最近のメルマガ(第15号)にも書いたように、
広島学院では、他の学校で道徳と言っていた「倫理」という科目があり、
これをカトリックの神父が教えていた。
われわれの学年は大木神父が担当し、彼はクラス担任も持っていた。
倫理の時間には、たまにキリスト教について学ぶこともあったが、
内容の多くは一般的な倫理教育だった。
キリスト教について語られるときも、
これを信じなさい、
できれば洗礼を受けなさい、という姿勢が感じられたという記憶がない。
かりにそのようにして教育を“布教”の一環と位置づけようとしたとしても、
生徒らの知的水準は意地悪なほど高かったので、無駄だっただろう。
そんななか、当時から大木神父が一貫して言っていたのは……
恵まれた環境で、恵まれた教育を受けることのできる諸君は、
それだけ社会に役立たなければならない、ということだった。
そうしてもらわないことには、
神父である自分が、こうして教師をしている意味もなくなってしまう、
そんなことを神父は感じていたに違いない。
そして、それを容易になし得る職業として具体的に彼が挙げていたのは、
医者と政治家、そして教育者の三つだった。
たしかに、これらの職業にある人びとは、
社会に大きな貢献をしやすいといえるかもしれないが、
しかしそれも、それぞれの意識レベルに応じての話で、
サラリーマン化した医者・政治家・教育者は、
普通の会社でモノを作ったり、営業をしたりしている皆さんと、
特に変わるところがない。
逆に、普通のサラリーマンも、
それぞれの意識に応じて、社会に多大な貢献をしておられるに違いない。
ちなみに、大学のときの友人で、公立中学の先生になった男がいて、
卒業後、初めてきた年賀状に、
「教師って、本当に素晴らしい職業ですっ!」
と書かれているのを見たとき、
ほのぼの、幸せが伝わってきたのを思い出す。