桑田真澄が登場したのは、
池田高校の超強力打線が甲子園を沸き立たせていた、まさにその時代だった。
池田は、それまでの、バント・スクイズ等の小ワザを手用しながら、
小数点差を守り抜くという高校野球の常識を覆す豪快な攻撃野球で、
甲子園を席巻していた。
しかも、県外からの野球留学生をとらず、
“甲子園”を至上命題としない校風が、好感を呼んでいた。
その池田のエースで4番・水野雄仁は、すでに甲子園のヒーローだったが、
桑田はそれに劣らぬ才能の持ち主だった。
が、それは江川のような超弩級のものではなく、
彼はどちらかといえば努力型の人だったと私は思う。
その上、同じチームには清原という怪物がいて、
最初投手だった清原のあまりの才能に圧倒された桑田は、
一年生時、自分は外野に回ろうと思ったというくらいである。
しかし、監督が選択したのは、清原を一塁にして打者に専念させ、
桑田を投手として残すというものだった。
1983年、池田高校の水野が3年、PL学園の清原・桑田が1年の夏、
両者は甲子園で激突した。
私の記憶では、試合前、不敵にも桑田がこう言い放ったことが印象深い。
「池田の弱点を見つけた」
そうして実際、試合当日、何が起きたかといえば、不幸にも……
桑田は水野の頭部に死球を当ててしまったのだった。
水野雄仁は、投手としても才能を発揮していたが、打者としても非凡で、
夏・春連続優勝を遂げ、
3年の夏には甲子園での最高打率記録を更新しようとしていた。
が、この死球を境に打率は急降下、
記録は平凡なものとなる。
また、試合自体も、PLが池田のお株を奪って打ち勝ち、
池田高校の甲子園での最盛期は終わりを告げるとともに、
逆に、清原・桑田のPL時代が始まることとなった。
あのときの死球自体は、もちろん、故意ではなかったに違いない。
だが、「池田の弱点を見つけ」、それは何かを言うことなく、
実際に水野の頭に当ててしまったのは、
水野にとっても、桑田にとっても、不運だった。
水野は、この年のドラフト会議で巨人に一位指名され、入団するも、
結局、その非凡な才能に見合ったほどの活躍をすることなく引退した。
われわれはスポーツの場で、数少ない栄光の場面だけを見るが、
それに隠れて無数の、地道で、または不運な場面がある。
若くして甲子園を沸かせ、世間を注目させるようなヒーローたちにも、
通常のわれわれと同じように、運・不運の両方がやってくる。