福音書のなかには、イエスが行なった癒しの記述がさまざま見られる。
実際、2000年前にユダヤ・パレスチナ地方に現れたこの神人は、
ほとばしる愛の思いから、そして自らの顕現のため、
数多くの奇跡的癒しを行なったことであろう。
それらのなかでも特筆されるのは、
死者を蘇らせたという記述である。
イエスが教えを述べ伝えに出ているとき、
友人であるラザロが危篤に陥る。
家族からその知らせを受けたイエスは、しかしすぐに向かうことをせず、
ラザロが眠っていると弟子には言う。
そうしてラザロの許に帰ったときには、
すでに亡くなって4日が経っていた。
このときの遺族の心中は、察するに余りある。
見も知らぬ人びとを、
自らの危険に省みず、安息日にすら癒してきたイエスが、
なぜ、自分たちのときだけ救ってくださらなかったのか……。
実際、イエスに対し、そのようなことを家族は口にするのである。
ラザロの墓の前に立ったイエスは、心動かされ、
涙を流されたと福音書には書かれている。
その記述は、普遍の意識状態にありながらなお、
相対世界において日常の生活を送っていたイエスの人間性を端的に表すものなので、
私は好んで引用するが、
私たちの目指そうとしている意識レベルのひとつの事例として、
ヴェーダの認識論の立場から、
他の聖者の例と対比させながら、整理して解説したい。
また、実は聖書にはもう一カ所だけ……
イエスが涙を流されたという記載がある。
こちらのほうはラザロのときのような個人的な状況ではなく、
より人類の未来と深く関係している可能性があり、興味深いので、
8日に併せ、解説する。