレマ倶楽部>会員だけを対象にしたシリーズものの仕事にかかっていて、連日、朝9時から夜10時まで会員の方お一人おひとりと一緒に過ごしている。
その他にも付随的な仕事が派生するので、個人の時間がまったくない。しかしもともと、どんなときが一番幸せですかと聞かれて、「いい仕事ができているとき」などと答えるような奴だ。
毎日のように神秘的、かつ感動的な事象に遭遇することとなった現在の日々が幸せでないはずがない。
そんな折り、去年のこの時期、瞑想をお教えした方からメールが来た。
世間は連休を謳歌したことでしょうが、先生は相変わらずお忙しかったのでしょうね。
青山(以下、A.) はい。でも幸せです。
私が瞑想を教えていただいたのもGWでしたから、あれからちょうど1年(!)ということになります。おかげさまで瞑想はすっかり生活の一部になってしまっていますから、授けていただいたのはずいぶん昔だったような気がします。
A.瞑想が生活の一部になった人の、なんと幸いなことでしょう。この文明国で仕事を続けながら、稀なことです。

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第十二回 〜秋田の聖母マリア〜 三日目

奥入瀬渓流から青森市内へ向うバス道は、通称ゴールドラインと呼ばれる。
バスの背よりもはるかに高く両脇に迫る雪壁のなかの旅を楽しめる……はずだったのに、前日の情報では、大雪のため通行止めだという。
ところが、この日になって、通行止めは解除となり、バスは雪の壁のなかへ吸い込まれていった。
朝、添乗員のシモエさんが言った。
「本日こそは晴れだそうです。気象台にも確かめましたっ!」
前日、「ハ〜〜レルヤッ! ハ〜〜レルヤッ!!」の歌声をマイクで絶叫したのが効いたとばかりの言いように、バスのなかは笑いの坩堝と化す。
ところが、空はなかなか晴れてこない。それどころか雪や雹が降って、ますます美しい景色を楽しめることになった。
奥入瀬渓流をもう一度見、十和田湖に別れを告げて、途中休憩に寄った河原は、小川のほとりの一面の銀世界。そこでふたたび、雪合戦となった。
実は今回の旅行には二人のお子さまが参加されていて、私はことある度、雪合戦の挑戦状を叩きつけられていたのだ。この河原が最後の戦場とばかりに始まると、ついには他の皆さんも入り乱れ、一大合戦に。さんざんに打ち負かされた私は、ほうほうの体でバスに戻った。
旅の最後は、日本最大級の縄文集落跡である三内丸山遺跡。なんと、5500年前から人が住んでいた集落だという。現在、毎月解説している『バガヴァッド・ギーター』が語られたのが仮に5000年前だとしたら、それよりも古い。当時の自然環境や生活、村の様子もさることながら、その一点だけでも感慨深い。
遺跡を堪能し、バスが青森空港へ向うとき、この人たちと別れたくないという気持ちが激しく私を襲った。先般、野球の世界大会が終わった後、イチローは「このメンバーとこれで最後かと思うと、つらい」と言ったというが、その気持ちがよく分かる。
だが、われわれには一つの救いがある。4月16日には<プレマ・セミナー><瞑想くらぶ>に続いて【マリアの会】がある。そこでまた、多くの方と再会できる。今回おいでになれなかった方には、旅の報告も兼ねる。さらに11月には、空前のプログラムで臨む大巡礼の旅もある。
ところで、実は今回、秋田にお住まいの読者の方から一つのプレゼントをいただいた。
「モレ・サンドニ・キュヴェパブ・ジャン・ポール(ヨハネ・パウロ)Ⅱ世」
1920年、前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の生まれ年に植樹され、後に同法王の名を冠することとなったこのワインは、年間の生産量わずかに250ケース、日本にはごく一部しか輸入されない。
【マリアの会】では、通常お酒はお出ししないが、今回は【秋田の聖母】訪問記念として盛大にこれを開けたいと思う。
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奥入瀬の滝
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雪中瞑想!?
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雪中行軍 1
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雪中行軍 2
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ねぶたの里
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お子さまと雪合戦
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ローマ法王 
ヨハネ・パウロⅡ世のワイン
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羽田の夕陽

