師(グル)の日

かつてサイババはこう語った。
『人生で、最初に出あう師は母である。
 次にひとは、父に会う。
 そうしてひとは、師に出あう』
師は弟子を導くが、どこを導くのかと問われ、サイババは答えた。
物質世界という名の迷宮を導くのだと。
ひとにはもちろん、さまざまなレベルの師がいるが、
究極の師は、ひとを精神性に導く師であろう。
私には中学一年のとき、そうした人が現れた。
彼は私に、最初にヨーガや瞑想を教えた人だったが、その関係性はそう長く続かなかった。
カトリックの修道士でもあった彼は、修院長の命により、
生徒に個人的にヨーガを教えることを諦めざるを得なかったのである。
最後に、私のために祈ると言ってくれた彼は、本当に祈ってくれたに違いない。
後にサイババに出あったとき、そのことをサイババが教えてくれた。
そして、それらの出来事を記した拙著『理性のゆらぎ』が世に出るひと月ほど前に、
彼は修道院のなかで、ひっそりと息をひきとっていたのだった。
サティア・サイババが今年逝去されたことは、
多くの人にとって驚きであったに違いない。
サイババが亡くなる前、聖者カードゥヴェリは、その予言のなかで、
サイババの魂がすでに世界のさまざまな場所を訪れ、祝福を与えていることや、
非常に近い将来、肉体の衣を脱ぐことを述べていたが、
同時に、次のようにも記していた。
『(そのような未来がわたしには見えるが)
 シヴァ神の御心はわたしの理解を超えているので……』
シヴァ神の御心は、未来を見通す聖者の理解すらも超えているとしても……

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生き方 2

【バガヴァッド・ギーター】は、悩み苦しむアルジュナに対する、
クリシュナ神の答えの集成であるが、
そのうち、実践の章ともいえる第3章には、こう書かれている。
『知識ある者も、自分の本性に従って行動する。
 万物は、その本性に従う』(3・33前半)
アーユルヴェーダの主張と同様、
多少の教育を受けたとしても、知識があったとしても、
人はそれぞれ自分の本性に従って行動するのだと、クリシュナ神は語る。
しかし人が、その本性を一生の間に変えることができないとすれば、
いったい救いはどこにあるのだろうか。
正しい行為を行なうため、自らを常に抑圧しなければならないのか。
そのとおりとばかりに、われわれは常に教育・訓練されてきた。
日本においては、勤勉な国民性と相まって、そうした教育が比較的行き届いているので、
わが国は戦後、飛躍的な経済成長を遂げることができたし、
社会生活全般は円滑に進み、安定しているように見える。
ところが、驚くべきことに、
同じ詩節のなかで、クリシュナ神はそれと反対のことを言っている。
『抑圧が、何になろうか』(3・33後半)
自らに抑圧を強いることは不自然なのだと、クリシュナ神は語る。
そこから緊張や不安、苦痛が生じ、それらはふたたび、不自然な行為へと変換されていく。
緊張や苦痛を伴うことなく、われわれが相対世界で行動していく指針。
それが【バガヴァッド・ギーター】全体を通してクリシュナ神が教えることの精髄である。
7月17日(日)は、以上のような【バガヴァッド・ギーター】第3章の総括となるが、
メールマガジンでもお知らせしたように……

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生き方1

太古のインド医学・アーユルヴェーダが教える根本的な事実の一つに、
『人は、一つの人生で生まれもった最も基本的な体質・気質を変えることは、
 その人生の間にはできない』というものがある。        
人の体質や性格というものは、なかなか変われるものではないにしても、
多少なりとも移り変わっていくようにも見える。
しかしそれは、表層の部分が変わっているのであって、
最も基本的なところは変われるものではないというのである。
それでは、われわれは生まれついたものを変えられずに、
短所は短所として一生苦しんで行かねばならないのか。
そうではないとも、アーユルヴェーダは語る。
短所と見えるものは、用い方によって長所となるし、
長所と見えるものも場合によって短所となる。
そのような表現の仕方、生き方の工夫は誰にもできるというのである。
それにしても、人間性の根幹にもかかわるそうした変化は……

