どんな旅にも、終わりが来る。リスボンの夕陽を見ながら、パリの夜景を見ながら、私はそう思った。
たくさんの、感動と驚きの濃縮された旅。この旅を終わりたくないと何人かの方から言われたが、私も同じだった。というより、私ほどそう感じている者は他にいなかったはずだ。
だが、この巡礼で得たことや学んだことを生かす旅が、誰もの前に開けている。洋々と開けている。それこそが、真の聖地であるわれわれの内面への旅であるに違いない。
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帰ってみたら、孵ってました
どんな旅にも、終わりが来る。リスボンの夕陽を見ながら、パリの夜景を見ながら、私はそう思った。
たくさんの、感動と驚きの濃縮された旅。この旅を終わりたくないと何人かの方から言われたが、私も同じだった。というより、私ほどそう感じている者は他にいなかったはずだ。
だが、この巡礼で得たことや学んだことを生かす旅が、誰もの前に開けている。洋々と開けている。それこそが、真の聖地であるわれわれの内面への旅であるに違いない。
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帰ってみたら、孵ってました
8世紀、海に面した美しいこの地に西ゴート王ロドリゴがやってきた。そのとき、イエスが暮らした地ナザレからきた聖母像を携えていたことから、この地もナザレと呼ばれるようになった。像は4世紀の作で、ポルトガル最古の聖母像だ。
12世紀、一人の城主が悪魔に惑わされて崖から転落しそうになったとき、聖母が現れ命を救うという奇跡があった。その後、これを記念する礼拝堂にはナザレの聖母像が安置され、王たちがしばしば祈願に訪れた。バスコ・ダ・ガマもインド航路を発見する前、ここに来て祈ったという。後には、さらに壮麗な聖堂も建てられた。
これらもさることながら、丘の上から、そしてレストランから見たナザレの海はあまりに美しく、私は心のなかでつぶやいた。
「あの海に入れたらよかったのに……」
私は旅行に出るとき、しばしば意味もなく、水着をスーツケースに入れる。どこで泳ぐ機会があるか分からないからだ。だが、今回はさすがに水着はなかった。
大西洋の海産物で盛り沢山の昼食をいただいた後、とりあえず私はズボンの裾をたくし上げ、海辺に立った。大西洋の荒波も、海岸まで届くと微かな波だ。ちょうど波が届くか届かないかという場所に立ち、皆さんと記念撮影をし、冗談を言い合う。そうして、波を背にして「そろそろ行きましょう」と言いかけたとき……それまでとは比較にならない大波が、突然われわれを襲った。いや、襲われたのは、波を背にしていた私だけだった。私はすっかり大波に足をすくわれ、全身が海に浸った。
バスに戻り、スーツケースから着替えを取り出していると、下江添乗員がやって来て言った。
「先生、海に入られたのですか?」
入ったといえば入ったのだが、意図的に入ったのではない。余計なことをマリア様に祈ってはならないと身をもって思い知ったが、しかし、かつてのキリスト教の洗礼は体全体を水に浸けたという。15のとき、学校の聖堂で額にわずかな水を垂らして洗礼を受けた私は、いつか全身を水に浸さなければならなかったのかもしれない。そう思うと、聖母が奇跡を起こされた美しいナザレの水に洗われて、私は、なにか一つの業を終えたような気になったのだった。
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信じられない事態が・・・・
ファティマで聖母のご出現を仰ぎ、三つの預言を聞いたルチアは、コインブラのカルメル会修道院で97歳まで生きた。3年前、この修道院を訪ねた際にはまだルチアが存命中であったが、その彼女も昨年亡くなった。
いまだ聖女の息づかいの残るこの修道院を訪ねることは、アヴィラ、ガラバンダル、サンティアゴ、ファティマ等の大聖地をいくつも含む今回の旅行中でも、私は特に楽しみにしていた。
ところで、今回の旅に臨むにあたり、私には二つの不安があった。
二年に一度ほどやってくるしつこい咳が、ちょうど出始めていた。一度始まると一カ月は止まらないので、バスのなかで毎日何時間も解説をすることが可能かどうかが大いに危ぶまれた。……が、今回も巡礼が始まってみると咳は止まってしまい、今も再発していない。
