宗研37

広島学院の宗研は、最初はふたグループ、4、50人でスタートし、
最後はひとグループ3人で終わった。
その間、すでに書いたように、
大木神父から洗礼を受けたのは私一人だった。
仮にミッションスクールで、優秀な神父がそれなりの教育を施したとしても、
日本人が洗礼を受けるのは、それほど障壁の高いことであるのがうかがえる。
ところで、今日9月8日は、
ローマ・カトリック教会が聖母マリアの誕生日として指定、
お祝いする日だ。
そしてこの日に合わせて、読者の一人が洗礼を受けられた。
昨年、あのサンティアゴ・デ・コンポステーラを巡礼した際……

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宗研36

『信心生活の入門』の内容は多岐に渡っていて一言で紹介できないが、
印象的な金言の一つは、
「誠実に、かつ巧みになされた仕事が遅すぎるということはない」
というものだった。
私は、子供の頃から、本を読むのが遅かった。
何かを記憶するのも、何をマスターするのも遅かった。
そのことをいつも苦にしていた私にとって、
聖人の言葉は救いであった。
人と比較して遅いということはあるかもしれない。
早すぎる締め切りに間に合わなくなることもあるかもしれない。
しかし、誠実に仕事をするなら、
そして持てる力を発揮して巧みに行なうなら、
それで遅いということはないのだと聖人は言う。
カトリックの聖人による叡智の込められた同書だが……

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宗研35

相浦先生からいただいた貴重なものは数多いが、
なかでも忘れられないのは『信心生活の入門』である。
本を読むのが極度に苦手な私は、
人さまからいただいた本も、多くは読むことができない。
まことに申し訳ない限りである。
しかしそんな私が、この『信心生活の入門』だけは読んだ。
赤線を引きながら、繰り返し、
血と、汗と、涙を流しながら読んだ。
著者は、聖フランシスコ・サレジオといって、
日本ではほとんど知られてない名だが、
サレジオ会という修道会は、日本で学校も経営している。
その聖人の名を冠する修道会が何百年も存続し、
極東の島国でこうして学校を立派に経営しているなどということは……

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宗研34

ちなみに、この先生、寮の舎監として赴任されたが、
風貌に違わぬ、変わった方だった。
あるとき彼は、自分の部屋で猫を飼い始め、
あろうことか学校にまで連れてき始めた。
肩に猫を乗せてこの人が歩いている姿は、
厳しい教育をしていたカトリック校だっただけに、
ある種、異様であった。
他の教職員からクレームが出なかったわけはなく、
いったいどうするのだろうと思って見ていたが……

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宗研33

私は、しかし冗談ではないと思った。
今ですら、一部の教師に目をつけられているのである。
時間を捻出するため、ときに私は学校を休み、
寮で一日専門書を読んでいることもあった。
それなのに、4時間ほどは裏山を歩いたり、
海を見ているだって!!
あまりの認識のズレに、私は声もなく、
議論することもなかったように記憶している。
しかし今にして思えば、この先生の言ったことは真理の一部をついていた。
実際のところ、10時間あるうち、
4時間もそんなことをするのは不可能だったにしても、
すべての時間を勉強や仕事に費やすならば……

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宗研32

話はもとに戻るが、
勉強というのは当然のことながら学校で行なうことがすべてではない。
本を読み、映画を見、友だちや家族、親戚や周囲の人びとと接しながら、
知らない間にわれわれは多くを学んでいく。
私が高校二年のとき、
寮に若い舎監の方が赴任して来られた。
頭を角刈りにし、パリッとしたスーツを着ることもなく、
ひょろんと背の高い風来坊のような感じのその方は、
しかし東大の教育学部をちゃんと卒業していて、
話してみればたいへん面白い人だった。
ある日、この人は私の本棚をまじまじと見つめ、
そのほとんどが物理や数学の専門書であるのを発見した。
大学レベルの専門書をこんなにいっぱい読むのは大変だったろうと言うので……

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宗研31

かつて、ユダヤの民がローマの支配下にあって苦しんでいたとき、
イエスの人気を妬ましく思っていたファリサイ派の人びとが、
イエスを陥れようとしてこう尋ねた。
「先生、ローマ皇帝に税金を納めるのは、
 律法にかなっているのでしょうか、いないのでしょうか」
律法にかなっていると言えば、イエスはローマによる圧政を認めたことになり、
律法にかなっていないと言えば、皇帝への反逆者だということになる。
この企てに対し、イエスは、
『偽善者たちよ、なぜわたしを試そうとするのか』
としつつ、お金に彫られた皇帝の肖像を指し示して言った……

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宗研30

以上のような話を、私は何かの機会に、
たまたま上智大学の元理事長から聞いた。
記憶が違っていたら、それは私の責任であるが、
このように国の法律に則り、修道生活も営まれる。
そうしていないと、万が一にも、
国による宗教への介入の口実を与えてしまうことになりかねない。
もともと、政治と宗教は、よって立つ基盤が違うので、
互いに相いれない場面が起こりうる。
たとえば、国防のため、健康な成人男子に兵役の義務を課するということは……

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宗研29

しかし、いかに修道士といえども、
自分が専用で使う、身の回りの品々は必要だろう。
必需品以外にも、たとえばカメラが趣味であった大木神父は、
広島時代から立派なカメラをお持ちであった。
おそらく、父兄から寄贈されたものだったかと想像するが、
基本的に、身の回りのものを買うための“お小遣い”は、会から支給される。
大木神父と黄金山にのぼったとき、お店に入って食べたうどんは、
神父のおごりであった。
私はこのとき、“一飯(いっぱん)の恩義”を知らずに受けてしまったため……

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宗研28

修道士や修道女は私有財産を持たないとはいえ、
彼らは体に合った服も着ればメガネもかけ、本やノート、
ペンやパソコンも持っているではないかと思う人もいるだろう。
彼らはたしかにそれを“持っている”。
が、所有していないのである。
誰が所有しているかというと、それは修道会が所有している。
彼らは、修道会から、それを専用に貸与されているという形になる。
では、かように私有財産を持たない修道士が、なぜ確定申告をするのか。
今、イエズス会のA神父が広島学院で働き、
通常であれば、年収700万円程度に相当する仕事をしたとする。
彼らは財産を得ることも持つこともないので、
本来は確定申告をする必要も、税金を払う必要もないはずだ。
しかしそれでは、国は、本当なら年収700万に課税できるはずなのに、
できないということになる。
それをもって、イエズス会やイエズス会士が、
修道という名のもとに脱税をしていると万が一にも受け取られてはいけないので……

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