仏たちの微笑む国 2

9月1日-2
どんな分野にも、天才、巨人、聖者等と呼ばれる人がいる。
彼らは、まるで最初から知っていたかのように一つの分野の知識を究め、
これを縦横無尽に活用する。さらにまた、
世の誰も知らない知識、方法、法則を見つけ出し、
これを人類の遺産として残すのである。
医聖ジーヴァカは、釈迦と同時代、古代インドのマガダ国・ラージャグリハに生まれた。
彼は、タキシラの医師ピンガラにつき、たった7年間医学を学び、帰還したといわれる。
だが、その評判はたちまち世評に広まり、
多くの王に招聘され、その病を癒すと同時に彼らを仏法に帰依させた。
また釈迦の風疹や、その弟子アヌルダの失明、アーナンダの瘡病などを次々治療し、
名医・医王等と称されるようになる。
仏教に深く帰依したとも伝えられるジーヴァカが特に推奨したものの一つに……

続きを読む

カテゴリー: 大いなる生命とこころの旅 | コメントする

仏たちの微笑む国 1

9月1日-1
キリスト教の聖地巡礼も、インド巡礼も、
どんなに準備しても一抹の不安を抱えて出発するものだ。
だが、今回は大丈夫。
空港では手放しの笑顔でお目にかかる予定でいる。
タイ航空は、シンガポール航空に並び、
礼儀正しく、心を尽くしてくれる航空会社として知られている。
客室乗務員は、タイの民族衣装に身を包み、合掌でわれわれを迎えてくれる。
バンコクまでのフライトは約6時間。
その間に一度、昼食が出るので、
タイ料理がいいと思われる方は、早速これを味わうことができる。
……が、機内では、和食を召し上がってもいいかもしれない。なぜなら、
着後、ホテルに入るよりもいち早く、われわれはタイ料理屋に直行するからだ。
「プーパッポンカリー」(蟹と卵のカレー)。
これは美味しい! 絶対に美味いですっ!! と、大陸旅遊の大塚添乗員。
もともとカニをカレー風味で炒めたものに、
卵を入れてみてはどうかと思いついた人がいた。
最初はその家族で食べた内輪のメニューだったが徐々に評判となり、
今では、彼の経営する食堂は一大レストラン・チェーンに発展。
この日われわれが向うバンタットン本店は、まぎれもなくバンコク一の評判の店だ。
毎日、ここだけでも、テーブルでいただく大皿300皿を売り上げる。
(下記URLをご参考……)
http://www.bangkoknavi.com/food/8/
だが、このカレーに並んでお勧めしたいのは……

続きを読む

カテゴリー: 大いなる生命とこころの旅 | コメントする

仏たちの微笑む国 0

その昔、
まだ『理性のゆらぎ』も『アガスティアの葉』もこの世に存在しなかった頃のこと、
3週間(21日間)の予定でインドに行き、
最初に国際線で着いた街でホテルに泊まり、
泥のように眠って起きた翌朝、思った。
「ああ、あと20日ある……」
それほど、私にとって、インドの旅は緊張を強いられるものだった。
だが、今回はタイ。
高まる気持ちを抑えきれず……