もう一つ、まったく個人的なことだが、私なしには解決できないと当事者が主張する問題が親戚関係に発生していた。たしかに複雑かつ重要な問題だったので、ヨーロッパ時間の夜11時か、または朝5時ならば電話してくれてよいと言って日本を発った。実は今まで、海外でこの携帯が通じたことはなかったので高をくくっていたのだが、こちらのほうはいざ蓋を開けてみると、毎朝、毎晩のように電話がかかってきたのだった。
この日もまた、朝5時半から対応し、そうして7時、少しでも瞑想するか、または朝食をゆったりとるかと思案していたそのとき、今度は部屋の電話が鳴った。添乗員の下江さんが、今、コインブラ中央駅にいるという。
はて……?? 今日の観光に、鉄道の駅が入っていたか……。そう思っていると、下江さんが言った。
「実はQさんがパスポートを失くされまして、これからリスボンの日本大使館に行っていただくところです」
本人が電話を代わったが、すっかり恐縮している。そうだろう。きわめて有能な彼女は、いつも周囲を思いやる人でもある。それにしても何ということか。彼女は聖地ファティマの巡礼を、あれほど楽しみにしていたというのに……。
だが、ひとしきり話を聞いた後、私の口からはこんな言葉が洩れた。
「それが、君にとっての巡礼だ。行っておいで」
受話器を置いてから、もう少し思いやりのある言葉はなかったものかと悩んだ。
しかし考えてみれば、13回を数える『大いなる生命と心のたび』のなかで、聖地や聖者、聖女たちに夢中になってきたわれわれが、今までパスポート関係のトラブルに巻き込まれることなく予定通り帰国できたこと自体が、むしろ不思議だった。そうして、ついに起きたこの事態に際し、旅の参加者が一人でも離れてしまうことが私の心にどれほど鋭い哀しみを与えるものかを、私はこうして初めて知った。
ほどなくして、下江添乗員がホテルに戻ってきたが、いつも陽気な彼も疲労が隠しきれない。昨夜、打ち合わせをして別れたのが夜の11時で、Qさんからの電話が1時半。その後、彼女らが行ったFADのお店に探しに行ったり警察で紛失証明をとったりで、彼はほとんど寝ていなかった。
「奇跡を期待する他、ありません」
私の部屋に来るなり、下江さんはそう言った。
「本人には、何と言ってあるのです?」
「五分五分と言いました」
そう言うしかないだろう。しかし現実には、パスポートの発行には通常、一週間かかる。この日は金曜日だったので、渡航証明をとるにも、ちゃんと手続きを踏んでやろうとすれば翌週になるだろう。
しかし帰国は翌日便だ。彼女が今回のツアーに戻れる可能性は、実際のところほとんどない。その上、在外公館は、手厚い手当てを支給され、場合によって何千本ものワインを貯蔵している割りには、パスポートを失くしたなどと言ってくる同胞に対していかに冷たいか、われわれは誰でも知っている。
しかしそれなら、なぜ下江添乗員は夜中にでも起こしてくれなかったのかと私は思った。あるいはせめて、駅に見送りに行きたかった。
いずれにしても私は、このとき、自分にできることがそう多く残されていないことを悟った。
ルチアが半世紀以上を過ごしたカルメル会の修道院には、特別な配慮で入れていただく。滞在可能時間は20分。
そこで、聖堂に入るやすぐに、私は皆さんと一緒にロザリオの祈りを唱えることにした。もちろん、皆さんは皆さんそれぞれの意向で祈っていただいたらよい。ただ、Qさんのことも一緒に祈ってほしいと、私は言った。
ロザリオ一連を終えたとき、まだ10分ほど時間があった。あとは自由に聖堂内でお過ごしください……と申し上げロザリオをやめると、シスターが私に何か言った。が、ポルトガル語なので意味が分からない。身振り手振りで何とかコミュニケーションをとった結果、シスターは「ロザリオを続けて」とおっしゃっていることが分かった。
もちろんシスターは、今、何が起きているのかを知らない。が、もっとロザリオを祈れと言っていた。結局、われわれはロザリオをまる一環唱え、祈りを終えた。
