旅日記13

7月7日-2
この日午後、ふたたび5時間かけてチダンバラムへ向かう。
ナタラージャ(踊るシヴァ神)寺院での儀式に与るためである。
バスが寺院に近づくと、現地の人から注意が出た。
儀式の際、男性は上半身裸にならなければならないというものだった。
南インドの厳格なヒンドゥ寺院の場合、
そういうことがままあるのを私は心のどこかで覚えていた。
が、ここでそうなるとは思っていなかった。
一行には、多くのうら若い女性たちがいる。
彼女らの前で裸になれるのか……。
「難しいと思われる方は、バスにお残りください。
ホテルにお連れいたします」
と、現地のガイドは言っている。
しかしだからと言って、私がホテルに帰るわけにはいかない。
そういうわけで、多くの男性が上半身裸になって、
神聖な儀式に与ることとなった。
夜のナタラージャ

夜のナタラージャ寺院
    
それにしても……

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旅日記12

7月7日-1
しばらく旅日記をお休みしてしまったが、
ティルヴァンナマライで泊まったところまで書いた。
翌早朝、朝食もとることなく、
われわれはティルヴァンナマライのシヴァ神大寺院に向かった。
多くの皆さんは聖者から直々に、
『わたしの国でシヴァ神の寺院を礼拝しなさい』とのお言葉をいただいていた。
しかも、『瞑想の先生と一緒に』!
もし私がインドでシヴァ神の寺院を一つだけ挙げなさいと言われたら、
迷うことなくここを挙げる。
それは、私にとっても数あるシヴァ寺院のなかでも最も思い出深く、
また、意義深い寺院だからだ。
その理由を今、ここには書けないが、今回の旅の途中、
早期に本のなかで書くというインスピレーションを受けた。
ちょうどこの日はお祭りの日で、
多くの人びとがシヴァ神寺院に巡礼に訪れていたが、
われわれ70人が寺院に入るや、カメラマンらに取り囲まれた。
ツアーを記録に残すための、われわれのカメラマンではない。
翌朝、その理由がはっきりした。
われわれ一行は、日本からきた過去最大の巡礼団として、
新聞紙面に写真入りで紹介されていたのだった。
門塔

シヴァ神大寺院の門塔を見上げる
瞑想

瞑想する私たちの後ろを通りかかるおじさん
ところで、旅の途中にインスピレーションを受けた本は……

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ジンクス6

日本の松坂大輔について、彼が甲子園で活躍していた時代から、
レッドソックスとヤンキースのスカウトが注目していたといわれる。
2006年オフ、ポスティング・システムでの大リーグ移籍を表明した松坂に、
両球団とも強い関心を示した。
すでに松井秀喜が在籍し、かつ資金量からしてヤンキースが有利といわれたが、
レッドソックスは移籍金として
破格の5111万1111ドル11セント(約60億円)を提示、
その後の年俸交渉でも6年総額61億円でトレードが成立した。
しかし実は、高校野球においてはあれほど輝かしい実績を残した松坂も、
プロ転向後には公式戦、
および二度にわたるオリンピックで優勝から遠ざかり、
これを一部では「大輔の呪い」と呼ばれていた。
ところが、2006年春のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、
日本は予選で韓国に二敗しながら、決勝では勝ち、
奇跡的な優勝を遂げる。松坂はMVPに。
「大輔の呪い」が解けた翌年の2007年、
松坂が加入したレッドソックスは3年ぶりにワールドシリーズに進出、
これを制することとなる。
ここに「新・バンビーノの呪い」もまた、解けることとなった。
松坂獲得にレッドソックスが使った金額は約120億円であるが、
その後の松坂の活躍、グッズの販売、日本からのツアー観戦、
放映権料等により、十分にペイしているといわれる。
その上、「新・バンビーノの呪い」も解け、
今年、松坂は自己最多の18勝を記録、
地区シリーズに向かう。
それにしてもこの金額は……