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摂理

すべての聖書を通じてのクライマックスはどこか?
そう問われれば、誰でも、新約聖書のうちの福音書、
すなわち、イエスの言行録を採り上げるに違いない。
福音書を書いたいわゆる福音史家は4人いるが、
(本当はもっとたくさんいたはずであるが、
 後に正統であると認定された人が4人だけいて)
それぞれの福音書に特徴がある。
なかでも、深い霊感に打たれ、
イエスの内面をもっとも深くえぐりだしたのはヨハネであったので、
最初に【ヨハネによる福音書】を解説の題材に選んだ。
実際、当初セミナーでは、【ヨハネ】の冒頭の数行まで解説するのに、
数回を費やした記憶がある。
また、【ヨハネによる福音書】の『最後の晩餐』の部分は、
すべての聖書全体を通じたクライマックスであると言って過言ではない。
しかしそれと並んで私たちの心に訴えかけてくる部分といえば、
やはりマタイの【山上の垂訓】である。
なかでももっとも美しいとされるのは、
第6章25節に始まる、いわゆる『摂理への信頼』と呼ばれる部分だ。
『だからわたしは言う。
 命のために、何を食べようか、何を飲もうか、
 また、体のために何を着ようかと心配するな……
 野の百合が、どうして育つかを見よ。
 苦労もせず、紡ぎもせぬ。
 わたしは言う。
 ソロモンの栄華の極みにおいてさえ、
 この百合の一つほどの装いもなかった。
 今日は野にあり、明日はかまどに投げ入れられる草をさえ、
 神はこのように装わせられる。
 ましてあなた方によくしてくださらぬわけがあろうか……』
これを初めて読んだ中学時代……

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祭祀の後

ブログがなかなか更新できず、待っておられる方には申し訳なく思っている。
最後に書いてから、今日でちょうど一カ月、
しかし感覚的には、3カ月くらい経ったような気分だ。
それほど、たくさんのことが次々と、起きては去っていった。
たとえばこの間、私は二度、伊勢神宮に行くこととなった。
一度目は雨、そして二度目も雨だった。
かつて、『大いなる生命と心のたび』で皆さんとご一緒したときを勘定に入れると、
通算三度、すべて雨。
我が身の不徳を責めていたところ、
伊勢の参拝時に雨なのは、神さまがお慶びの徴だという説を複数の方から聞いた。
本殿前でお祈りしていると、
あの白い布が上方に吹き上がることもよくあり、
それがその徴だという説もある。
それはそうなのかもしれないが、いずれにしても、
一度、晴れ渡った伊勢神宮を参拝したいという気持ちは拭いがたい。
ところで、神社で正式に祝詞を挙げていただくと、
最後に神札(おふだ)と一緒に神饌(しんせん)をいだたくのが普通だ。
神饌は、お祈りに際して神にお供えしたのち、神前より頒(わか)たれたもので、
神事のあと、これを皆でいただくことを「直会(なおらい)」と呼ぶらしい。
神代の時代から、日本で、大切な行事として受け継がれてきたものだ。
しかし、それと同じことは、聖典のなかで、クリシュナ神によっても述べられている。
『祭祀の残り物を食べる善人は
 あらゆる罪科から解放される』(【バガヴァッド・ギーター】3・13)
まさに「直会」のことである。
ここにいう祭祀とは、実は宗教的な儀式に留まらず、
個別生命のあらゆるレベルにおける「祈り」であったり、「儀式」であったり、
「奉仕」であったり、「瞑想」であったりもする。
その詳しい解説は明日行なうとして、しかし、
字義どおりの「祭祀の残り物」とは……

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訃報3

以上のようなことをお話ししたものかどうか、非常に迷いはしたものの、
4月24日の<瞑想くらぶ>のなかでは、さらに詳細をお話しすることとなった。
亡くなると聖者がおっしゃっているとはいえ、
しかし、それをわれわれの祈りで引き止められないものかという気持ちもあった。
が、その直後に、訃報がもたらされた。
なお、予言には、
これ以上の破局が訪れる可能性が示唆されている。
しかしそれは、精神性を重んずる人びとの祈りや瞑想、
慈善行為や、神々に儀式を捧げることなどにより軽減されると記されている。
そしてもともと、
祖先への感謝や、動物や植物、自然界全体への慈しみの気持ちを含め、
そうした心根が民族から希薄になりつつあることが、
今回の震災のもっとも根源的な理由であることもまた、
はっきりと記されていた。
今、東北で苦しんでいる皆さんは、ある意味で、
私たち全体に代わり苦しんでくださっているともいえる。
そのようなことが理解されるのは、社会の、ごく少数の人びとだけかもしれない。
しかし、その人たちこそが……

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訃報2

わが国の苦しみとちょうど時を同じくしたかのように、
サティア・サイババの肉体も傷んでいた。
サイババが亡くなることを私が知ったのは、4月23日(土曜日)、
逝去の前日である。
どのようにしてそれを知ることになったか、その理由をここに記すことはできないが、
聖者カードゥヴェリの予言のなかにも、
サイババの魂がすでに世界を巡って多くの人に祝福を与えていること、
非常に近い将来(原語は『もうすぐにでも』)、肉体の衣を脱ぐこと等が記されていた。
とりわけ興味深かったのは……