このシスター、実は3年前に訪ねたときも応対してくださったシスターだった。あのとき、ルチアへの手紙を必ず届けてくれると言ってくれた彼女だ(2004年8月3日のエッセーを参照)。後で奥の部屋でお礼を申し上げると、シスターは、人懐っこい笑みを浮かべてこう言った。
「ロザリオが好きですか? ロザリオをお持ちになりますか?」
聞けば、なんとルチアがご存命中に、手作りで作られたロザリオがあるという。
「どれくらいありますか?」
「多くはありません」
「……全部、売ってください」
今回ご参加の皆さん45名分があればいいと思って待っていると、別のシスターが数本のロザリオを持ってきた。
「もう少しありませんか?」
そう聞くと、シスターはまた奥の部屋に行って帰ってきた。そのようなことを何回か繰り返して、遂に人数分を超えるロザリオを譲っていただくことができた。
皆さんの待つバスに走って戻りながら、胸がときめいて仕方がなかった。
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ロザリオをつむぐルチア
(左端)
長い聖母マリアご出現の歴史のなかで、ひときわ輝く二大聖地、ルルドとファティマ。そのうち、ルルドで聖母を見たベルナデッタは、死後、百数十年も遺体が腐敗をまぬがれ、今も巡礼者たちの篤い拝礼を受けている。
一方、ファティマで聖母を見たルチアは、聖母の預言どおり長く地上に留まり、昨年2月に亡くなった。
間違いなく、この女性に関する列福・列聖の調査が始まるはずである。そうしておそらく、彼女が「聖女ルチア」として、聖女ベルナデッタと並び称される日が、遠からず来るに違いない。そのとき、このロザリオを手にしている者がどれほどそれを誇らしく思うか、想像できない。
(聖母の慈しみ以外のなにものでもない……)
そう思いながらバスに乗ると、下江さんが言った。
「先生、Qさんが、……バスでファティマに向かわれたそうです」
「……」
下江添乗員は興奮していた。26年間、添乗してきて、こんなことは初めてだし、仲間の添乗員の間でも聞いたことがないという。
「奇跡としか言いようがないですね」
そう言って彼は、驚きの表情を、彼らしくひょうきんに表現してみせた。
これを「奇跡」と言うのかどうか、私は知らない。が、ともかくも、彼女が念願のファティマ巡礼ができるようになったことは事実だ。バスのなかでもう一連、われわれは聖母に感謝のロザリオを捧げた。
ファティマで昼食をいただいていると、ひょっこりQさんが現れた。唖然とするほど突然で、思わず拍手が沸いた。
それにしてもよく、ポルトガル語しか話されないこの国で一人リスボンまで行き、渡航証明をもらって帰ってきた。困難な旅から帰還した娘を迎える父親というのは、こういう気持ちなのだろうか。
聖地においては、まずご出現の場所に行く。かつては無骨な丘だったこの場所に、今は小さな礼拝堂が設けられ、美しい聖母像が安置されている。
かつてヴァチカン広場で狙撃されたローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、聖母がその手で弾道をそらせてくれたおかげで死を免れることができたと言った。法王は、この日がファティマのご出現の記念日であったことは偶然でなかったとし、自らの体から取り出された銃弾を聖母に捧げた。その聖母像を拝礼し、日本からお持ちした手紙をすぐ下の箱に入れる。
さらに、フランシスコとヤシンタ、そして今年2月13日からルチアの眠る柩のある大聖堂を巡礼した後、彼らの生家を訪ねることができた。フランシスコの生家ではフランシスコの甥に当たる方が、ルチアの生家ではルチアの姪に当たる方がわれわれを出迎え、彼らの使った部屋や生活の跡を見せてくれた。
この日、聖地ファティマは嵐だった。傘をさしていても、骨があっという間に曲がってしまう。ガイドさんに聞いても、こういう天候は珍しいという。
浄化の嵐か……。だが、それでもよかった。全員でファティマに来られたのだ。
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浄化の嵐の跡
いつまでも身を浸していたかったサンティアゴ。だが、この日はサンティアゴを離れ、われわれはポルトガル発祥の地ポルトに向った。ポルトガルの名も、ポートワインの名も、この地に由来する。
