腕輪5

サイババの腕輪が見あたらないことに気づいたのは、この時期だった。
が、忙しい上に、
腕輪は最終的になくならないという経験則に立った“甘え”の気持ちもあって、
本格的に探すことなく、とりあえず私は仕事を続けた。
そうして約一カ月が過ぎた頃、
あるときふと、私の背中を冷たいものが走った。
あの腕輪は、本当になくなったのではないかという気が、突然したのである。
そうして本格的に腕輪を探し始めた私が、
事態の深刻さを理解するのに多くの時間はかからなかった。
自宅、会社だけではなく、
図書館、スポーツクラブ、講演会場、ホテル……等々、
過去1、2カ月の間に訪れ、
腕輪をはずしそうな可能性のあるあらゆる場所を探すこととなった。
それらの場所のいくつかは、
お金を払うときにはあんなに愛想がよいのに、
忘れたかもしれないものを探してもらう段になると、
随分と不機嫌になるところもあった。
そういうものかもしれないが、仕方がない。
こちらが悪いのである。
スポーツクラブには、腕輪の忘れ物が二つもあるというので、
(よかった……)とほっと胸をなで下ろした。
受け付けに行き、係の人がビロード地のお盆に腕輪を載せてくるまでの間、
私の心臓は高鳴っていた。
そうして、ついに探し求めてきたそれが目の前に現れたとき……

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腕輪4

あっという間に今年も師走となり、
特に年後半、ブログの更新もなかなかままならなかった。
過去数カ月の予定は過密で、
8月から9月にかけ、インド、アフリカ、ヨーロッパを廻ったが、
帰国してからはその残務処理と同時に、<プレマ・セミナー>、<木曜くらぶ>、
各ステージの瞑想講座が次々訪れた。
その上、この時期に開く予定のなかった【生命の科学アーユルヴェーダ I】が、
特殊な要因によって入り込み、
結果、玉突きのように仕事がずれ込んでいったので、
結局、今年の日本アーユルヴェーダ学会は、
広島で開催されるというのに欠席せざるを得なくなった。
これらははっきり言って、スケジュリング上のミスである。
しかしその一方で、<Art5>は、
何年も皆さんをお待たせした末に開催された。
受講された方の一人は、瞑想の技術と、その基盤を成すヴェーダ理論を聞きながら……

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腕輪3

サイババがさまざまな物品を物質化するのは、奇跡現象には違いなかろうが、
しかしその後、それ以上の奇跡が続いた。
私が、その腕輪を失くさずに持ち続けたのだ。
まったく余談であるが、例にもれず、我が家においてもさまざまなものがなくなる。
ある日、二台あったはずの電話の子機が一台見当たらなくなった。
あんな大きなものがなくなるはずはない、
いずれ出てくるはずだとたかをくくっていたのだが、
とうとう、それが出てくることはなかった。
いったい、どこでどうなってしまったのか……。
が、とにかく、子機が一台しかない状態で、
すでに一年が経つのである。
パスポートも、マンション内でなくなり、
とうとう出てこなかった。
それは、今年4月のイタリア巡礼旅行の直前であったので、
急遽、パスポートを取り直すしか方法はなかった。
そんな私が、この腕輪を「失くした!」と思った局面も、さまざまにあった。
が、これだけは、その度ごとに出てきたのである。
しかしそんな私にも……

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腕輪2

モノを物質化してほしい、奇跡を体験したい、
そんなことを思っている間は、それはないだろうと頭では分かっていても、
実際にそうした執着が薄れてくるのに二年ほどもかかった。
初めてサイババに腕輪を物質化して与えられたのは、その頃である。
サイババに呼ばれてインタビュールームに入っていた私は、
そのとき、健康について祈っていた。
サイババは私を呼び、何が欲しいのかと問うた。
そのときまで健康について考えていたのに、
私はとっさに
「真理(サティア、サイババのことでもある)が……欲しいのです」などと言った。
するとサイババの手が、あの独特の動きを始め、
次の瞬間、金色に光る物品が目の前に現れた。
いわゆる「バングル」と呼ばれるかたちの腕輪で、
時計をする側の手につけるのだと思った私は、左手を差し出したが、
サイババは「右手だ」と言った。
サイババがこのような腕輪を物質化するときは、
その人の健康のためだと後に聞き、不思議な感興を抱いたが、
しかしとにかく、それはほんのわずかの時間の間に起き、
今でも夢だったような感覚すら残る、そんな出来事だった。
ところで……

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腕輪

奇跡の聖者サイババに会いたい。
会って直接話してみたい。
そしてできれば、御手ずから何かを物質化していただきたい。
それを自分とサイババとの絆にしたい……。
サイババを知った多くの人に、
そんな気持ちが起きてくる。
「私はサイババ様の教えや奉仕活動に関心があるので、
 モノには一切、興味がありません」
そんなふうに公言し、
なんと潔い人なのだと私も信じ込んでいたある方のご主人と話したとき、
「彼女はいつも、ババ様があんなものを物質化してくれたら、
 こんなものを物質化してくれたらって、大変なんだよ」
と、明かしてくれた。
それは肉体を持ち、物質世界に住む私たちには、
ある程度仕方のないことであるに違いない。
そんなことを思いながら、1990年11月、私は初めてインドに旅立った。
今から20年も前のことになる。
3カ月も一人でインドに行くという私の身を案じた友人は、
浅草寺にお参りして旅の無事をお祈りしようと提案してくれた。
東京に住んで十数年、浅草には一、二回しか行ったことがなかったが、
誘われるまま、私は浅草に行き、
かつて漁師にすなどられたという聖観音に祈りを捧げた。
そのお陰か、初めてインドに行った旅の間に、
私はサイババに直接会い、話す機会を得たが、
そのときは何も渡されることはなかった。
後に、瞑想を教えた皆さんの【アガスティアの葉】を読むようになってから……