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訃報1

聖者カードゥヴェリの予言が最初に出てきたのは、
2010年秋のことである。
近々、主に仕事について書かれた聖者の予言が出てくることが予言されてから、
半年近くが経った頃だ。
この聖者の名前を、私は聞いたことがなかった。
実際、著名な18人シッダのなかに、
この名前は見当たらない。
珍しいことは他にもあった。
第1章に続き、通常は第13章、14章が出てくるものであるが、
しかしこのときに見た記述は、
『これらの章は、おまえの国が苦しむとき、読むことになる』
というものだった。
歴史を見れば、日本は常に苦しんできた。
一見華やかに見える政権交代があることも、
しかしそれに続く苦々しい体験を国民が経験しなければならないことも、
予言のなかに予め記されていたが、
それ以上にわが国が苦しむことになるとは……

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献花

高橋佐予子さんと直実さんのことをブログに書いてから、
瞑想講座の同期の方が何人も思い出を共有していたことが分かり、嬉しかった。
中には、当時身重であった佐予子さんのことを覚えている人もいたが、
そのときお腹にいたのが、生きていれば3歳だった寛名ちゃんだった。
また、一人残された7歳の和芳ちゃんをお世話したい、
自分がひきとってもよいという方が何人も会員のなかから現れ、私を驚かせた。
その和芳ちゃんは、すでに母方の祖父母、
つまり佐予子さんのご両親のもとに引き取られ、
昨日から地元の小学校に通い始めている。
この災害がなければ、東北地方に住んでいたはずの彼女は、
今は山陰の小学校の二年生だ。
何人ものインドの知人が、
とりあえず日本を離れてインドに来いと言う。
イタリアの友人は、自宅に部屋を用意したと言ってくれ、
気兼ねするようなら近くにホテルや貸別荘も借りられると写真を送ってくれた。
アメリカの友人も、アフリカ人の知人ですら、同じことを言う。
そのすべてに、丁重にお断りのメールをいれている。
そんななか、8日夕刻、大変残念なことだが、
佐予子さんと寛名ちゃんの死亡が確認された。
DNA鑑定の結果だったという。
山陰のほうには、近い将来、必ず和芳ちゃんに会いに行くことにして、
日付が変わって今日、皆さまから託された物資やお金をもって、
私は東北に向う。
これから数時間後に東京を発ち、9日の昼過ぎ、12時半から1時頃、
佐予子さんと寛名ちゃんの傍らで花を捧げていると思うので、
皆さまもご一緒にお祈りいただければ有り難い。
それにしても……

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神の肉体

先月の29日、宮城県の生徒さんの探索の壁に直面し、焦りを深めていた頃、
一方ではインドから、やはり何度も苦しい連絡をいただいていた。
サイババにきわめて近い方その方からの情報によれば、
過去2ヶ月ほど、サイババは心拍が弱くなっており、
メールをいただいた前日、心臓にペースメーカーを埋め込む手術をされた。
また、肺に溜まっていた水を取り除く手術もされたという。
非公式の話だったので、私はそれを胸のうちにとどめ、
日常の仕事に当たっていたが、
後に公式発表が入ってきた。
『昨年11月に85歳の誕生日を祝われた
 バガヴァン・シュリ・サティア・サイ・ババ様は、
 3月28日の午後、入院されました。
 心拍が遅れ、めまいを伴っておられました。
 そのため、恒久的ペースメーカーが入れられました。
 現在、ババ様の臨床的パラメーターはすべて申し分なく、
 状態は安定しています』
 サティヤ・サイ高度専門病院院長 A・N・Saphaya
しかしその後入ってくるニュースには、肯定的なものと否定的なものの両方があって、
なかには、サイババの体はもはや生命反応を有していない、
すでに手術中に亡くなられたというものすらある。
このようなことを見聞きするとき、なんとか速やかに回復してほしい、
いくら人は肉体ではないとはいえ、
肉体だけでも苦しまないでほしい……と、われわれは強く願う。
東北地方で苦しむ人びとの苦しみが早く終息してほしい、
行方不明の方が一人でも多く見つかってほしい、と願うのと同じだ。
しかし世の中には、一切、
この世の推移については願う必要がないという考え方もある。
そうしたことはすべて神の意志であり、自然の摂理なのだからと、彼らは言う。
私自身は、そうした潔い心の状態を常々尊敬し、
自分もそのような心境になりたいと、心から思うのである。
しかし果して、宗教的・哲学的には、どちらの態度が正しいのか。
われわれはどのように祈るべきなのか……。
聖書のなかには、イエスが自ら「祈り」を教えたという場面が、二か所だけある。
神人イエス自らが教えたその祈りは、『主の祈り』または『主祷文』と呼ばれるが、
実にイエスは……

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