世界遺産となったドウロ河畔で魚介類リゾットの昼食を楽しんだ後、河堤にあるワイン工場を見学。200キロ先から運ばれてきた良質のぶどうを、ここで10年、20年、30年、40年と発酵、貯蔵する。
普段アルコールをまったく口にしない私も、黒いマントを羽織った怪しい美女の口車に乗って、つい赤と白のポートを試飲。それぞれ小さなグラスに半杯くらいであったが、これだけの量のアルコールを一度に体内に入れたのは、生まれてこの方、記憶にない。いい気分になって、知人に頼まれていたポートワインや、なぜか売られていたフォアグラを購入。
ポルトガル文化の中心であるコインブラ大学は、パリ大学、ボローニャ大学と並ぶヨーロッパ最古の大学として知られる。丘の上に広がる美しいキャンパスを散策し、その後、この街で黄昏どきの夕食を三々五々、楽しむ。哀愁漂うポルトガルの“演歌”FADを聞くため、20人近い皆さんはタクシーを仕立てて旧市街へ繰り出して行かれた。
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学生食堂でくつろぐ生徒達
西暦一世紀、ユダヤで殉教した聖ヤコブの遺体は、かつて心血を注いで布教したスペインの地に運ばれ、埋葬された。800年間、墓は誰にも知られないできたが、あるときその地に不思議な光がさし込む。そうして、これが聖ヤコブの墓であることが分かった。
ときあたかもレコンキスタ(国土回復運動)の時代。イスラム教徒による迫害に苦しむ民を救うため立ち上がったカール大帝は、しかし苦戦を強いられていた。ところが、天下分け目のクラビーホの戦いで、突然、天から騎士が舞い降りる。剣を手に、白馬にまたがった聖ヤコブは、この戦いでイスラム教軍を蹴散らし、キリスト教徒に大勝利をもたらした。こうして、これを記念し、サンティアゴの地に大聖堂が建立されることとなった。
スペイン最高のロマネスク様式のカテドラル、バロック様式のオブラドイロの正面、栄光の門、チュリゲラ様式の祭壇、無数の巡礼者が触れてすり減った柱の指跡等を拝礼し、われわれは一人ずつ、大聖堂内の聖ヤコブ像を抱擁。これが、千年前から続く巡礼のしきたりなのだ。そうして地下にある聖ヤコブの柩前に、日本から持参した手紙を置かせていただく。
だが、私をさらに感動させたのは、大聖堂内の聖母像だ。聖母像評論家として身を立てて十数年、いまだかつてこれぼど美しい聖母像を見たことがない。いったいどうやって、こんな、生きているようなご像を創ることができたのか……。これを見てしまった今、それよりも美しい聖母を見るのは、死んで実際にお会いしたときしか考えられない。
午前中に主な場所の解説を聞いたわれわれの多くは、12時のミサに。昼食と、午後の時間をはさんで夜まで、それぞれが聖地サンティアゴをゆったりと散策した。再度ミサにあずかる人、ロザリオや記念品を購入する人、祈る人……。そして、奇しくも何人かの方に、同じこの日、神聖なインスピレーションが訪れたことを私は後に知った。
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夜の霧雨
前日、ガラバンダルを下山した後、われわれはさらにバスの旅を続け、サンティアゴ巡礼路(カミーノ)の要衝レオンまで来た。ここでの宿泊は、中世の修道院を改装したパラドールだ。
旅の中日、歴史の懐に身を委ね、豪華なパラドールで少しゆったりめの朝を迎える。そうしていよいよ、千年の大巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラに向けて出発した。
途中、何人かの熱心な方からの希望により、われわれはバスを降り、実際の巡礼路を歩くことにする。最後の4キロは市街地に入っていく部分ではあったが、小雨のなか、大きなリュックを背負った巡礼者に追い抜かれたりしながら、ついにサンティアゴ入り。2000キロになんなんとするこの道を、千年間、毎年50万人から100万人の巡礼者が祈りながら歩いた。たとえ彼らほどではないにしても、雨の向こうに壮麗な大聖堂を目の前にしたときには、やはり感動!
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到着!!