聖母出現

--「昨年の8月5日には、こんなことがありました」
 そう言って、シスターは話し始めた。
 聖母誕生日は、ローマ・カトリックの典礼で九月八日に祝われるが、御出現のマリアは八月五日が正しいと語っている。去年のその日、聖母は、何を祝いにくれるのかと二人に尋ねた。
 彼らは顔を見合せたが、お祝いにできるようなものがないことを互いに確認するだけだった。
「なにもない……」
 少女の唇がそう動くのを見て、少年は泣いた。聖母の誕生日だというのに、何も差し上げることができないのである。
 このとき、意外なことが起きた。聖母は、いつもとどまっている高い位置から降りてくると、その手で二人を抱きしめて言った。
『よく覚えておきなさい。あなた方が捧げてくれる、祈りにまさる贈り物はないということを。それは、薔薇の花よりも美しく、百合の花より芳しいことを』
 そうして、こうつけ加えた。
『あなた方が心を一つにして祈るとき、わたしはいつも、いつまでも、あなた方の目の前にいます』--
以上は、拙著『最後の奇跡』からの抜粋である。
この小説は、1981年6月からいまだに続いている
聖地メジュゴリエにおける聖母出現をモデルにしている。
したがって、ご自分の誕生日は8月5日が正しいと言われたのは、
メジュゴリエの聖母である。
メジュゴリエにおいては、
6人の少年と少女に聖母がご出現になったというだけではなく、
病気の治癒や、太陽が踊ったといういわゆる「太陽の奇跡」、
その他の奇跡が多々みられている。
明日、8月5日……

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山上の垂訓

20世紀最大の予言者の一人といわれたエドガー・ケイシーは、
かつて聖書についてこう語った。
『【ヨハネによる福音書】第13章から17章を、繰り返し読みなさい』
3年半をかけて解説した【ヨハネによる福音書】の、特にその部分には、
神人イエスの内面とその祈りが、
全聖書を通じて最も色濃く語られている。
同様に、もしイエスの教えが最も端的に、大胆に語られるのはどこかといえば、
それは間違いなく【マタイによる福音書】第5章から第7章だ。
この部分は、イエスが特に山上に弟子たちを導かれ、教えられたということで、
『山上の垂訓』『山上の説教』などと呼ばれている。
あの有名な、
『幸いなるかな、心の貧しき者……』
に始まる、いわゆる『真福八端』は山上の垂訓の一部であり、
その冒頭に過ぎない。
一方、東洋の聖書【バガヴァッド・ギーター】のなかでは……

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完結

前回、ブログを更新した後、続けてインドへの旅案内を書こうと思っていたのに、
二週間が経ってしまった。
その間に、旅の詳細は煮詰まってきたが、
ふと見れば明日は【バガヴァッド・ギーター】解説の日だ。
【バガヴァッド・ギーター】は、
人類最古にして最大の叙事詩『マハーバーラタ』の一部ではあるが、
しかしその精髄のすべてが語られていると言ってよい。
第一章『アルジュナ 悲しみのヨーガ』では、
親族を、そして世界を二分して戦わなければならなくなった王子のギリギリの苦悩が語られ、
第二章『英知のサーンキヤ・ヨーガ』では、
それに対するクリシュナ神の回答が整然と述べられる。
答は、すべてに渡って完璧なものであったが、
しかし第三章の冒頭で、アルジュナはさらに疑問を投げかけるのである。
その問いとは、要するに、
『こうして、世界についての知的理解が得られたとしても、
 しかし一体、実際にはどのように行動していけばよいのか』
というものだった。
この問いから、
第三章の主題である『行動』についてのクリシュナ神の教えが引き出される。
行動や経験は、どのようにして始まるのか、
自然の法則に適った行動、およびその究極としての瞑想とは
行動と、真我の関係
われわれは、どのようにして神々とともに生きていくのか
欲求を、自ら支配する方法とは……
神々の王・インドラの化身であったアルジュナは、
第二章のクリシュナ神の言葉だけでは悟りに至ることができなかったのか……。
そうかもしれない。
神々の王とはいえ、相対界に生きるアルジュナは、
第二章を聞いただけではすべてを納得できず、
この世界のさらに精妙な存在についての問いを続けたのかもしれない。
しかしそのおかげで、
われわれは究極の『行動のヨーガ』を、神の化身の口から聞くことができる。
それを完結させる最後の三節がちょうど残っているので……

