縁 3

告別式の朝、東京は晴れ渡り、
しかし20年ぶりともいわれる寒波が日本列島を襲っていた。
深いご縁をいただいたYさんのご尊父とはいえ、
直接は言葉を交わしたこともあまりないその方のため、
私は粛々とご冥福を祈り、おいとまするはずであった。
が……何かが違っていた。
式の間、和尚様による念仏が心安らかに聞こえてくるなか、
襲ってきた抗い難い感覚。
理屈ではないが……あえて言葉にすれば、
この方の人生のおかげでYさんが生まれ、育たれ、
そのおかげで私は彼に出会うことができ、本が出版され、
結果として顔も見たことのないたくさんの人たちが食事や衣類を得たり、
普通のちゃんとした家に住むことができるようになったり、
病気を治療したり……ということが可能になったのだった。
この人がいなければ、私の人生はまったく違ったものになっていた。
そして、今、このブログをお読みになっている皆さんの人生も。
思い返せば、私はこれまでに一度だけ、
この方の心の奥底から出た言葉を聞いたような気がする。
Y家に外部から加えられた、ある理不尽な出来事について話し合う席に、
なぜか私が居合わせたことがあった。
そのとき、積年の、積もる思いがおありだったのだろう、
ご母堂様が一言だけ、相手方の不誠実をなじるような言葉を口にされた。
すると、それまで押し黙ったままであったご尊父様が、一言、妻に対して
「ぐちを言うな……」
と言われたのだった。
その言葉に、その場にいた者たち全員が従った。
こうしておそらく、
他人には与り知れないような忍耐と辛苦を重ね、人生を生きてこられたであろう。
亡くなるときも、多くを語ることなく逝かれたであろう。
そのようなことを、具体的に想い浮かべたわけではなかったのに……

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縁 2

実はここにもうひと方、不思議なご縁をいただいた方がいる。
西暦2000年、小説『最後の奇跡』を上梓して、
読者の皆さまからルルドに行きたいというご要望をいただき、聖地を訪ねることとした。
そこに一人、精悍なお顔をした青年が参加された。
この方が、鎌倉時代から続く名刹・如来寺(福島県)のご住職であると知ったのは、
ずっと後のことだ。
なにしろキリスト教世界でも最も有名な聖地の旅だったのだから、
お坊さまがおいでになっているなどとは最初から想像もしていない。
その上、彼はドイツ語の哲学書の翻訳などを出版されるような方でもあった。
それなのに気さくで、
私たちはその後、和尚さん、和尚さんと呼び、親交を深めることとなる。
この和尚さん、実はこのたびの震災で被災された。
会員の方に車を出していただき、東北を回った帰り、
皆さまからお預かりしたお見舞をもって福島のお寺もお訪ねしたのが、
Yさんと和尚さんの出会いであった。
もっとも和尚さんは、こうした見舞金をご自分のところではなく、
福島の仮設住宅を中心としたボランティアに使っていただいている。
Yさんと和尚さんとの間にどのような仏縁があったのかは知らない。
しかし、ご尊父の亡くなられたその日、私のもとに連絡をくれたYさんは……

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五反田はゆうぽうとのすぐ前で営まれている会社を訪れると、
その方はいつも奥の方に控えめに座り、静かにしておられた。
会釈することはあっても、言葉を交わすことはほとんどなかった。
それほど、物静かな方だった。
私と深いご縁があったのは、社長業を引き継がれたご子息のほうだ。
この方(Yさん)の名前は、私の本の巻末や、ブログにときどき登場する。
お祖父様のお名前は、谷崎潤一郎の本の巻末に出てくるということをお聞きし、
そのように本の巻末に名前が登場する家系があるのかと思ったものである。
Yさんは縁あって私の本を読んだ……わけではない。
彼は私の本を、いわば創り出したのである。
『理性のゆらぎ』が出る前、原稿を友人や知人に読んでもらっては蚩われ、
出版社という出版社に断られしていた頃、
これを出してくれる会社を探し、
その上たくさんのタイトルを考えてくれたのがYさんであった。
彼が考えてくれた100近いタイトルのなかから、
『理性のゆらぎ』は自然に湧き出てきた。
この本と、それに続く『アガスティアの葉』以来、
私の人生は激変したが……

