“運命”という要素についてもう少しだけ思い返してみれば、
あの日の朝、通常ではあり得ない方からの電話を受け、
では改めてお目にかかって、とすればよかったにも係わらず、
その問題について1時間を費やし、論じた。
その長さが一分長くても、一分短くても、いや、その差がたったの10秒でも、
あのタクシーにちょうどぶつかることはなかっただろう。
あるいは、その後かかってきた2本の電話のうち1本がなくても同じことだ。
まったく気づかぬまま、あるいはヒヤリとしたかもしれないが、
すべては過ぎ去り、二度と同じ危険はやって来なかったに違いない。
あの状況で、運転手が渋滞を避けるため、道を迂回しようとしたのも当然だった。
迂回路が混んでいたのは不運だったが、
しかし、運転していた彼女はそれを見るや即、主要道路に戻ろうとした。
素早い判断で、何度かこれを試みようとしたができず、
そうして、まるで決められていたかのように、
タクシーが猛スピードで突進してきた。
速度制限をはるかに超えるであろうその車が突然視界に現れたときには、
いかなる注意力や技術力をもってしても、これをかわすことはできなかっただろう。
むしろ、運動神経の優れた人だったからこそ、
あの程度の事故で済んだともいえる。
『おまえはもう、死んでいる……』
『えっ……!?』
という、昔好きだった漫画のセリフを、
私はまさに、地で行こうとしていたのだ。
あるいは、先日の金環日食の直前、
これを見ないほうがよいという内容のブログを掲載したが、後日、
掲載が遅すぎる、(ちゃんと準備ができなかったのは)あなたのせいです、
という内容のメールを(冗談の方のも含め)いただいた。
そうした方たちの念を、私は通常、あまり気にしないが、
しかしそれすらも、何の影響もないというわけにはいかないのかもしれない。
そうだとすれば、この世の中の誰もが、
無数の肯定的な念と、やはり無数の否定的な念の両方にさらされ、
常に影響を受けていることになる。
いつも、セミナーなどのときにできるだけ詳しく解説しようとしていることだが……
過去における膨大なカルマや、果たすべきダルマがどう絡み合い、
現象界で何が、どうおきてくるのかは、複雑多様にして押し測りがたく、
われわれの理性の範疇を超えている。