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人により、人生により、
われわれはさまざまなカルマをもって生まれてくる。
そのうち、肯定的なカルマは、
適切なとき、適切な相手から、肯定的なかたちで返ってくるだろう。
それは、歓びや幸福を伴ってやってくるだろう。
一方、否定的なものは、やはり適切なとき、適切な相手から、
否定的な姿をとって返ってくるだろう。
苦しみや、不幸を伴ってやってくるだろう。
それらのありさまを見たり経験したりしていると、
そのあまりの驚くべき、恐るべき様には言葉もないが、
自然界の法則は誰も免れることができない。
誰もが膨大な量の否定的カルマをもって生まれてきているに違いないが、
しかし、たとえそうであったとしても、
何らかのよい行為をすることでそれらを解消することが可能な場合がある。
たとえば「瞑想」により、この世界の深いレベルに入っていくことで、
われわれはそこにある不調和や傷、否定的なカルマを解消することができる。
そのおかげで、本来であれば3年後に癌として発症するはずであったカルマは、
瞑想中のちょっとした雑念や不快感によって、去っていくかもしれない。
または、苦しんでいる人を助けることで、否定的なカルマは解消され得る。
それにより、本来であれば5年後に事故のかたちで訪れるはずであったカルマは、
知らない間に解消されているかもしれない。
そうしたことを、特段考える必要も、本来はない。
「瞑想」はわれわれに、
経験しなければ到底分からない静けさや豊かさを与えてくれるし、
人を助けることもまた、
経験しなければ分からない深い満足感を与えてくれる。
いろいろな難しいことを考えなくても、それだけで十分なのである。
何をどう捉えるかは別にしても、ともかく、会員の皆さんのなかに、
貧しいがために結婚できない男女のために結婚式を出される方たちがおられる。
貧しい家庭のために、家を建てられる方もおられる。
また、解説中の【バガヴァッド・ギーター】第3章に詳述されているように、
地上に生きるわれわれには、
さまざまな機会を通じて神々をお喜ばせするという神聖な務めがあるが、
そうした儀式を行ないたいと願っておられる方もいる。
それらの結婚式や儀式がどのように行なわれているのか、
実際に見てみたいという皆さんがおられる。
家がどのように建っているのか、
見て、入居する皆さんと話してみたいという方もおられる。
もとより私自身は、
これらの儀式や落成式に自らあずからなければならない義務がある。
こうして今年も……

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ギーター

神々と聖者たち、そして会員の皆さんと過ごした
限りなく密度の濃い期間が、   
今年もまた終わっていった。
心ときめくときであったが、
しかし同時に、心身ともに疲れ果てた。
数日は、事務仕事などしながらぼんやり過ごそうと思っていたのに、
なぜか現在解説中の【バガヴァッド・ギーター】第3章の文言が、
否応なく目に入ってきた。
『知識ある人も、自らの本性に沿って行動する
 万物はその本性に従う
 抑圧が、何になろうか……』(3・33)
「(先月取り上げたこの部分の)解説を聞いて人生観が変わった」と言われた方が、
何人かいた。
実際、人も、その他の生き物も、そして万物も、
いずれにしてもその本性にしたがって生きる。
良くも悪しくも、そうする他はない。結局のところ、
人は自分の意識レベルに応じた想念しか抱かず、
それに応じたことしか言えず、
それに応じたことしかできない。
それは、どうすることもできない事実だ。
しかし同時に、
われわれは意識の深いレベルに入っていって、
これを進化させ、そのレベルから思い、語り、行なうということもできる。
しかしでは……、

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時間

その昔、アメリカの大学で、
新入生のとる講義にためしに出てみたところ、
最初に行なわれたのは「時間管理」という内容だった。
すなわち、これから学生になる諸君は、
自らの時間管理を合理的、かつ効率的に行なえるかどうかが、
4年間の成功・失敗を左右する、というのである。
そこで学生たちは、各々が理想とする週間の時間割りの提出を求められ、
教授からアドバイスをもらう。
私も試しに、学生のような顔をして提出してみたところ、
教授はこれに、いたくおかんむりだった。
私の提出した理想の時間割りにおいては、
毎日、日の出と日の入り前後の時間帯に、それぞれ2時間ほど、
瞑想や呼吸法、祈りなどの念入りな勤行が入っていたのだ。
教授が、
こんなことで一体どうやって学生生活を送っていくのかね、と真顔で言ったので、
もし私が日々、このとおりの時間を送れていたら、
いま頃はもう少し違った人生を歩めていたはずだと言ったところで身分が発覚、
大笑いになった思い出がある。
さて、学生時代も、その頃も、今も変わらないこと。それは……

