以上のような話を、私は何かの機会に、
たまたま上智大学の元理事長から聞いた。
記憶が違っていたら、それは私の責任であるが、
このように国の法律に則り、修道生活も営まれる。
そうしていないと、万が一にも、
国による宗教への介入の口実を与えてしまうことになりかねない。
もともと、政治と宗教は、よって立つ基盤が違うので、
互いに相いれない場面が起こりうる。
たとえば、国防のため、健康な成人男子に兵役の義務を課するということは……
あってほしくはないが、現実にはそういう政策をとる国もある。
お隣の韓国はそうなのであって、
わが国の女性たちが好む韓国の俳優のなかには、
徴兵逃れをして罰せられた人もいた。
韓国においては、健康な成年男子は、
国家に対する勤めとして徴兵に従うべきとされるが、
それが個人の宗教的信念と相いれないということもあるだろう。
そのような相剋が生じた場合、互いが領分を犯さぬよう、
賢明な譲歩をし合う必要がある。
たとえば、かつてアメリカが徴兵制を敷いていたとき、
修道士や、その志願者についてはこれを免除したという。
もしそのような配慮がなければ、
政治・宗教の両方にとって道は困難なこととなる。
いまだかつて、政治と宗教が同じ土俵であい争って、
よいことがあった試しがないのである。