1981年6月24日、現在では「ご出現の丘」と呼ばれる丘に少年たちがさしかかったとき、事件は起きた。聖母マリアが丘の上に現れ、微笑み、手招きをしたのだった。
翌日、6人の子供たちが同じ場所で、同じ貴婦人を見た。その翌日、貴婦人は、「私は幸いなる聖母マリアです」と自ら名乗られた。ご出現は、今も続いている。
当時この国は社会主義国だったので、官憲はこれを人心惑わすものとして取り締まろうとした。そのとき、子どもたちを守るようにして投獄されたのが、主任司祭であったヨゾ神父である。神父は、今はメジュゴリエから車で40分ほど離れたところにある聖フランシスコ修道院におられる。
神父にお会いできるかどうかは、やはり直前まで分からなかった。情報はその都度変わり、お会いする時間帯も変わった。この日、午前11時、部屋に入って来られるヨゾ神父の姿を見たとき、初めて私は胸をなで下ろしたのだった。
6年前と比べて、神父はさらに聖徳の円熟味を増されたようだった。その口から、一言、二言と言葉が洩れる。通訳がこれを英語に訳し、私が日本語に訳している間に、神父が言葉を継がれる。
しばしば、聖なる方は多くを話さない。その人がたとえ完全に黙っていても、一緒にいるだけで、われわれは影響を受ける。
神父は、かつてここに流された殉教者の血が、今、聖母マリアのご出現と人びとの回心という形になって実を結んだと話された。
この場所で、人知れず、信仰のために死んでいった修道士たちがいたのである。一人として、歴史に名を留めてはいない。しかし今や、彼らは神の国の食卓を囲み、また、こうして巡礼に来たわれわれを導き、祈ってくださっているに違いない。
話の終わりに、神父は一人ひとりを祝福してくださった。ロザリオを手渡し、一人ひとりの頭に手をおいて、われわれと、日本で帰りを待つ人びとの幸せを祈ってくださった。何人かの方は、お話を聞きながら、すでに涙を流しておられた。
神父は現在、メジュゴリエから引き離され、地元の孤児院を運営しておられる。私はつい、街で買い物するのであればここの売店で買うよう、皆さんにお願いした。収益が、すべて孤児院のために使われるからだ。
売店のシスターは、日本からこれだけの巡礼団が来たのは初めてと、喜んでくださった。彼女らには、涙を流す「秋田の聖母マリア」のお写真を差し上げた。
メジュゴリエの初夏は、すでに盛夏のようだった。陽が少しでも和らぐのを待って、ご出現の丘に登る。かなり急峻な岩場だが、何千万という人びとの巡礼により、岩は磨耗し、丸く光っている。贖罪のため、これを裸足で登る者もいる。
途中、皆でロザリオを一環となえ、ご出現の場所でしばしの時間を過ごした。その間、あっという間に緑の平野の向こうに陽が沈み、自然の荘厳なドラマを見せられる。気がついたときには、3時間が経過していた。
肉体の目には、聖母は見えない。だが、一人ひとりが深く満足して山を下りた。
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夕焼けの聖地