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ジンクス5

バンビーノが在籍した6年間のうち、
3度もワールドシリーズ制覇に輝いた名門ボストン・レッドソックスは、
そのトレードから85年間、負け続けた。
2004年もまた、
ヤンキースとの間でリーグ優勝をかけたシリーズを戦うこととなったが、
このシリーズも負けるといわれた下馬評どおり、
緒戦から3連敗を喫してしまう。
第4戦も9回裏までリードされていて、
呪いなんだから仕方がないさと誰もが思っていたそのとき……、
奇跡的な同点打が飛び出し、延長の末、レッドソックスはこの試合に勝った。
第5戦も延長で制し、第6戦、第7戦も勝って、リーグ優勝してしまう。
大リーグ史上初の、3連敗の後の4連勝、
そのままの勢いでレッドソックスはワールドシリーズも4連勝し(計8連勝)、
ついに86年続いた呪いは解けた……
と思われたが、ここに新たな呪いが登場した。
『ボストン・レッドソックスは、86年に一度しか勝てない』という
新・バンビーノの呪いである。
2005年の開幕戦、
ヤンキースタジアムでは、
『2004+86=2090』という、
新・バンビーノの呪いのプラカードが数多く掲げられた。
実際、2005年、6年とレッドソックスは勝てず、
新たな呪いの歴史の始まりを思わせたが、
そこに登場したのが……

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ジンクス4

ニューヨーク・ヤンキースに移籍したベーブ・ルースは野手に専念し、
翌年から打ちまくった。
この年のホームランは54本。
二位のジョージ・シスラーが19本だったことを考えると、
当時、いかに驚異的な数字だったかが分かる。
(ちなみにシスラーは、一シーズンの最多安打記録255本のタイトルを
イチローに破られるまで86数年間保持した人だ)
さらにベーブ・ルースはその次の年59本、1927年には60本と、
ニューヨーク・ヤンキースに在籍した15年のうち10回、
ホームラン王に輝いている。
この時代、ヤンキースは実に11度リーグ制覇し、うち8回、
ワールドシリーズで勝っている。
一方のレッドソックスは、
1925年から6年連続で最下位となるなど、
その後、さっぱり勝ちから見放されてしまい、
その次にリーグ優勝するまで、実に30年近い年月を要することとなる。
トレードから59年後の1978年、
レッドソックスはヤンキースに一時14ゲーム差をつけていたが、
シーズン終盤にかけて失速、最終日に99勝66敗で並ばれてしまう。
1試合だけのプレーオフが行なわれ、
7回まで2-0で勝っていたにもかかわらず、
その裏、Bucky Dentに逆転ホームランを打たれて、敗戦。
1986年、ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズ第6戦では、
残り、アウト一つで悲願のワールドシリーズ制覇というところまで行きながら、
連打と失策で同点とされ、
さらに平凡なファーストゴロをBill Buckner 一塁手がトンネルして敗戦。
『史上最悪のトンネル』と今でもいわれ、
ショックをひきずった第7戦も負けてしまった。
2003年、ふたたびヤンキースとのリーグ制覇をかけた一戦、
3点差、あとアウト6つで終わるところまで来ながら同点とされ、
延長に入ってAoron Boone にサヨナラホームランを打たれて敗戦。
(ちなみにこの試合には、ヤンキースの松井秀喜が出場している。)
Babe Ruthに始まり、Bucky Dent、Bill Buckner、Aoron Boone と、
すべてBにまつわる人びとによってもたらされた歴史的敗戦のすべてを……

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ジンクス3

ジンクスといえば、私がどうしても思い出すのは、
「バンビーノの呪い」である。
これについて、以前にブログに書いたつもりでいたのだが、
検索しても出てこないので、
書いたと思っていたのは私の印象の世界のことであったに違いない。
早く旅日記に戻れという声も聞こえてきそうだが……
野球について特に関心のない人も、
ベーブ・ルースの名前を知らないという人はいないだろう。
日本の中学の英語の教科書にすら、彼の話は出てくる。
このベーブ・ルース、しかしながら、
最初は投手だったことはあまり知られていない。
ボストン・レッドソックスに在籍した1914年〜19年、
彼は投手として、18勝、22勝、24勝を挙げた。
さらに、登板のない日は野手として出場し、
6年間で3割を4度打っている。
当時、二桁ホームランを打てば大変なことだったのに、
19年にはホームラン29本を放ち、ダントツのホームラン王となった。
この間、ボストン・レッドソックスは6年間で3度、
ワールドシリーズを制している。
松坂が入団するとき、ボストン・レッドソックスを“名門”と書かれていたが、
実は当時、最下位の常連だったニューヨーク・ヤンキースなどに比べても、
レッドソックスははるかな名門であった。
ルースのピッチングと、豪快なホームラン見たさに観客はつめかけ、
フェンウェイパーク(今、松坂が投げている……)は連日満員の盛況だった。
ところが……、

