サティア・サイババの想い出

まだ小学校に上がる前の頃だったと思う。
昭和天皇がお元気であられた頃、
あの天皇が亡くなるなどということが、起こるはずがないと私は思っていた。
何かの折りに、そのことを口にしたところ、
天皇陛下も人間なのでいつかは亡くなるのだと、父にたしなめられた。
なぜ、天皇陛下が亡くなるはずがないと思っていたのかは、思いだせない。
あんな、神さまのような方が、と思ったのかもしれない。
それと同じではないだろうが、私には、
サイババが肉体の衣を脱ぐときが来るということが、到底想像できなかった。
サイババ自身、自分が亡くなるときを予言しておられたにも係わらずである。
かつてサイババに何度もお目にかかり、その驚くような教えを直に聞き、
目の前で数々の奇跡現象を見などしていると、
あのような神人が亡くなるときが来るとは思えなかった。
が、今年、それは現実のこととなった。
今月の3日(祝)、半年に一度ほどの割りで行なっている四谷の講演で話そうと思い、
かつて読んだ本などを繙いていると、
そういえばあんなこともあった、こんなこともあったと、
次々想い出が湧いてくる。
きわめて個人的な想い出であるため、今まで本のなかでもどこでも……

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奇跡の治癒

長い人生の間に、ほとんどすべての人が病気をする。
ときにそれは重篤で、命にかかわることもある。
なぜ病気などという厄介なものがこの世界にあるのだろうと私も思うし、苦しみもする。
しかし今、ある人が病気になったとしたら、その責任は誰にあるのだろうか。
私や、読者の皆さんほとんどの共通の認識として、
誰にも、どんな場合も、その人に相応しいことのみが起きてくる、という考え方がある。
唯物的な考え方をすれば、そんなことはもちろんありそうにない。
しかしこの世界の深い原理を理解すれば、当たり前のことともいえる。
太古のユダヤの人びとも、当然、そのことを理解していた。
すなわち、人が病気になったとしたら、厳しい言い方だが、
究極的にはその人に責任がある。
生まれつき病気の人はどうか。
その場合も残念ながら例外ではなく、
生まれる前に、それに符合する何かがあったことを意味している。
今、生命の進化を遅らせる原因や、
生命に苦しみを与える原因を仮に広い意味で“罪”と呼ぶのであれば、
人が病気になるのも“罪”の結果であることとなる。
仮に病気が“罪”の結果であるといっても、
その人に最大限の思いを寄せなくてもよいことにはもちろんならない。
また、この言い方は病気に苦しむ人に対して厳しいこともあるので、
実際にそうであったとしても、普通そのようには言わないし、
こうしたことの意味が理解できない人には、言うべきではない。
しかし、この意味で“罪”という言葉を広義に用いるのであれば、
嘘をついたり人を騙したりすることだけが“罪”ではないことになる。
理由もなしに毎晩夜更かしすることも“罪”であるし、
食べ過ぎ、飲み過ぎもそうである。
タバコを吸うなどというのはまさに“罪”だ。
タバコの場合は、自分の健康だけではなく、他人の快適さや健康まで奪ってしまうからだ。
いずれにしても人は、たとえ知っていようが、知らずにであろうか、
自然の法則を犯すことにより病気になる。
病気は自分の責任ではないとわれわれが思う主な理由は、
実際のところ、その原因のほとんどを、われわれが知らないことにある。
病気もまた、自然の法則を犯した結果である以上……

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化身

このところ、青山はまったくブログを更新していないと、
もちろん多くの方がお気づきに違いない。
その間、私は何をしていたかといえば、
ほぼ、自宅にこもって仕事をしていた。
少しずつ原稿を書きためていた『悟りの言葉(仮題)』もそうだが、
<Art of Meditation>の、特に<Art3>、<Art4>Stage1、そして、
新たに<Art4> Stage2と呼ぶことになった旧<Art5>の内容の改変も行なった。
おかげ様で、これらの講座は以前に比べてもはるかに充実した内容となった。
つい先日、<Art4>Stage1を再受講されたある方が、
内容に感動していただいたついでに、
「(一度受講したはずなのに)まったく覚えていなかった……」
と愕然とされていたが、いかな優秀な生徒さんでもそのはずだ。
理論面を、すっかり一新して充実させたのである。
【バガヴァッド・ギーター】のほうも、佳境に入っている。
神の化身・クリシュナが、自ら化身の“秘密”を語っているからだ。
『ダルマ(法)が衰え、アダルマ(不法)が栄えるとき、
バーラタよ、わたしは実に、
自分自身を創造する』 (4・7)
『善を守り、悪を滅ぼし、ダルマを確立するため、
わたしは、時代から時代へと化身する……』(4・8)
このブログの読者の皆さんなら、おなじみの聖句かもしれない。
サイババもしばしば、このようなことを口にした。
しかしこの言葉をよくよく吟味・考察してみると、
われわれはその意味を、本当には理解していないことが分かる。
実に、クリシュナやラーマ、サイババのような人だけでなく、
この宇宙自体が神の化身であることを、われわれは普段、忘れている。
この自然界全体が、意志や知性を持つ、神の顕れだ。
そのことを、クリシュナやサイババの言葉から、16日にあらためて解説したい。
ところで、第4章で、クリシュナ神は同時にこうも言っている。
『地上において行動の成就を望む者たちは、
神々に供物を捧げる
実に、人間界においては
行動(祭祀)から生ずる成功は速やかに訪れる』(4・12)
あの震災の日から今日に至るまで、われわれはただ一つのことを願って、
さまざまな自然法則を司る神々に供物を捧げ、祈りを捧げてきた。
クリシュナが真に神の化身であれば、
実に、人間界において……