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第十二回 〜秋田の聖母マリア〜 二日目

まずはホテルの朝食に満足した後、十和田湖へ。きれいな湖とは聞いていたが、雪の降るなか凍てつく湖面が、あまりに美しい。
湖をゆったり見下ろしながらの昼食後、間近に白鳥を見る。
続いて向ったのは、青森県新郷村戸来。近年発見された竹内文書のなかでは、キリストが渡来し、この地で亡くなったとされている。
これについては情報がないので、ガイドさんによく調べてきてもらうように、何度も言っておいた。……が、ガイドさんも多くは分からなかったようで、突然、「すみませ〜〜ん!」と絶叫。あまりの微笑ましさに、バスのなかには笑いのさざ波。
伝説によれば、イエスは弟を十字架の身代わりに立て、自分はこの地に移り住んで106歳の天寿を全うしたとされる。その際には、3人の娘をもうけたともいわれ、その子孫がこの地にいたことになる。
まことに雲をつかむような話だが、何かを感じる方も数人おられ、真剣な面持ちで祈っておられた。その皆さんの様子を見ていると、これがキリストの墓ではないにしても、何かの意味のある場所ではありそうだ。嬉しいことに、何人かの方は感動してこの地を去られたのだった。
その後、専用バスは焼山温泉へ。旅館で食べきれないほどの青森料理をいただき、夜の露天風呂では、雪が天上から降ってくるなか、皆さんお湯につかる。そうしてそれぞれが、あるいは敬虔な祈りの夜に、あるいは修学旅行のようなはしゃいだ夜に突入していった。
私自身は、【マリアの会】の皆さんの楽健法(足で踏むマッサージの一種)大会に参加した後、大山峻護君から寝業を直々に教わった。K-1の王者ピーター・アーツを秒殺した時の技などは、ビデオで見ても分からないので、長い間このときを待っていた。
アーツを倒したヒール・ホールドやアキレス腱固め、腕ひしぎ逆十字や三角締めを教わった後、私は死んだように眠りについた。
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十和田湖の白鳥 1
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十和田湖の白鳥 2
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キリストの墓
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露天風呂
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旅館のお食事
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喰うぞ!
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雪の中で

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第十二回 〜秋田の聖母マリア〜 一日目

秋田の聖母マリア。日本での聖母出現のなかでは、唯一、教会当局により公認されているご出現である。『大いなる生命と心のたび』で国内旅行を行なうのなら、秋田が最初と私は決めていた。
初日のフライトは、朝の8時。7時15分という早い集合だったが、全員が無事間に合った。機体は一路、秋田へ。
まず、ホテルに向い、一緒に記録ビデオ『秋田の聖母のメッセージ』を見る。シスター笹川、伊藤司教、安田神父、聖母の涙を直接見た人びとの証言などにより、皆さんは素早く概要を把握、昼食後、聖体奉仕会へ向う。
秋田の地は、いまだ雪が残っていた。信者の皆さんの献金により建立された新聖堂は広く、一応暖房はあるものの、寒い。シスターたちは、このなかで普通に淡々と日常の祈りや労働を続けておられる。
この日は金曜日だったので、午後3時から「十字架の道行」の祈り。その後、何人かの方はマリア庭園の散策へ。あるいは聖マリアの家の売店へ。数少ない修道院の収入源ということもあり、涙を流される聖母のお写真など、買い物にも気合いが入る。
5時からロザリオの祈りに参加した。歌うような、流れるようなロザリオ。このロザリオを、私は皆さんに体験してほしかった。99年に巡礼したときに記憶したとおりの美しいロザリオに、皆さん、ほとんど“瞑想状態”に陥っておられる。
祈りの後、聖堂をお借りして、一つの発表をした。今回、参加しておられるKさんが、一週間後の復活祭に洗礼を受けられる。そのお祝いのために、【マリアの会】メンバーが歌を用意したのだ。
一曲目はカッチーニのアヴェ・マリア。高音部の高い、難曲だ。【マリアの会】の皆さんは、これを思いついてから、それぞれの時間を縫うようにして練習してこられた。
それはもともと、16日のパーティの時に披露する予定であったが、Kさんご本人が欠席のため、旅行中にやろうということに。そこで二つのホテルと交渉したが不可能と分かり、聖体奉仕会のほうに無理を言ってお願いしたのだった。
一連の過程を体験した私には、秋田のマリア様が『わたしの前で歌いなさい』といわれたようにしか思えない。こうして、アヴェ・マリアに続く『あしあと』の詩(『祈りの言葉』 64頁)の朗読のとき、マリア像ではなく自分の目から涙が出てきた。
 『わたしがもっとも辛く、淋しかったとき
   いちばんあなたを必要としていたとき
  あなたはどうして私を一人ぼっちにされたのですか……』
この次の曲は、私の独唱で始まる。無理だ。もうやめて、ごめんなさいと言って東京に帰るか……。そう思ったが、そこをなんとか踏ん張る。
 『おまえが試練に遭い、苦しんでいたとき
   一人分の足あとしかなかったというそんなとき
    わたしが、おまえを背負っていた……』
もう一曲は『ロミオとジュリエット』。有名な映画音楽に歌詞がついたものだが、その内容が、これからイエス様との新しい生活に入るKさんにぴったりなところから選んだ。
 『あなたとわたしの、新しい二人の時が来る
  ……あなたのためなら いのち燃え尽きるその日まで……』
歌詞のとおり、三日間の巡礼旅行は、一日目にして燃え尽きる思いとなる。
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涙を流される聖母
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現在の聖母像
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新聖堂
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マリア庭園
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聖体奉仕会職員の女の子と
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そり遊びの人々