続きを読む

カテゴリー: 大いなる生命とこころの旅 | コメントする

アダムの肋骨・番外編2

ある種の芸能人をみていると、
その皆さんはいかなる悲惨な状況も笑いのネタに変えるという才能をお持ちなようだ。
怪我をした、事故にあった、病気をした、離婚した……
それらの状況は普通の人にとっては苦痛に満ちたものであるはずなのだが、
彼らはそれをも笑いに変え、人生そのものを笑い飛ばす。
実は、そういう人がいるのである。
……スタッフのなかに。
今回の事故を語ることを私に躊躇させていた一因も、彼女にある。
きっと笑うに違いなかったからだ。
実際、私は言葉でこれを言うことができなかったので、
スタッフもブログの内容を読み、事故のことを知った。
……が、彼女は、それに激しく反発した。
「そ・ん・な・バカなっ!」
つまり、一見、普通に起きて仕事をしているように見えるのに、
そんなことになっているとは信じられないというのだ。
そこで、彼女はいろいろなことを言って、笑いをとった。
「ダメだ! 笑わせるな!!」
そう言っても無駄だった。
彼女にとっては、すべてが笑いのネタだ。
……というより、人生そのものが笑いだ。
私の不幸も、そして自分の不幸さえも。
キミはよくそんなことを経験して普通に生きていられるな、みたいなことでも、
彼女は常に、それらをも笑い飛ばしてきた。
その彼女にも、この度のことが現実であることは、
徐々に受け入れざるを得なかったであろう。
部屋に来れば、病院でもらってきた塗り薬やはり薬、飲み薬が山ほどあるし、
私自身も大きなコルセットを巻いている。
そうして、笑わされる度、痛そうな顔をしている。
それでも、もしかして彼女にとって、それはまだすっかり現実ではないのかもしれない。
なぜなら、今だに彼女は私を笑わせるからだ。
いつの日か、私が死のうというときも……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする

アダムの肋骨・番外編1

この度の事故のことは、
言えばさまざまな方にご心配やご迷惑をおかけするに決まっていたので、
当初、なんとか隠しおおせないかと考えた。
実際、私の両親はまだ、このことを知らない。
しかし、日常生活や仕事への影響が大きすぎたので、
他の皆さんに対して隠すのは諦めた。
そういうわけで、スタッフがこれを知ったのも、事故後数日が経ってからであった。
ブログに書いてからは、たくさんの方からさまざまなご意見・ご感想をいただいた。
まず、このような私事でご心配をおかけし、大変申し訳なかったのであるが、
何人もの方からいただいた同じご質問は、
「タクシーが猛スピードで現れ、激突するまでの間、
スローモーションで見えませんでしたか?」
というものだった。
さらに、そういわれた方のうち何人かは、
自分のときはそうであったといわれたのである。
そういう話を、誰もが何度かは耳にするものだ。
「息を引き取る直前、人は生涯のさまざまな光景を一挙に見る」
というのも、これに似ているが、
しかし少なくとも今回の事故に関して言うならば、その種のことは起こらず、
猛スピードで突入してきたタクシーは、やはり猛スピードのままなのであった。
したがって、あっという間もなく二台は衝突、
そして、あっという間もなく私の乗った車は電柱に激突した。
人はいかなる事象も、その人、その人の意識レベルで享受し、解釈するわけだが、
いつもばたばたしている私には、
スローモーションで電柱に激突するような、
そんな“風雅な”ことは起こらなかったのである。
したがって、将来私が死ぬときも……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする

アダムの肋骨19

仮に将来、今のように一人、またおひとりと瞑想を教えるだけではなく、
もっと大きな規模で何かしら人の役に立つことができるようになったとしたら、
それは一見、私の仕事のように見えるかもしれないが、
それまでに助けてくださった皆さん全員の仕事であったといえる。
そのとき、その皆さんは待ちくたびれ、退屈して、
他のことをしておられるかもしれない。
私はまだ、皆さんにお教えするべきことの1割も教えてないが……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする

アダムの肋骨18

巡礼のため、車を出してくださったり、
プージャの度、お花の用意や祭壇の片づけを手伝ってくださったり、
その他、もっと人目につかない方法で助けてくださっている方たちには、
いつもいつも感謝のしようがない。
しかしその代わり、この皆さんには、聖者や神々が言葉を賜られることがある。
『わたしの仕事を手伝い、わたしの弟子を助けてくれているあなたには……』
といった言い回しが予言のなかに登場するとき、
聖者や神々がこうしたことをちゃんと見ておられて、
私が上手く言えずにいることを表現してくださっているのだと、
私には分かってしまう。
今回、運転していた方に怪我がなかったのも……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする

アダムの肋骨17

こうして私は、今回も、肉体の痛みや、
体が不自由であることの意味を、少しだけ学ぶこととなった。
これからまだ、ある程度の期間運動はできないだろうし、
行動範囲は限定され、あるいは思いきり話したり、笑ったりすることもできない。
寝返りをうとうとするときの唸り声で、朝、目が覚める。
しかし、このような経験をしながら、
生命の苦しみや悲しみを理解するということを、
少しずつでも学ばされているように思われる。
また、私の身近にいて、現在体が不自由で苦しんでおられる方たちも、
結果的に自由を取り戻していかれるのではないかというような感覚が、
私のなかにある。
科学的根拠がなくとも、
なにか普通でないことが現実に起こる前に感じるようなわくわく感があるのである。
それはちょうど、『理性のゆらぎ』の原稿を書いたとき……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする

アダムの肋骨16

“運命”という要素についてもう少しだけ思い返してみれば、
あの日の朝、通常ではあり得ない方からの電話を受け、
では改めてお目にかかって、とすればよかったにも係わらず、
その問題について1時間を費やし、論じた。
その長さが一分長くても、一分短くても、いや、その差がたったの10秒でも、
あのタクシーにちょうどぶつかることはなかっただろう。
あるいは、その後かかってきた2本の電話のうち1本がなくても同じことだ。
まったく気づかぬまま、あるいはヒヤリとしたかもしれないが、
すべては過ぎ去り、二度と同じ危険はやって来なかったに違いない。
あの状況で、運転手が渋滞を避けるため、道を迂回しようとしたのも当然だった。
迂回路が混んでいたのは不運だったが、
しかし、運転していた彼女はそれを見るや即、主要道路に戻ろうとした。
素早い判断で、何度かこれを試みようとしたができず、
そうして、まるで決められていたかのように、
タクシーが猛スピードで突進してきた。
速度制限をはるかに超えるであろうその車が突然視界に現れたときには、
いかなる注意力や技術力をもってしても、これをかわすことはできなかっただろう。
むしろ、運動神経の優れた人だったからこそ、
あの程度の事故で済んだともいえる。
『おまえはもう、死んでいる……』
『えっ……!?』
という、昔好きだった漫画のセリフを、
私はまさに、地で行こうとしていたのだ。
あるいは、先日の金環日食の直前、
これを見ないほうがよいという内容のブログを掲載したが、後日、
掲載が遅すぎる、(ちゃんと準備ができなかったのは)あなたのせいです、
という内容のメールを(冗談の方のも含め)いただいた。
そうした方たちの念を、私は通常、あまり気にしないが、
しかしそれすらも、何の影響もないというわけにはいかないのかもしれない。
そうだとすれば、この世の中の誰もが、
無数の肯定的な念と、やはり無数の否定的な念の両方にさらされ、
常に影響を受けていることになる。
いつも、セミナーなどのときにできるだけ詳しく解説しようとしていることだが……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする

アダムの肋骨15

もしかして読者の皆さんは、疑問に思われるかもしれない。
私の交通事故は、予言されていなかったのかと。
もちろん、予言されていた。
何人もの聖者や神々によって、何カ所にもわたって。
しかしそれは、パリハーラムのおかげで軽減されると書かれていた。
そんなこともあり、例によって、私はその記述を忘れていた。
一体に、パリハーラムがどのような効果をもたらしたのか、
はっきり分かることもあれば、分かりにくいこともある。
それを行なったときと行なわなかったときの、両方を経験することはできないのである。
しかしいずれにしても、聖者や神々の記述のなかには、
二通りのものがしばしば見られる。
一つは、『パリハーラムのおかげで、これについては回避されるだろう』
というものだ。これにはしばしば、
『しかしそのとき、あなたはそれに気づくであろう』
といった記述がつけ加わることがある。
もう一つの記述は、
『このパリハーラムによって、この件は軽減される』
というものだ。
しかしこれにしばしば付随する記述は、
『だが、それを完全に避けることはできない』または、
『いずれにしても、あなたはそれを経験しなければならない』
というものだ。運命により、それは経験されねばならない。
しかしパリハーラムにより、神々の恩寵と貧しい人びとの祝福は、
これを著しく軽減するだろうというのである。
事故については、聖者アガスティア、マッチャ牟尼、聖仙アールティ、ムルガ神、
その他の聖者や神々が同様の予言をしておられたので……

続きを読む

カテゴリー: 人生 | コメントする