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才能

震災以来、
被災された皆さまのことを思えば東京でノホホンとした生活をしていた私ですら忙しく、
ブログを更新することも、コメントにコメントすることも、
ほとんどできない日々が続きました。
SHOさんもお久しぶりです。
SHOさんのコメントにはしばしば生活者としての厳しい視点が盛り込まれていますが、
世間をあまり知らない私にはいつも勉強になります。
こうした会員の皆さんの才能がそれぞれに開花し、
それぞれのダルマ(使命)が完遂されること、
お教えする瞑想がこれをよりスムーズに、
よりダイナミックに実現する手助けとなることが、私の変わらぬ願いです。
私自身は、会員の皆さんのために浅草や鎌倉、ときには京都や四国、
伊勢神宮やその他の寺院、インドの山奥やアフリカの聖地で瞑想したり、
儀式を捧げたり、慈善を行なったりする役割があるようですが、
皆さんの才能や使命が一つひとつ実を結んでいく未来を思うと、
仮に自分が何もできなかったとしても、今回の人生、
大いに本望であると思うこともあります。
ちなみにSHOさんには、今朝、私にしか読めない裏コメントが……

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武人

イスカーナさんのお祖父様、さすが講道館柔道三段、
生粋の広島県人(?)ですね。
『明日のことを思い煩うなかれ
 明日は明日自らが思い煩わん』
まさに武道の精髄です。
『武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり』
『捨ててこそ、浮ぶ瀬もあれ』
も、これに似ています。
すなわち、私たち流の言葉でいえば「全託」ですね。
『人事を尽くして、天命を待つ』
そう考えると、毎日シャンプー・リンスを欠かさず、
少なくとも週一度は美容院に通ってトリートメントをし、
少々のフケに戦々恐々とするよりも、
そんなことには頓着しないで、むしろフケで頭皮表面を固めてしまえば、
あとはフケも出ようがないというこの考え方も、
明治の武士道精神なのでしょうか。
もちろん、武人ではなく、
ほとんど僧侶階級にほど近い会員の皆さまには、
ちょっとお勧めしにくいですが……。
でも、流石の武人のお祖父様も……

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イエスとその弟子

【マタイによる福音書】を読んでいると、
ほぼ冒頭の部分から山上の垂訓のような希有な教えのエッセンスが登場し、
溢れるような奇跡の記述がその後に続く。
イエスはまた、その風貌もさぞ美しかったであろうと推測される。
このような神人を現実に目の前にして、
当時の過酷な社会に生きる人びとの多くが、
その弟子になりたいと願ったとしても、不思議はない。
実際、聖書のなかにも、人がイエスについていきたいと願うシーンがいくつか見られる。
『先生、あなたがおいでになる所なら、
 どこへでも従ってまいります』
このようなことを口にする人に対し、
イエスは何と答えたか。
『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、
 人の子には枕するところもない……』
われわれがイエスの意識状態を理解することはもちろんできないのであるが、
神人といえども肉体をもって相対界に生きる以上、
疲れを感じもすれば、痛みも感じたに違いない。
しかしイエスには、肉体の疲れを感じても、
これをゆっくり癒す暇などなかったことが容易に想像できる。
そんなことが分かっていながら、そしてその通り言われながら、
人びとはなお、イエスの弟子となっていった。
そうして最後にどうしたかを知ることは、
相対世界というものを探求するわれわれにとっていささか興味深い。
最後には、多くの弟子が、
そしてもっとも近しかった弟子の一部も、
イエスを裏切ったのだった。
イエスが、自らを神の子と表現するのを聞いて、即、
『十字架につけろ!』と叫ぶ側に回った。
しかしわれわれには、
イエスを十字架につけたこの人びとを笑う嗤(わら)うことなどできはしない。
われわれも、相手に少し納得できない点や何かが見えれば、
にわかに手のひらを反し、罵倒し始めるのである。
たまたま目にしたり、人づてに聞いたりしたことの真相など分かるはずもなく、
さまざまな現象を理解することなど本当にはできないのに、
ものごとの表層だけ見て、われわれは判断を下す。
そうして、ひとたびは『あなたのおいでになる所なら、どこへでも……』と言い、
あるいは、『生涯の尊敬を捧げ』、
『他の誰があなたを愛するより、私はあなたを愛しています』と誓ったその相手を、
理由はどうあれ……