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ギーター

『ここにあるものはどこにもあり、
 ここにないものはどこにもない』
これが、世界最古にして最大の聖典の一つ『マハーバーラタ』のモットーである。
それは、インド帝王家が互いに争い、世界を二分する戦いに臨むという、
きわめて特殊な状況でいながら、
しかしその実、ここに書かれたことはいつでもある。
太古の時代から現在、そして未来に至るいつでもあり、
ここにも、そこにも、どこにもある、ということだ。
それは時間や空間を超えて、
われわれの心の奥底の、もっとも精妙なレベルにまである。
『バガヴァッド・ギーター』第二章は、
そのようなギーターのハートと呼ばれる。
そしてそのうち、第40節前後の2、30節が、
ハートのなかのハートの部分だ。
現在、『バガヴァッド・ギーター』第4章に進んでいく前に、
第一章から復習をしているが……

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暴風神

暴風神
ルッドラは、インド最大の聖典リグ・ヴェーダに、暴風神として登場する。
黄金に輝く強靱な身体を持ち、手には神弓とヴァジュラ(金剛杵)を持つ。
千の眼を持つ宇宙の主宰者、人間の世界と神々の支配者、
比類なき強力な破壊の力を持つとされる。
その手にする武器と怒りに対し、人びとがいかに恐れおののいたかが、
プラーナを始めとする多くの聖典に書き残されているが、
しかしその一方では、学問と医薬の力により人類に恩寵を与える、
英知と慈愛の神でもある。
そしてこのルッドラこそ、
後に「シヴァ」と呼ばれる至高神そのものである。
12月の旅では、この至高神ルッドラにホーマ(火の儀式)を捧げることとなる。
その際の供物は、大量のギー(精製バター)、果物等の食物に加え、
108種類の薬草、9つの惑星の神々がお悦びになる宝石、
女神らのお好みになるシルクのサリー、
金、銀、その他の金属・鉱物等々であるが、
通常の大きなホーマの約10倍ほどの量となる。
これはもともと、ある敬虔な方がお捧げになる予定であった儀式に、
さらに規模を加えさせていただき、初めて可能となった。
それは個人や家系のレベルを超え……

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結婚

聖書のなかでイエスは、性と結婚について語った有名な箇所は、
いずれも『山上の垂訓』のなかに見られる。
そのうちの一つは、次の文言である。
『みだらな思いで他人の妻を見る者は、
 すでに心の中でその女を犯したのである。
 もし、右の目があなたをつまづかせるなら、
 えぐり出して捨ててしまいなさい。
 体の一部がなくなっても、
 全身が地獄に投げ込まれないほうがましである』
       (マタイ 5章28-29)
そしてもう一つは、
『不法な結婚でもないのに、妻を離縁する者は誰でも、
 その女に姦通の罪を犯させることになる。
 離縁された女を妻にする者も、
 姦通の罪を犯すことになる』(同 32)
前者の文言について、
男性雑誌のインタビューを受けたカーター大統領候補(当時)は、
正直、かつ不用意な発言で支持率を落とした。
また、後者については、
かつてイギリス王がこの文言に反したとして破門され、
イギリス自体がカトリック教会から離反するという歴史的事件に発展した。
だが果して、これらのイエスの言葉は、普遍的真理なのだろうか。
本当に、イエスはそう言われたのか。
これについて考察するためには、
実はまず、「結婚」という概念について知る必要がある。
いかなる聖典の文言も、聖者の言葉も、
常にその民族の歴史や伝統、風土や文化のなかで語られるからである。
たとえば、日本に一夫一婦制が確立されたのは、
明かに、キリスト教徒西欧諸国の影響による。
では、ユダヤ教時代に始まり、キリスト教における「結婚」の概念は……

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奇跡9

南インドを代表するバジャン歌手ヴェーラマニ・ダサンは、
聖者アガスティアに対しても敬虔な帰依心を持つことで知られている。
彼が自分のダルマを知ったのは、
聖者がヤシの葉に残された言葉がきっかけだったという話がある。
今年の年末、12月15日、彼とその弟子たちは、
同じく聖者アガスティアを知り、
これを慕ってインドにやってくる日本人たちの前で歌うことが決まっている。
現地で準備に当たってくれているインド人の一人は、
この機会を、決して逃してはいけないと私に警告した。
この日、壮大なイェーハ・ダシャ・ルドラ・ヤーハムを完結した後……

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奇跡8

先日、日比谷野外音楽堂で行なわれたベンダ・ビリリ東京公演に行った。
時間のやりくりが難しいと主張する私に対し、
アフリカに関わる者として観ておかなければという、
友人の説得が奏功した。
そしてそれは、大きな成功だった。
会場は総立ちとなり、
私のとなりの、80歳になろうかという老婆もまた、
最後は立ち上がって、
キンシャサの汚れた路地裏から出てきた男たちの音楽に合わせて踊る他なかった。
まさに現代の“奇跡”だ。
同じような奇跡が、われわれが知らないさまざまな場所である。
ヴェーラマニ・ダサンは、南インドの、とある家系に生まれた。
当初、ポップスや軽音楽も手がけ、
映画音楽にも携わった彼が最終的に進んでいったのは……

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