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ジンクス2

昨日ご紹介したジンクスの真相は、
その多くが、「印象」の悪戯だろうと思われる。
大きなチャンスの直後にこんなピンチを迎えてしまった!
あんなに打ったのに、次の試合ではまったく打てなかった!
無死満塁だったのに点がとれなかった!
これらの印象は強く心に残るので、実際に起きた回数よりもたくさん
起きているように感じられる。
ちなみに、3人姉妹や3人兄弟も同じで、
彼らは一般に、二人男、一人女の兄弟などよりも強い印象を残すので、
実際の数よりも多く見かけるような印象をわれわれに与える。
しかしこれも印象の悪戯で、
統計をとってみると、3人姉妹も3人兄弟も、
確率論にしたがった数(3人子供が生まれた家庭のそれぞれ1/8)
しか生まれていない。
「ラッキーセブン」については、かつてのように、
一人の投手が完投することを前提として試合を組み立てた時代なら、
そういえたのかもしれない。
(なので、この研究を行なった大学の先生には、是非、
先発・完投を旨としていた40年ほど前の統計からも
「ラッキー・セブン」を検証してみていただきたい。)
しかし近代野球においては、
先発・中継ぎ・抑えという投手の役割分担が進んでいるので、
7回にはもう投手が交代していることが多い。
むしろ統計は、6回の失点が多いとしているが、
5回を投げ終えて先発が勝利投手の権利を得、
気が緩むと同時に心身ともに疲れがきていると考えると、納得できる。
大リーグなどで、
5回を終えると早々に中継ぎを送ることが多いように見えるのは、
そのせいなのかもしれない。
ジンクスや通説は他にもたくさんあって……

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ジンクス

真実は見た目と必ずしも一致しないことがある、という話題を、
オリンピック史上の事故にからめてとりあげた。
デッカーとバッドは、よほど因縁浅からぬ仲であるに違いないが、
世の中にはジンクスというものもある。
辞書をひくと、因縁のように思うこと。縁起。と書かれている。
たとえば、風呂に右足から入ると翌日、よくないことが起きる……
というような個人的ジンクスも多いだろうが、
一般的なジンクスを通説ということもあるかもしれない。
たとえば、野球の世界では、
「チャンスの後にピンチあり」
「無死満塁は点が入らない」
「ラッキー7(7回は点が入りやすい)」……
こうしたジンクスに根拠があるのかどうかを、
統計的に調べた大学の先生がいて、今日の新聞に載るようだ。
それによれば……
「チャンスの(チャンスを逃した)後にピンチあり」
チャンスを逃せば、チームに多少なりとも精神的ダメージが残る。
いわゆる「試合の流れ」が相手側に行くともいう。
したがって、そのあとにピンチが来る確率が高くてもおかしくない。しかし、
走者が二塁以上に進んだチャンスがあったのに得点できなかった場合、
そのチームが直後に失点する確率は26.4%(平均失点0.492点)で、
全体の平均(26.4%、0.495点)と差がない。
「大量得点の次の試合は打てない」。
大量得点をした後、チームの気分は緩みがちだ。
打者も、自然と大振り・粗削りになる。
したがって、次の試合は意外と打てないといわれる。が、
全試合のうち、10点以上の大量点があった145試合のうち、
そのチームは次の試合でも平均4.87点を取っていて、
一試合平均4.43点を上回っている。
「無死満塁は点が入りにくい」
満塁だとフォース・プレー(タッチしないでも走者をアウトにできること)
が可能となるので、意外と攻めにくいといわれる。
しかし、無死満塁の場合の得点確率は84.5%、平均得点は2.399点で、
無死2、3塁等、すべての他の状況よりも多かった。
「ラッキー・セブン」
試合終了まであと3回。この辺りが守る側、
特に投手にとって最も苦しい回数だといわれる。
応援も、花火を打ち上げたりジェット風船を飛ばすなどしてはやし立てる。
しかし、実際に得点が入る確率は26.2%(平均得点0.481点)。
1〜12回裏の平均(26.9%、0.506点)以下である。
むしろ6回裏(30.7%、0.662点)の方が高い。
これらは、05年の全公式戦846試合のデータを統計処理したという。
もし、06年の統計をとったら違った結果が出た、となると面白いが、
そうはならないだろう。
ところで、ことの真相はいつか明るみに出るというはむたろうさん……

