師弟3

【師と弟子】の関係は、特殊な人間関係だ。
ヴェーダの伝統においては、
弟子は師に仕え、
師は弟子を真理の深い領域へと導く。
だが、たとえばクリシュナとアルジュナにおいては、
そうした関係と同時に、
互いに無二の親友としての人間関係もまた、色濃く描かれる。
東洋の聖書【バガヴァッド・ギーター】から読み取れるその関係は、
厳しく、かつ甘美だ。
それらは、師と弟子との個別のつながりにより、
つまり悠久の過去からの関係性により、異なってくる。
新約聖書をひもとくと、イエスがその弟子たちを……

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師弟2

今週の土曜日(12日)のセミナーの準備をしていると、
そこにはイエスが最初の弟子をとったときのことが語られていて、
自分が最初に“弟子”になったときのことを思い出してしまった。
中学一年のとき、イエズス会のある修道士の弟子になったのだが、
私のお願いに対し、修道士はさぞ、困惑されたに違いない。
だが結局、彼はそれを受諾し、私はカトリックの修道士から、
ヨーガを習うことなった。
40年近くも前で、
今のヨーガブームが嘘のような時代のことだ。
結果的に、この師弟関係は1年しか続けることができなかったが、
しかしある意味で、もっと長く続いた、
というより、いまだに続いているともいえる。
なぜなら、このとき、最後にヨーガの師が言われたことを……

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師弟1

長崎から帰り、インドから帰り、京都から帰り、
東京での瞑想講座も終わって、ややほっとしている。
これらのうち、いつが一番ほっとしたかといえば、
それはもう、圧倒的にインドから帰ったときだ。
成田に着いたときといわず、
シンガポールまで帰ったとき、
いや、飛行機がインドの空港を飛び立ったときの
安堵感・解放感といったらない。
いつもずっと日本にいられる方は……

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神父 5

大木神父と会っていると、30年前、一人で上京してきたとき、上智大学キャンパスに隣接しているイグナチオ教会に通うようになったことを思い出した。同じイエズス会の経営ということで、中学・高校で習った先生の何人かは上智大学に移っていた。そしてそれと同じ春、神父はネパールに旅立ったのだった。
18になった年、大学に入った私は、世間的に見ればとりあえずうまくいっている少年の部類に入っていたかもしれない。ところが、実のところ私の心は……

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神父 4 

今回、大木神父が急遽帰国されたので、さまざまな話をすることができた。ポカラでの活動はもちろん、日本の教育全般や学校運営のこと、昔の思い出等々、話題は尽きなかった。
数年前、「聖マリア奨学金」をお出しして大学進学を援助した少女は、今、中国で医学を学んでいるという。将来、医者となって帰ってもらい、まだまだ貧しいネパールの人びとのために尽くしてほしいと希望を申し上げた。
障害児教育の学校のほうは、今回の有り難いご寄付を始めとして、おおむね資金的な目処がたったようである。しかし……

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神父 3

コンサートには、高円宮妃久子様もおいでになり、終演後、出演者の一人ひとりにていねいにお声をかけられた。
昔、妃殿下をバレエの会場でお見かけしたことが何度かあった。もう20年近くも前だろうか、NHKホールでレニングラード・バレエを見た後、ホール前の公園を散歩していると、同じようにお散歩中の高円宮ご夫妻をお見かけした。当時、結婚されてまだそれほど間のないころだったように思う。SPが、つかず離れずといった感じで警護していたのが印象的だった。
「昔、よくバレエの会場でお見かけしました」と申し上げたところ……

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神父 2

<プレマ通信>かわら版で紹介したチャリティ・コンサートは、3月22日に行なわれた。
たくさんの善意の皆さんのおかげでチケットは完売で、山本さん、田中さんのご好意により、<プレマ倶楽部>分を特別に確保していただくというふうだった。
もとより多忙な大木神父は、しかし他の仕事もあったので、ある篤志家の方がお金を出されて急遽、帰国の運びとなった。
当日、数年ぶりにお目にかかったところ……

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神父 1

ふた月ほど前、紙媒体の<プレマ通信>かわら版のほうに、以下のような文章を載せた。少し長いが、まるまる引用する。
チャリティ・コンサートへのお誘いと、
主催される山本順子さん・田中陽子さんのこと
 西暦2000年の大晦日は、世紀が替わるという、普通の人は一生に一度しか経験できない特別な日でした。読者の皆さんからはこの日をキリスト教の聖地で過ごしたいというご要望があり、フランス・イタリアの巡礼旅行を企画しました。そのとき、カナダ・トロントから参加されたのが山本順子さんでした。
 私たちはパリで落ち合った後、聖母マリアがご出現になって「不思議のメダイ」を残された愛徳姉妹会、パリ・ミッション会、ルルドで聖母マリアと語らった後、亡くなって一世紀を経ても遺体の腐敗しない聖女ベルナデッタが今も息づくヌヴェール、世紀の明けた元旦にはローマ・4大聖堂の「聖なる扉」をくぐり、翌日は聖フランシスコのアッシジ、最終日はローマ法王ヨハネ・パウロ二世の謁見と、忙しい旅をご一緒しました。そんななか、山本さんの人柄がなんとなく伝わってきて、世界を飛び回る経済人として多忙な日々を送る彼女がどのようにして聖なるものに触れ、導かれていったか、また、彼女が仕事以上に精力を注ぐ慈善活動について、自然に話し合うようになりました。
 旅のなか日……

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見神

聖母出現を題材とした小説『最後の奇跡』を書いたとき、
いくつかの言葉遣いに苦労した。
そのうちの一つは、聖母のご出現に与る少年たちを何と呼ぶかである。
聖母や、神々のご出現に与る人びとは、
通常、「幻視者」と呼ばれる。
われわれには見えないものを見ているからだ。
ところが、それではまるで、彼らが見ているのは幻であるかのように聞こえる。
が、それは幻ではない。
われわれが現実と呼ぶものよりもさらに現実的なもの、
まさに現実そのものを彼らは見ている。
そこで私は、彼らを「見神者」と呼んだ。
現在、月に一度解説している聖書のなかで、
おそらくはもっとも深淵な哲理を説いた【ヨハネによる福音書】第一章を、
先月解説したが、
その最後の部分にこんな文言がある。
『いまだかつて、神を見た者はいない……』
本当なのか。
本当に、神を見た者はいないのか。
これを考察するための格好の題材となる霊的巨人は……

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御神酒6

一昨年、今も聖母マリアがご出現を続ける聖地メジュゴリエに行ったとき、
スベトザール神父が語ってくれた。
「巡礼は、日常を棄て、心の隙間に神をお迎えする作業です」
旅はそれ自体、非日常である。
常日頃、見ている風景や、交わっている人間関係、
考えていることを一旦棄て、
そうして空いてきた心の隙間に、神は巧妙に入り込む。
このことを人間生理のレベルで説明すれば……

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