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勝負 9

今回の大山選手の相手メルヴィン・マヌーフは、オランダの生んだ格闘家である。
ヨーロッパの大国に囲まれたオランダは、格闘技が盛んで、群雄割拠する格闘家の多くが熱望しているのが日本のK1やPRIDEのリングに立つことだという。われわれ自身は気づかないが、K1、PRIDEは、欧米においても格闘技の“本場”としての地位を確立しているといわれる。
ところで、今回のマヌーフ選手の通訳を務めたのは、驚くべきことに、なんとMさんがお世話しているオランダ人留学生B君であった。
B君は、私も個人的によく知っている。頭脳明晰、性格も温厚な、日本学を専攻する大学院生である。きっと彼が、初来日した母国人の緊張をうまく解きほぐしてやったに違いない。
悔しいが、もしかしたらその程度のことが、勝敗を分けたのかもしれない。
B君によれば、試合が終わり、花道から帰って来た選手が突然、本音を吐露することがよくあるという。マヌーフ選手も例外ではなく、次のように言った。
「オーヤマと自分と、本当はどちらが強いのか、最後まで戦いたかった」

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勝負 8

このエッセーの読者のなかには、この春、受験に失敗した受験生の方がいるかもしれない。あまり勉強しなくて失敗した人もいるかもしれないし、懸命に勉強したのに失敗した人もいるかもしれない。
だが、いずれにしても、努力したものが失われることはないし、いかなる損失も人生においてはあり得ない。たとえわずかでも自分のダルマを果たしていけば、われわれはその分、大いなる恐怖からの解放に近づく。
相対界においては、勝ったり負けたり、得したり損したり、喜んだり苦しんだりしながら、われわれは少しずつ真実を学ぶようになっている。
それはまた、われわれの瞑想の営みにおいても同じである。
瞑想しながら、深く入って充実感や幸福感を感じるときもあれば、あまり変化がなくてむしろ退屈なときもある。しかしいずれにしても、われわれが瞑想した分については、無駄になるということがない。
存在の深いレベルに入ったとしても、表層のレベルの不調和を解消したとしても、いずれの分も蓄積され、雪だるま式に利息がついて、忘れたようなときに突然花開く。