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五輪18

コマネチ同様、この二人がその後、どのような人生をたどっていったか、
多くの人は知らないのではなかろうか。
メアリー・デッカーは、4年後のソウルオリンピックにも出場、
1500メートルで8位、3000メートルで10位になっている。
そしてなんと、一つおいて、8年後のアトランタオリンピックにも出場したが、
決勝に残ることはできなかった。
1996年、アメリカに住んでいた私は、
オリンピックを観戦にアトランタに行った。
通常なら、長年やってきた大ベテランに対し、
メディアはこれを称賛しながら引退させていくものだと思ったが、
生まれながらの女王メアリー・デッカーはなにかとマスコミと衝突したらしく、
とても冷たい扱われ方をしていたのを思いだす。
結局、あの全盛期に迎えたロサンゼルスでの悲劇を修復できないまま、
彼女は競技人生を終えていった。
しかし38歳でオリンピック陸上に出場したこと自体が、
いかに彼女が図抜けた才能の持ち主であったかを物語っている。
同時に、通常ならとっくに引退しているはずの歳までオリンピックにこだわった彼女の、無念も伝わってくる。
一方のバッドもまた、傷心を抱えたまま南アフリカに帰り、
数年間、消息が聞かれることはなかった。
89年に結婚し、アパルトヘイト政策の終焉とともに、
彼女は92年のバルセロナオリンピックに出場している。
(それはちょうど、デッカーが出場しなかったオリンピックだ)
しかし決勝に残ることはできず、やはり競技人生を終えていった。
それは、一瞬の出来事だった。
が、二人の人生を左右しただけでなく、
世界中の人びとの記憶に残る出来事となった。
そのようなことが起きる二人は、当然のことながら、
遠い過去世からなにかの縁でつながっていたに違いない。
ただ、そのような事実も、それが何かも知らないまま、
二人は今回の人生で巡り合い、事故は起きた。
いずれにしても、オリンピック史上まれに見る、
悲運のライバル同士だったことは間違いない。
ところで、私には、ゾーラ・バッドの足がひっかかったのは、
最初から偶然に見えましたが……と書いたところ、
投稿者の方からは以下のようなお返事が届いた……

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五輪17

ご指摘いただいたシーンは、私もよく覚えている。
アメリカの天才ランナー メアリー・デッカーは、
76年(18歳)のモントリオールを故障で、
80年のモスクワをボイコットでともに棒に振り、
しかし83年、ついに1500メートル、3000メートルで世界選手権を制した。
84年(26歳)のロサンゼルス大会は脂も乗り切った時期で、
満を持して3000メートル一本にかけたが、
その前に立ちはだかったのが、裸足の天才少女ゾーラ・バッドだった。
バッドは、84年(17歳)、裸足で走った5000メートルで世界記録を出した。
しかしそれは、当時アパルトヘイトを行なっていた南アフリカで記録されたものだったので、世界記録とは認められなかった。
ところが、続いてイギリスで、それをさらに13秒も上回る驚異的な世界記録を樹立。
大きな論争を巻き起こしながら、イギリス国籍を取得し、オリンピックに臨んだ。
問題のシーンは、1700メートルを過ぎたあたりで起きた。
常に先頭を行かねば気が済まない性格のデッカーの前に、
このとき、バッドがいた。
二人は競り合いながら接近、実は転倒の前に二度、脚が接触している。
そして最後、バッドの脚が内側に切れ込んだ瞬間、
デッカーは躓いてフィールド内に大きく転げ落ちた。
このとき、負傷したメアリー・デッカーは、
誰も忘れることができないほど激しく泣き崩れた。
一方、9万人の観客からブーイングを受けたバッドは、
しばらくはトップを守っていたものの、
次第に走る気力を失い(まだ17歳の少女である)、結局7位に終わった。
メアリー・デッカーはレースが終わるまで泣き続け……

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