リオデジャネイロ・オリンピック デイリーハイライトという番組をNHKがやっていたので観てみたところ、山口香さんが出ていた。
この方の名前を知っている人は、一般にはそう多くないのかもしれない。
女子柔道の草分け的存在である彼女が柔道を始めた頃、
柔道をする女子はほとんどおらず、訪ねていった道場では入門を断られたという。
しかし嘆願を重ね、「男子と同じ練習ができるなら」という条件で入門したのが、
小学校一年のとき。
どうしても柔道をやりたいという気持ちがいったいどこから湧いてきたのか、
当時本人にも十分には分からなかったという。
ただ、強くなっていく過程で、体力や技術よりも、
人間として成長していく様が他のスポーツとは違うように、彼女は感じた。
周りに女子はいないので、当然、練習相手は全員男子。
周囲の男子を次々打ち負かしていったので、
彼女に負けて柔道をやめる者が続出した。
今では驚くべきことであるが、
実は当時、日本国内では女子柔道の試合は行なわれていなかった。
講道館の創始者・嘉納治五郎は、早い時期から女子にも柔道の道を開いたが、
おそらくは人格の陶冶に主眼を置いたのであろう、
試合というものをさせなかったのである。
女子柔道においては、挨拶は「ご機嫌よろしゅうございます」、
足を蹴れば「お痛かった?」などといっていた時代が長く続いた。
そんななかでも山口は日々欠かさず練習を続け、日本で女子柔道の試合が始まるや即、
全日本体重別選手権を制したが、そのとき弱冠13歳。中学二年のときである。
その後10連覇したわけであるから、およそ女子のなかに敵はいなかった。
ついた異名が『女・姿三四郎』。
漫画『YAWARA』のモデルは、谷亮子ではなく山口香である。
日本においてすら試合のなかった女子柔道なので、
世界選手権や、ましてオリンピック種目になどなろうはずもなかった。
初めて女子柔道がオリンピックに登場してきたのは、1988年のソウル大会である。
それも正式種目ではなく、公開競技であった。
山口香は日本選手権10連覇をなし遂げた後であり、
すでに選手としての全盛期を過ぎていた。
さて、NHKの番組のなかで、ゲスト席の真ん中に座っていたのが岩崎恭子だった。
バルセロナ・オリンピック、史上最年少の14歳で金メダルを得、
『今まで生きてきたなかで、いちばんしあわせでした』と言った、あの子である。
そのとなりの山口香は、「ソウルオリンピック銅メダリスト」として紹介された。
日本の柔道家たちが、まるでメダルとは思っていないかのような銅メダル。
もし、その全盛の時代にオリンピックがあれば……
金メダルの2、3個はとったかもしれない。
人生もまた、違ったものとなったかもしれない。
しかし視聴者の側のそんな気持ちはどこ吹く風のように、
山口香はあくまで礼儀正しく、にこやかに紹介されて、
番組に臨んでいったのであった。