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相対世界

昨日友人と話していると、彼が言った。
「いったいいつになったら、この輪廻の鎖から解き放たれるんでしょう……」
それに対するクリシュナ神の直接的で有名な答えが、【バガヴァッド・ギーター】第4章に書かれていて、
それがちょうど、29日に解説する部分だという話をした。
偶然だと思うが、何人かの方から、
「29日は<瞑想くらぶ>だけ参加します」
というメールをいただいた。
そこで、本来そういうことを言ってはいけないのだろうけどと思いながら……
 

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聖者vs大師

最終的な悟りを啓くことは、誰にとっても究極の目標であるに違いない。
それを意識しているごく少数の人と、意識していない大部分の人に別れるにしても、
そのことに変わりはない。
幼少時より、それを深く熱望していたパラマハンサ・ヨガナンダが、
初めて悟りの体験をしたときの(『至福意識の詩』と勝手に私が名付けた)詩は圧巻で、
過去の【聖書会】【祈りの会】で解説してきた。
次回(明日)の【祈りの会】でそれが完結するが、
なんと昨日になって……

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鬼才3

「当時、バレー部の女子は
 森田派と横田派(ヒロミかヒデキかというくらい)で
 盛り上がっていたものでした。
 私は猫田選手が好きだったなあ……」
という女性読者もいた。
こうして、「ミュンヘンへの道」は国民的熱気に包まれ、
男子バレーは金メダル確実と思われるようになっていった。
そして本当に、彼らは金メダルをとったのだった。
五輪後、もしとれなかったらどうしていたかと聞かれて、松平はこう答えた。
「そんなことがあれば、私は日本にはいられなかった……」
それは、大変なプレッシャーだったに違いない。
しかしそんなことは、実は松平には大したことではなかった。
それに先立つ64年、東京五輪で銅メダルを手にした直後、
彼は一人息子を事故で亡くしている。
小学5年生、まさに可愛い盛りであったろう。
「この世の中で一番辛いこと、一番怖いことはなんだと思う?
 それは自分の子供を亡くすことだよ。
 親にとって子どもを亡くすことほど怖いことはない。
 俺にはもう、これ以上なにも怖いものはないんだ」
あの遠藤先生追悼集会での経験からの推測にすぎないが……

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鬼才2

東大に入ると、体育の授業の最初で、体力測定がある。
それは通常の体育館ではない、
「トレーニング体育館」という変わった名前の体育館で行なわれる。
実はそこが、かつて松平康隆らがクイックや時間差攻撃、
一人時間差や移動攻撃などを開発した場所であることを、
体育の教官たちは誇らしげに語る。
当時、そのあまりの練習の激しさに、
選手たちのトレーニングウェアは血染めになったといわれる。
そうして小柄で、非力な日本人が、世界の強豪を撃破していくこととなる。
まさに、それは通常の才能ではない、非常識な何かのなせるわざだったのだろう。
ミュンヘン五輪に先立つ『ミュンヘンへの道』も、
実は松平氏がスポンサーを探し、テレビ局に売り込んだ企画だ。
アニメと実写の両方を駆使して選手を紹介、
若い女性たちのハートをつかむとともに、
五輪までの日数をカウントダウンして、国民的人気を博した。
当時、この番組に熱狂した視聴者の一人が……

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鬼才1

1996年……だったと思う。
遠藤周作先生の追悼集会に出席していたときのことだ。
私が特に先生の関係者だったわけではないが、
二度にわたる対談が本にもなり、
遠藤先生の秘書の方にもずいぶんお世話になったので、
そのような通知が機械的に来たのかもしれない。
とにかく、この集会で、佐藤愛子さんと話していたときのことだ。
話が「小説」論の佳境に向ったちょうどそのとき、
唐突に、われわれの間に割って入ってきた人がいた。
その人は割って入るや、笑顔をふりまき、大声で辺り構わず挨拶をし、
そうして去って行かれた。
まったくの突然で、あれほど失礼な行為もそうない。
しかし、本人には申し訳ないという気持ちなど微塵も感じられず、
私は前にも後にもなかった珍しい経験をした。
それが、松平康隆だった。
「常識を何倍にしても、たとえ100倍にしたとしても、
 その延長線上には、常識を少し膨らませたような結果しか待っていない。
 金メダルは、非常識の延長線上にしかないんだよ」
かつてこう豪語したという松平男子バレー元監督が亡くなったのは、昨年の大晦日。
マスコミはこぞって、日本(男子)バレー中興の祖と讃えた。
そうだろう。
氏が男子バレーの強化に携わってからというもの、
64年の東京五輪で銅メダル、68年のメキシコ五輪では銀メダルを奪取した。
そうして、私が中学二年のとき、
手に汗握るようにして観戦した72年ミュンヘン五輪の男子バレー決勝……

