高校3年間で清原とともに甲子園を沸かせた桑田は、
結局、可能な5回すべてで甲子園に出場し、
うち4回、決勝に進出、2回優勝するという離れ業を演じている。
あまり知られていないが、彼は打者としても非凡で、
甲子園における通算本塁打数第一位は清原、第二位は桑田(6本)である。
1985年のドラフト会議は、
当然、清原・桑田の行き先に国民の関心が集まっていた。
清原が巨人入りを熱望していることは知られていたが、
それに対し桑田は……
早稲田大学に進学することを発表した。
非凡とはいえ、才能において江川や清原ほどではない桑田が、
とりあえず大学を出ておこうと考えたとしても、決して不自然ではない。
……が、続くドラフト会議で、巨人が桑田を指名、
桑田は進学の意志を撤回し、巨人入りを表明した。
これを受け、当時のPL学園の中村監督は、
「このように育てた覚えはない。
私の教育が間違っていた」と言って監督を辞任し、
一方、意中の巨人からフラれた形となった清原は、
記者会見の席で悔し涙を流した。
ところで、今、これを読んでいる皆さんの多くは、
いったい桑田の何が悪かったのか、意味が分からないかもしれない。
早稲田に進学しようと思っていました。
でも、せっかく巨人が指名してくれるんなら、
やっぱり巨人に入ります、と言っただけだと私も思った。
ところが、これがドラフト逃れであるとして、騒ぎになった。
江川のときほどではなかったものの、記者会見の席上、
「うまく行ったな、という気持ちはありますか?」
などという質問が飛んだ。
マスコミ報道は公正中立を旨とする、とはよく言われるが、
記者によっては個人的感情を充分に入れてくる。
当然のことではあろうが、そうした社会との関わりのなかで、
ヒーローたちの運命も少しずつ変化していくことになる。