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火山2

先日、ある方から突然「先生、またイタリアに行かれるのですね」と言われた。
フィリピンに行くことは、折に触れ言っていたのだが、
これが一人、二人を経て「イタリア」に変貌、
私のところまで戻ってきたことに驚くと同時に、興味深かった。
恐るべし、伝言ゲーム……。
「先生のエッセイを拝見して、フィリピンに行かれることを
 知りましたが、いつ頃、行かれるのでしょうか?」
無事、帰国できるようにお祈りしてくださるという、
まことに有り難いメールであった。
明日、早朝出発します。
とりあえず、明日朝、5時台の電車に乗れるよう、
お祈りしていただかなければなりません。
初日にして、この旅、最大の難関です。
このように返信したが、そう、残念ながら……

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火山

「ブログのコメント、さっぱりんこ分かりません」というメールをある方からいただき、
見てみれば量子力学論争が花盛りだ。
相変わらずSHOさんは鋭い論説。
しかしもし、SHOさんが月並みな意味の“幸せな人生”を送っておられたなら、
ここまで思索を深められたかどうか……(失礼< (_ _)>!)
マサコサマのコメントは短いが、ご指摘のとおり、多世界解釈とは、
「観測した時点で2つ(どころか無数)の世界が別々の道に別れ、進んでいく」
というものではない。
しかし、マサコサマ自身もそうであったと言われるように、
「多世界解釈」と聞いた多くの人はそういう印象を避けがたくもっている。
それはまた、私が<Art1>のときに必ずお話しし、
多くの方が(驚愕、感動した……)と言われる、
永久インフレーションの理論ともまったく別ものなので、
話をこんがらがらせないように。
それにしても、バガヴァッド・ギーター3からこうした内容に話が飛ぶのは、
まさに“クオンタム(量子的)”としか言いようがない。
ところで、最近、まったく時間がないにもかかわらず何度も浅草や鎌倉、
京都や奈良にまで行くこととなった。
そういうふうにしているから時間がないのかもしれないが、
そんなとき、最初に祈る内容はこのところ決まっていて、
まず体調を崩した友人のことと、
お目にかかったことはないが、イスカーナさんのお母さまのご冥福、
そして、マザー・テレサの修道院に入った友人のことだ。
入会して9年が経つ彼女は、この度、
キリストと貧しい人びとに尽くすための終生誓願を立てることを許された。
その儀式に参列するためにフィリピンに行くが、
初日はマニラまでしか行けない。
翌日、目的地に向かい、
三日目に誓願式、
そして四日目、なんとか飛行機を乗り継いで帰国する。
今回は……

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バガヴァッド・ギーター3 

過日のセミナーとお食事には、
多くの皆さんにご協力いただいた。
当初、用意するはずだったお食事は37食、
しかし前日に出てきた葉には、
『明日の儀式に捧げる食事を、9食増やすように……』
との指示が。
そのとおりにし、
46(+コックさんがつけてくれる1食)=47食で当日を迎えたが、
教室は満杯で52名。
ブログを読んでおられない方も、
セミナー終了時に先にお帰りになる方もおられるので、
どうなるのかと思っていたら、ちょうど46食が出ていった。
こうして、たくさんの大人が、
暮れなずむ都内の公園で一緒にお弁当を食べるという光景となった。
ところで、+1食分は、
通常は、誤ってお食事をひっくり返したりしたなどのときのための備えの分だ。
しかしこの日、実は参加者のなかに、お供えをされた方のご親族がおられた。
その方にも、有り難いことに召し上がっていただくことができたが、
その分は46にカウントされない。
そこで参加者を見渡してみれば、お母さまも大変敬虔、という方がすぐにおられたので、
大変だけれども持ち帰っていただき、
この日のうちに召し上がっていただくことができた。
さらにその後、このお食事の後で不思議な体験をしたというメールを、
思いがけず何通かいただくこととなった。
すべて偶然……と考えることも可能かもしれないが……

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バガヴァッド・ギーター2

やっと時間ができて予習をしてみれば、
今日の詩節のなんと深いこと……
まことに感嘆する他はない。
これを、このような限られた時間で準備しなければならないことの、
なんともったいなく、切ないこと……。
しかし皆さんには、必ず満足して帰っていただけるような、
そんな解説をするつもりだ。
ところで、本日お渡しする御供物の食事は……

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