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新春講演会2

新春早々ですが、少しだけ打ち明け話をしましょう。
かつて、拙著『神々の科学』に登場するイタリア3人娘を連れて、
マハーバリプラムに行ったことがあります。
(この話はもちろん、本には出てきません……)
マハーバリプラムは、世界遺産にもなっている聖地で、
見事な太古の遺跡群で有名です。
皆さんの予言を読んでいると、
過去世でこの場所におられた方、
来世のどこかの時点でこの地にお生まれになる方など、
それぞれが過去世でさまざまなことをなさり、
来世でもまたいろいろな活躍の場となっていて、興味深い聖地です。
ここはまた、今日では一大観光地ともなっていて、
たくさんの西洋人が訪れます。
インドにいながらにしてすっかり西洋風の食事をし、
それから太古の遺跡を巡礼したのですが、
そのときもリサはいつもガイドブックを離さず、
それぞれの遺跡の意味をよくよく理解しながらでないと進んでいかないのが印象的でした。
また、ナディアは、現地の人から草を編む方法を習いたがり、
そうして自分で帽子や籠を編んだりしました。
このとき、地元の売店で見てどうしても買いたくなり、
求めたガネーシャ像があります。
ガネーシャ神がいまだ赤ん坊でおられること、
他のどのガネーシャ像とも違う、独特の子供らしい仕種をしておられることなど、
私の心を捉えて放しませんでした。
このガネーシャ像をどなたかのお宅にお運びいただこうと思い、
7日の会場にお連れしていました。
今、彼はどこにおられるのか……

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新春講演会1

大変遅ればせながら、この場を借りて、
7日の新春講演会においでいただいた皆さんに感謝いたします。
おかげさまをもちまして、無事講演は終了、
どうなることかと懸念していたゲーム大会は、
講演より盛り上がって終了いたしました。
ときどき役者さんが、舞台は観客と一緒に創るもの、と言われますが、
こうした会は、まさに皆さんとご一緒に創り出すものだと実感した一日でした。
ところで、講演の後のゲームを勝ち抜いた皆さんに渡ったささやかな贈物について、
時間の関係で、その素性を明かすことはほとんどできませんでした。
しかし彼らについては、いくつかの忘れられない想い出があります。
ガネーシャ神のヤントラ。
これについては少しだけ説明しましたが、
初めて私が聖サバリ山に登ったとき、その記念に買い求めたものです。
この山に登るとき、
裸足で、大きな荷物を頭に載せた人びとはインド中の村々を出発すると、
まずガネーシャ神の寺院で参拝することになります。
新たに物事を始めるときには常に、
智恵の神であるガネーシャに祈りを捧げることになるからです。
さて、南インドはピラヤパティというところにガネーシャ神の有名な寺院があり、
そこでまず私たちはお祈りをしました。
通常、インドの寺院は夕方の7時頃には閉まってしまうのですが、
そのような時間帯になってもなお、ここは多くの巡礼者でごった返していて、
なかなかガネーシャ像の前にたどり着くことができませんでした。
しかし、やっとたどり着いたガネーシャ神はあまりに壮大で、
それに感動した私は、なにか記念になるものをと思い、求めてきたのがこのヤントラです。
銅板にガネーシャ神が彫られていて、
神聖な図形と、マントラが刻まれています。
以来、ずっと私の祭壇に鎮座されていました。
今回、どんな方がこれをお持ちになるのだろうと実は内心、興味津々でしたが、
どうやら被災地の仙台からおいでになった方がお持ちになったようです。
帰り際に、どんな場所にお飾りしたらよいかと質問をしてくださいました。
そう言えば、かつて私がインドに行く度、
せっせと白檀の神像を持ち帰っては周りの皆さんにお配りしていた頃、
ちょっとしたガネーシャ像をある女優さんに差し上げたことがあります。
その方は、名前を挙げれば誰でも知っているような有名な方ですが、
ここでは敢えて伏せましょう、次に会ったとき、こう言われました。
「あの象の置物、ありがとうございました。
 うちのトイレに飾っています」
「!!……」
このヤントラをお持ちいただいた方には、
どこに置かれても結構ですよと申し上げましたが、
やはりトイレとかは……避けられたほうが無難でしょう。
いずれにしましても、新しい年にあたり、東北に行かれたあのガネーシャ神が……

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