アダムの肋骨17


こうして私は、今回も、肉体の痛みや、
体が不自由であることの意味を、少しだけ学ぶこととなった。
これからまだ、ある程度の期間運動はできないだろうし、
行動範囲は限定され、あるいは思いきり話したり、笑ったりすることもできない。
寝返りをうとうとするときの唸り声で、朝、目が覚める。
しかし、このような経験をしながら、
生命の苦しみや悲しみを理解するということを、
少しずつでも学ばされているように思われる。
また、私の身近にいて、現在体が不自由で苦しんでおられる方たちも、
結果的に自由を取り戻していかれるのではないかというような感覚が、
私のなかにある。
科学的根拠がなくとも、
なにか普通でないことが現実に起こる前に感じるようなわくわく感があるのである。
それはちょうど、『理性のゆらぎ』の原稿を書いたとき……


「こんなものを、一体誰が読むんですか」と何人もに罵倒されたけれど、
結局それは人びとに読まれていったような、
説明のつかない予感だ。


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