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奇跡の理由

新約聖書の最初の文書となる【マタイによる福音書】には、
冒頭に近いところで『山上の垂訓』と呼ばれる部分が登場する。
ほんのわずかな行間に、この世に生きる英知が集約された、
世界宗教史上の金字塔である。
山上の垂訓を終え、イエスが山を下りると、
そこに待っていたのは群衆であり、多くの病者であった。
イエスはすでに、病者の癒しを行なっていたので、
これを聞きつけた人びとが数多く訪れていたに違いない。
そのなかには、ユダヤ教徒だけではなく、
異邦人、異教徒もいた。
ここでローマ軍の百夫長が、イエスに語りかける。
「主よ、わたしの僕が中風で寝込み、ひどく苦しんでいるのです」
それに対してイエスは答えた。
「行って、癒してあげよう」
多くの病者を癒して人びとを驚かせた、
そしてもしかしたらあの山上の垂訓により、さらに人びとを驚嘆させたイエスが、
自ら来ると言ってくださっている。
通常であれば、少なくとも内心、狂喜乱舞となるに違いない。
現代ならさしずめ、友人知人を呼び、写真やビデオ撮影の準備でもするのだろうか。
しかし、百夫長は言った。
「主よ、わたしはあなたを、自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
ただ一言、おっしゃってください。
そうすれば、わたしの僕は癒されます」--
この後、何が起きたかは、想像に難くない。
イエスの一言で、実際に百夫長の僕の病は癒されたのである。
そんなことが本当にあったかどうかといえば、
私は本当にあっただろうと思う。
イエスにはもちろん、それほどの力があったであろう。
そしてこの百夫長は、この恩寵を受け取るに値する人物であったに違いない。
この話を始めて読んだのが、大木神父の聖書のクラスであったか、
あるいは教会のミサのときであったか……。
いずれにしても、この一人のローマ軍人の信仰に、われわれは驚く他はない。
そして実は、このときのイエスのふるまいが……

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カルパスワミ3

今回、日本のためのパリハーラムを捧げるに当たって、
わが国で最初に行なったプージャは、このカルパスワミに捧げるものだった。
現在、私たち日本人が精神性を忘れ、自然の法則をさまざまに犯そうとしているとき、
本来であればより大きな災厄に見舞われても仕方がないのかもしれない。
しかしなんとか、それを止めていただきたい、
または軽減していただきたいと、われわれは切に願う。
8月14日、わが国の祖先霊たちが地上に戻り、
束の間の時間を過ごしていただくそのときに、
被災地の復旧・復興と、より大きな災厄を軽減していただくため、
そして将来、私たちがそれぞれのダルマを果して地上の旅を終えるため、
いまだ悟りを啓いていないわれわれは、
相対界において強大な権限を持ち、
行使しておられるカルパスワミにふたたび願いを捧げる。
あるいは、神々に願いごとは一切しないという高貴な皆さんは、
ただ、讃美と感謝を捧げてほしい。
そうした、神々との交わりを忘れた社会は、要するに没落する社会であると、
【バガヴァッド・ギーター】のなかで繰り返し、クリシュナ神が語っている。
そして、最近読んだ聖者の予言には……

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カルパスワミ2

後に私は、大勢の帰依者を前にして、
聖者にカルパスワミが降臨するところを目撃することとなった。
普段完全な菜食で、酒・タバコももちろんやらない聖者は、
しかし神の降臨とともにすっかり別人格となり、
帰依者の持ってきた酒を飲み、タバコを吸い、肉を食した。
たとえば酒の量は、ときにはウイスキーで一晩5、6本にもなるという。
それはちょうど、タイで会った仙人を思い出させた。
もしかしたら、タイのタバコ仙人にも、同じ神が降臨していたのかもしれない。
なぜなら、こうしてカルパスワミが降臨した後、
聖者も仙人も、相手に対し、本人しか知らないこと、
本人ですら知らないことを、さまざま口にするからである。
そしてときには……

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カルパスワミ 1

インドで初めて「カルパスワミ」の名を聞いたとき、
私はてっきり、それは人間のスワミ、すなわち導師や聖者のことだと思っていた。
実際、カルパスワミと呼ばれる聖者は、私の目の前に現れた。
昨年の12月、私たち巡礼ツアーの一行が南インドで壮大なホーマを捧げ、
その後、インドを代表する高名なバジャン歌手ヴェーラマニ・ダサンが、
これを記念してバジャン(神の讃歌)を捧げてくれたときのことだ。
このとき現れた「カルパスワミ」は、自分の口にしたことが現実になるという、
きわめて稀な超常能力を持つ聖者だと紹介された。
「カルパスワミ」の臨席する会場で、
ヴェーラマニ・ダサンのバジャンを、われわれはすっかり堪能することになった。
それは想像を超えた迫力だった。
が、想像を超えることが、もう一つ起きようとしていた。
カルパスワミを讃える讃歌をダサンが歌い始めるや、
私のすぐ隣にいた聖者の身体が徐々に硬直していき、
法悦(トランス)状態に近づいてきたのである。
弟子の二人が素早く後ろにつき、万一、倒れ込んでも大丈夫なような態勢をとった。
身体の震えは大きくなっていき、
完全なトランス状態に移行するかと思われたそのとき……

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