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勝負 7

今読んでいる箇所は『バガヴァッド・ギーター』のハートとも言われる第二章の部分であるが、そこには次のような詩節もある。
 ここにおいては、いかなる努力も無駄にはならず
 いかなる損失もあり得ない
 たとえわずかでもこのダルマをなせば
 大いなる恐怖から解放される(Ⅱ・40)
東洋の聖書『バガヴァッド・ギーター』が語るように、われわれの生きる道においてはいかなる努力も無駄になるということがない。
たとえば今回のWBCにおいては、地元審判の誤審に泣き、宿敵韓国にせり負けて、決勝トーナメント進出は絶望的になりながら奇跡的に復活し、最後は優勝した。
表層の現象に惑わされることなく、自らのなすべきことを続けていれば、その努力はいつか顕在化する。かりに今回だめだったように見えても、それはより深いレベルに潜行し、いつか必ず、何かの形で花開く。
(26日の<プレマ・セミナー>は、『バガヴァッド・ギーター』全体のなかでもっとも重要とされる、この前後からの解説となります)

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勝負 6

月に一度、<プレマ・セミナー>で東洋の聖書『バガヴァッド・ギーター』を解説しているが、ちょうど今読んでいるところに次のような箇所がある。
 喜びと苦しみ、利益と損失、勝利と敗北
 それらのなかにも心の平安を保ち、戦いに臨むのだ
 そうすれば、おまえが罪を犯すことはない(Ⅱ・38)
相対界に生きるわれわれには、避け難く、勝利と敗北の両方がやってくる。そのどちらが来ても、それらのなかに心の平安を保ち、戦いに臨めというのである。
K1のような戦いでなくとも、人生はやはり、いつも戦いなのである。そこにおいては、もちろん勝ったほうがよい。誰も負けたくはない。しかし現実には、勝負は時の運。両方がやってくる。
いまだかつて、負けなかった格闘家はいないし、損をしなかった企業家もいない。苦しまなかった人間もいない。聖者ですら苦しむのだ。われわれはその両方がある相対界に生きているからである。
だが、ものごとの本質は、表面に現れてくる喜びや苦しみ、利益や損失、勝利や敗北とは別のレベルにある。

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勝負 5

出血量が多く、ドクターはこれ以上の試合続行を認めなかった。が、負けた気にならない。
大山君自身は格闘家として、決着をつけたかったに違いない。実際、出血以外にダメージはなかったし、最後にグラウンドに持ち込んだとき、血まみれになりながら、そのまま逆に関節をへし折れたかもしれないのだ。
が、彼は二度も網膜剥離をやっている。悔しいが、将来のことを考えれば、ドクターが止めたことを責めることもできない。
それにしても、勝負の世界の厳しさというものを、あらためて教えてくれた試合だった。
かたや柔道を基本とする寝業で、かたや打撃で、究極まで技を磨き抜いた人間二人が戦ったとき、どちらが本当に強いのか。
いずれにしても、勝敗はほんのわずかな“何か”で決まる。そのさまを、古人は単純に「勝負は時の運」と表現した。力が離れた者についてすら、勝負には時の運が関係する。まして実力の伯仲した者同士の勝敗は、実際、「運」や「流れ」で決まる。

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勝負 4

と、そこでレフェリーは試合を中断した。どちらがダウンしたわけでもない。が、気がつけば大山君の眉間が切れ、鮮血がほとばしり出ている。
パンチというものは、正面からボカンともらったらアザはできるかもしれないが、顔が切れたりはしない。
紙一重でかわしながら、しかしぎりぎりでもらったパンチが薄い顔面の皮膚を切り裂く。1ミリ差でかわしたパンチは空を切るが、1ミリだけもらったパンチは皮膚を切り、多量の出血を招く。
弱い選手はボカンとパンチをもらって終わりだが、上手い選手ほど顔を切ることがある。そして、どんなに強い選手でも、出血には勝てない。ドクターストップがかかってしまうからだ。
コミッション・ドクターが大山君の眉間を診察し、タオルで血をぬぐう。体へのダメージはないので、試合再開。
しかし、勢いに乗るマヌーフはここぞとばかりに攻勢に出る。ふたたび、わずかに掠ったパンチで別の箇所が切れたが、それと引き換えに、大山はマヌーフをグラウンドに引き込んだ。
まさに肉を断って骨を切る、武士道魂。だが、そこにレフェリーが割って入り、試合を止めた。

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